こうして思い出すのは久方ぶりだった。あの忌まわしい家督争いが嘘だったように、上杉家中は今や誰もそのことは口にしない。あの、兼続までも。
いつも自分の隣で何かに憑かれたように、まるで浮かされるように話し続ける長年の家臣を思い出し、景勝は少しだけ笑った。懐かしい人の香りがするような書状を前にそんなことを思い出している自分が可笑しかった。
 
あの乱で死んだ義弟の遺品は、何一つ景勝の手には渡らなかった。敗軍の将の末路としては当然であり、それ以上に皆が皆、あの戦のことを忘れたいのだ。景勝は自らにそう言い聞かせ、そして、忘れた。そのつもりだった。
 
当時、敵方に回った筈の忍が、煤けた書状をその手に握り締めて、大層困惑した顔で自分の前に現れるまでは。
 
 
 
生など酔中の夢だと語ったのは今は亡き義父だ。
 
その通りだ、と景勝は思う。酒などに頼らずとも、全く生は、人の記憶は当てにならない。
景虎の書状を届けた忍は期せずして景勝の記憶の呼び水となった。あの忌むべき戦の記憶が己にはある、その事実に景勝は何よりも恐怖した。乱を勝ち抜き、故に今自分は此処に居る。
 
しかしその確信こそ、酔中の夢に過ぎなかったのではないか。
 
ならば、彼の男は何故死んだ。
 
「これを殿に。景虎様はそれだけを仰られたんで」
 
彼は消え入るような声でそれだけを言って、消えた。
 
 
 
 
 
押し戴く勇気も打ち捨てる自信もなく、暫く濡れ縁にぽつんと置かれたそれは、いつしか隠されるように文箱の奥底へ押し込まれ、そのままとなった。
戦の混乱で随分汚れてしまった外見にも拘わらず、美しい折り目のついた書状は景勝を慌てさせるのには充分だったのである。
 
これは罰に違いないと思ったのだ。
 
彼を信じきれず、家督争いという野心を剥き出しにした闘争に追いやった自分の罪が克明に記されているのだと。
 
「あれ」からは逃れられぬ。
文箱の奥にひっそり在り続ける書状は、静かに景勝を苛み続けているかのようだった。
 
それを自覚する時、景勝は知らず、兄を廃嫡して当主の座に収まった義父の姿を思い浮かべる。自らの悔恨と不徳を語る義父の姿は、それでも実に穏やかなもので、いつか――己の罪から目を背けられるほどの無邪気さを身につけることが出来たら、彼の書に目を通す日もあろう。
そう思えることだけが自分にとっての救いだと信じ、祈っていた。
 
 
 
「間も無く夏が来ますな」
城内での他愛もない遣り取りを聞いた時、妙に心が疼くと思ったのだ。
 
 
 
一層緑が深くなった山々を見遣り、その言葉に自分は軽く頷いて――そうだ、かつても自分にそう語りかけた人が確かに居た。
 
戦のこと、上杉のこと、天下の情勢のこと。
背負ったものが余りに多くてそんなことすら互いに口に出せなかったあの義弟は、その隙間を埋めるかのように様々なことを自分に知らせてくれた。季節の変化も雨の香も、気付かねばさっさと通り過ぎてしまう。それらを常に己に齎してくれていたのは、他でもない彼の言葉ではなかったか。
 
それを思い出した瞬間、景勝は文箱を手繰り寄せ必死に中を探った。
罵詈雑言が書かれていても構わない。そう思いつつも、そんな下らぬものとは違う。景勝には確信があった。
あの書状は今、開かれねばならない。
きっとそこには自分が見過ごしている何かが認められている。会いたい、というのとはもっと違う。
 
それは景虎が生きていた時ですら感じたことのない彼の言葉への渇望だった。
 
 
 
未だこびりついた泥に浮かぶ手の痕。それが彼の人のものだったのか、或いはこれを運んでくれた忍のものなのかは判別付かぬ。今更知ろうとは思わぬ。
ぱさぱさに乾いた泥を欠片も落とさぬよう注意深く紙を捲り、景勝は絶句した。
 
痛みを感じる程懐かしい、そして見慣れた彼の人の手跡で書かれた自分の名。その横に認められた彼の花押。
 
それ以外には何も記されていなかった、何も。
 
目を凝らすと書状に点々と付いた泥のような汚れに混じって、躊躇い傷のような墨の痕が見える。
あの几帳面な男が、まさか自らの筆から滴る墨をそのままにしておく筈はない。
 
突如滲んだ視界の中で忍の言葉を思い出す。
あの忍は確かに言ったのだ、これを殿に、と。
 
己の名しか書かれていないこの書状を、彼は、確かに、自分の為だけに送ったのだ。
 
 
 
 
 
木々の緑より暮れゆく陽より、確かに美しいものはある。
あの薄汚れた戦場、醜い家督争い、それを語る彼の言葉こそを己は聞きたかったのだ。ふと口をついて出たような静かな静かな、美しい口調で。
 
我々の間の横たわる到底埋められぬもの。そして恐らくは、兼続にすら分からぬ上杉の養子としての誇り。家を統べる者の孤独。
義父は、きっと義父にしか分からぬ兄の赦しを既に受け取っていたのだ。不甲斐無い己は、そんなことすら、自分が殺した義弟に教えて貰わねばならなかったとは。
 
だが、それを伝えようとするまっさらな書状は、見えぬ文字で語られる彼の言葉は、ああ、やはり何よりも美しいのだ。
 
これは酔中の夢などではない。現実だ。御館の乱は確かに在り、景虎は腹を切って死んだ。
 
彼の男は、自分にこれを伝える為に死んだのだ。
 
 
 
 
 
兼続に会いたい、そう思うことをきっと彼の人は許してくれるに違いない。泥に浮かぶ誰のものとも判らぬ指の痕を辿りながら、景勝は兼続が姿を見せたらもう夏が来ることを知らせてやろうと思った。
 
そう告げる自分の言葉は、きっと彼の人のように静かに、もしかしたら実に美しく兼続に伝わるに違いなかった。

 

 

(お試し読み用ですので、いつも以上に話が繋がってないです)