玄関先に立って傘を手にしたまま、弁丸は軒下から身を乗り出すようにして空を見上げた。
 
「けさは、あんなによいおてんきでしたのに、つゆはこれだから」
 
雨が降ったことを別段悲しむ意図は全くないが、天気の話をまるで侭ならぬ重大事のように口にすると、少しだけ大人になった心持ちがする。
だって大人は、いつだってそう言うじゃないか。
雨なのに元気だね、とか、寒いから気をつけてね、だとか。そんな言葉、まだ弁丸は誰かに向かって使ったことはない。だから傘を広げる前に、もう一度言ってみたくなったのだ。
 
「このあめではまさむねどのも、きっと、なんぎしておられましょう」
 
この使い方で当っているのかな?と疑問にも思ったが、わざわざ言葉にしてみたら、それは正しく本当のことのような気がして、元気が出た。
 
 
 
朝の天気予報が梅雨の晴れ間と誇らしげに伝えているのを真に受けて、傘を持たないで出かけてしまった政宗は、多分、困っているに違いないのだ。政宗は雨が降ったら傘を差さないと外を歩いてはいけないと思っているような気が、弁丸にはする。
それはすこしおかしなことです、と弁丸は思う。
 
公園で遊んでいても、雨が降ると「帰るぞ」なんて言ったりするのが、もうおかしい。兼続のことを政宗は「あ奴は何故ああも空気が読めぬのじゃ」とよく怒るけど、まだまだ遊び足りない弁丸を雨如きで帰らせようとするなんて、そっちの方が「くうきがよめておりませぬ」そう少し思い出し怒りもしてみる。
そういえばずっと前、買い物の途中で通り前がぱらつき始めた時だって、「糞」とどうにもならない悪態を天に向かって吐きながら、店の軒下で雨が止むまで並んでジュースを飲んだっけ。おやつでもないのにジュースが飲めたことに異論はないけど、濡れたって死んだりなんかしないし、傘を差すのは色々と邪魔なことなのに。
 
もういっぱいいっぱいです、もうすぐ支えきれなくなりますよ、そう言いたげなどんよりとした雲が空を覆ってる時だって、弁丸は傘なんか持たずに遊びに行く。(本当は雨が少し降ってても、そのまま行くけど、それは内緒だ)
だからちょっと前に政宗に買って貰った、緑の、カエルを模った傘は、弁丸の小さな掌にはちっとも馴染まない。
 
 
 
それでも勢いよく広げた傘を雨の中に差し出したら、ぱらぱらと雨粒がビニールに当たる音が響いて、傘は健気にも馴染みの薄い持ち主を雨粒から守ろうと頑張ってくれる。それを上目で見上げながら弁丸はわざわざ溜息を吐きつつ(だって、よく大人はこうするものだって弁丸は知っている)まさむねどのにもこまったものです、と呟いてみた。
 
あめは、すきなのに。ぬれるのは、すごくおもしろいですのに。
 
ぱらぱらと雨を弾く音の中、小さく独り言つのが段々楽しくなってきて、弁丸は歌でも歌うように「これだからまさむねどのは」なんて言いながら歩き出した。
 
きっと楽しいのは、雨の所為。
それか、雨に煙る誰もいない夕暮れの狭い路地を歩いている所為なのだ。夕方になれば帰ってくることが決まっている人をわざわざ迎えにいくことがこんなに自分をうきうきさせているなんて、それはちょびっとおかしなことだと自分でも思うから。
 
 
 
小さな踏切を渡った傍の小さな駅には、やっぱり誰もいなかった。
ううん、改札の手前に白い仔猫が一匹だけ雨宿りをしていたのだけど、「ねこです!」弁丸が叫ぶと仔猫は何も言わずにちらりと弁丸とカエルの傘を見上げ、面倒臭そうに改札をすり抜けてホームの方に逃げてしまった。
 
「そこは、きっぷがないとだめなのですよ?」
 
姿が見えなくなった猫に小さく声を掛けながら、弁丸は傘も畳まずに改札の前で政宗を待つ。早速手持ち無沙汰になって傘をくるくる回してみたら、乾いた床に点々と水滴が落ちた。
 
 
 
一時間に数本しか電車が来ない無人駅だから、利用客は滅法少ないし、そもそも皆電車の時間を知っているから中途半端な時間に駅にやって来て数分も、十数分も電車を待つ物好きな人なんていない。
そんなことちっとも分からない弁丸は、只管傘をくるくる回して改札の向こうをじっと見詰めるだけだ。遮断機の音に我に返ると、改札の向こうから何人かの人が歩いてくるのが見えた。
 
「まさむねどの!」
 
居るかどうかも分からない待人の名を呼んだのだけど、答えてくれる人は誰もいなかった。皆さっきの仔猫みたいに、弁丸を一瞥した後、黙って通り過ぎていくだけだ。
 
「…まさむねどの、おりませぬか?まさむねどの?」
 
あのね、あめはすきなのです。かさがぱらぱらいうのもおもしろいですけど、かさなんかささなくたって、ほんとはすごくおもしろいのです。べんまるはひとりでえきまでこられたのです。まさむねどのがぬれるとかぜをひくって、いつもおっしゃるから、ちゃんとかさをさしてむかえにきたのです。
 
どうしよう、弁丸は傘の柄を握り締めるとその場にゆるゆる腰を下ろした。まさか会えないなんて。
 
政宗は今日に限っていつもとは違う帰り道を通って、もう帰ったのかもしれない。こんな風に迎えにくるのなんて初めてだから、雨の中色々なところを走り回って弁丸を探しているかもしれない。
ずっとずっとここで待ってる弁丸のことなんか気付かないまま。
もし。もしもこのまま会えなかったら、自分は政宗に雨降りが好きですと伝えることすら出来ないのだ。
 
じわり、と咽喉元に何かが込み上げてくるような気がして、弁丸は慌てて立ち上がると改札を睨み付ける。泣いてはいけない、と思ったのだ。
抱き寄せる手も慰める声もない状態で泣くのは、叱られてそうするよりもっと哀しくて、ずっとずっと怖いこと。
それがわからないほど、べんまるは、こどもではありませぬ!
 
泣くまいとする決意は、自分で想像するよりも固かったらしく、折れそうな程傘の柄を握り締めていることは勿論、踏切が再び音を立て始めたことにすら気付けなかった。到着した電車がまばらに人を吐き出して(勿論弁丸にはそんなこと知る由もなかったのだけど)待ち望んだ人の姿が改札の向こうにやっと現れたのは、弁丸が兎に角気を紛らわせようと、傘の柄の先端についたカエルの人形を必死で弄っていた時だった。
 
「弁丸?」
 
訝しげに、でもちょっと笑って自分の名を呼ぶ政宗の声。弁丸が一番好きな、政宗の声だ。
 
「こんなところでどうしたのじゃ、弁丸?」
 
改札をくぐり、近付いてくる政宗の姿を見詰め、そして。
 
「まさむねどの!」
 
弁丸は傘を放り出して政宗に抱き付いた。多少力が余ってしまい、抱き付いたというより衝突したという言葉の方が相応しい様相になってしまったし、完全に油断していた政宗の口から「ぐっ…」という衝撃と痛みに堪える声が漏れたのだが、正直弁丸にとってはそんなこと大したことではなかった。
 
「まさむねどの、べんまるは!」
 
――おむかえにきたのです、ひとりでこられたのです、かさもさしましたし、あめのひはすきです――政宗の足にしがみ付いたまま、さて何から話そうと迷っている弁丸を政宗は抱きかかえた。
 
「迎えに来てくれたのか?」
 
そう、そうなのです!まさむねどのは、あめがふると、すぐ、かさをさそうとするので!でもきょうはかさがないでしょう?
 
そう言いたいのだが上手く声が出ず、弁丸は唯こくこくと頷くばかり。
 
「一人で来れたのか。弁丸は偉いのう」
 
ですから、えらいのです!ちゃんとかえるさんのかさもいっしょです!
 
政宗の言葉にいちいち頷いてみせる弁丸の首は、大変なことになっている。
わくわくしていたのに、もう会えないような気持ちになって、でも泣くのは我慢して、ぱらぱら雨の音が楽しくて、仔猫が雨宿りしていたけど切符もないのに改札を抜けて――ああ、このたくさんのたくさんのことは、どうやったら上手く伝えられるんだろう。
 
「ちゃんと傘も差して来れたのじゃな。やるではないか」
 
政宗はそう言って放りっぱなしになっているカエルの傘を拾ってくれた。政宗に抱かれたまま弁丸はそれを受け取って、まるで見せ付けるように両手で掲げる。
 
「傘差して一人で出掛けるのは楽しかったか?」
 
楽しいとかちょっと違うけど。とりあえずの笑顔を見せた弁丸に政宗は事も無げに言ってみせた。
 
「弁丸は雨が大好きじゃからのう」
 
はい、だいすきです。
そう答えようとして、弁丸はさっき呑み込んだ筈の涙がまた込み上げてくるのを感じた。折角拾って貰った傘を再び投げ出して政宗の首に縋り付く。
勢い余ってやっぱり今度も、額が政宗の顔面を直撃したのだけど、政宗は何も言わず弁丸の背中を撫でただけだった。
 
きっとあれは伝えなくてもいいことなんだろう、弁丸は幼い頭で、でも懸命に考える。
 
だってほら、大抵のことは政宗がもう話してくれたし、自分は泣いてなんかいないけど、背を撫でる政宗の手は、むずがって泣いてしまう自分を慰める時と同じくらい優しいのだ。
 
 
 
「べんまる、えらかったですか?」
「ああ、偉かったぞ。じゃが」
政宗が言い難そうに言葉を濁す。
「なんですか?」
「儂の傘も持ってくれば完璧じゃったな」
「う?」
 
まあ良いわ。お主が二人分傘を差せ。そう言われながら差し出された傘を今度こそしっかり握って弁丸は首を傾げた。
まさむねどのは、ときどき、とてもむずかしいことをいうのです。だからまさむねどのは、こまるのです。
 
 
 
でもそれも許してあげようと、次の瞬間、弁丸はあっさり掌を返す。
 
「どれ、褒美に帰り道でアイスでも買うてやるか」
 
政宗のその台詞だけは、実に正確に弁丸に伝わったので。
甘い、甘い、色んな味のアイスを思い描きながらしがみ付いた政宗の身体からは、弁丸の大好きな雨の匂いがしたのだけど、やっぱり弁丸にはそれを伝える術はなさそうなのだった。

 

 

(お試し読み用ですよ〜)