幸村を拾った理由と孫市の助言は、恐らく何の関係もない。
「一日中家にいるから気が滅入るんだろ。早いところ嫁さんでも貰ったらどうだ?動物でも飼うとか」
数か月ぶりに会った友人は、対面から政宗が吹き掛けた煙草の煙を掌で払い除けながらそう言った。
空調は利き過ぎているが換気扇だけはサボっているとしか思えない、あらゆる匂いの充満した飲み屋の片隅で、今更孫市が煙草の煙の行先など気にする謂れはないと思ったのだが、煙を除けた手をそのまま隣のテーブルの女共に向かって振ることに使ったところを見ると、元より本気で煙たがっている訳ではないのだろう。四人掛けのテーブルを埋めていた女の内、一人が胡散臭げに孫市を睨み、もう一人が曖昧に過ぎる笑みを返してきた。
勿論そんなことに政宗は興味など覚えないが、軽蔑を通り越してある種の尊敬すら抱かせる孫市の如才なさこそが、自分との決定的な違いなのだろうと思う。勤め人である孫市は、長年の気儘な一人暮らしに加え、日々の糧すら家から一歩も出ないで稼ぎまくっている政宗を羨みつつ、言った。
「いいよなあ、政宗は気楽で」
それは額面通りに受け取るのが馬鹿らしいと思えるほどに実感のない言葉だったのだが、それに対し決定的な否定はしないまでも、首肯もせぬのが人の付き合いというものである。
つまり政宗は、そんなものかと思いながら曖昧に頷いただけだ。
「でもさ、一人は寂しいよな」
此方の言葉は先程よりも多少実感の篭ったものだった。
鼻で笑い飛ばしてやっても良かったのだが、そもそも今日孫市に急に呼び出された理由を政宗は辛うじて思い出す。確か女に振られたとか何とか。
一体何回目だ、と説教するのはもう少し孫市が浮上してからで良いだろう。その割には懲りもせずに隣のテーブルの女共に愛敬を振りまいておる訳じゃが。
「…そうかもな」
落ち込んでいるであろう友人に一応そう言ってやったら、返ってきたのが冒頭の言葉である。
政宗には、一人の寂しさが気を滅入らせる元であるという簡易に過ぎる理屈に頷く道理はない。というか、気が滅入ったことなどない。偏屈では決してないが、不遜という言葉がこの上なく似合うであろう己に、孫市と同じ振る舞いが出来るとは思えぬ。簡単に言えば人に頭を下げることも、女で寂しさを紛らわせることも、ましてやペットに愛情を注ぐことも、考えだにしなかった、ということだ。
政宗が手を伸ばしてメニューを手にした時点で孫市との会話は別なものに変わっていたから、このことは然したる重大な話ではなかったのだろう。孫市にとっては、今店の中にどれだけ可愛い女がいるかの方が大切なことなのだ。
結局、女に振られたと人を呼び出した、その舌の根も乾かぬうちに女を物色している奴をこれ以上慰める必要もあるまいと何度も帰ろうとしたところを引き止められ(奴のナンパが成功していれば引き止められることはなく、簡潔に言えば孫市の今夜の戦果は相変わらずだったということだ)店を出た頃にはすっかり陽が昇っていた。
昼も夜もない仕事であるからこうした突然のアクシデントに近い徹夜を帳消しにする手段などいくらでもある訳で、つまりはこれから徹夜をおして出勤する孫市を、せめて腹の中で笑いながら身体が溶けるくらいには寝てやろうと決意を固めたら、足元で奇妙な音がした。
内容物の割には大き過ぎる、政宗ですら一抱えもある程の段ボールに記された「ひろってください」という汚い文字と、薄汚れた毛布に頭だけを突っ込んで、尻尾を揺らしている生き物。
昨今では絶滅したかと思われる程にステレオタイプなその状況にも、すっかり陽が昇っているというのに覚束ない明りで段ボールを照らす街灯にも、毛布をもごもごと動かしている汚らしい猫にも、正直腹が立った。それは多分に先程の会話が原因だったのかもしれぬが。
孫市のような馬鹿であれば兎も角、誰が捨て猫なぞ拾ってやるか。
例えばその仔猫が、もしも政宗を見上げて澄んだ声で「にゃあ」とでも鳴くか、或いは己に降りかかった不幸を笠に着て愛敬を振りまくか。いずれにしても小動物の憐れさをあますところなく見せつけられでもしたら、政宗は己の意思を貫徹していたことだろう。
毛布に顔を埋めつつも尻尾の動きだけが段々激しくなり、頭はまだ突っ込んだまま、前足で毛布をしっかり握ると後ろ足で段ボールを蹴っておもむろに仔猫は遊び出した。
そのうち、政宗の視線を感じたのであろう。我に返った、とでも言うような顔を毛布から覗かせた猫は、毛布如きに夢中になって遊んでしまったことを帳消しにでもするかのように、随分大人びた仕草で身体をゆったりと横たえると寝がえりをうち、政宗に背を向けた。
捨て猫なら捨て猫らしく、将来の飼い主になる可能性のあるものに媚びたらどうだ、と政宗は少し心配になる。
思わずしゃがみ込んだ政宗などちっとも気にした風はなく、今度は仔猫にとって唯一の財産であろうぼろぼろになった段ボールの角に柔らかそうな肉球を何度も押し当てている。何か意味のあることなのか、唯の新しい遊びなのかは、政宗には分からない。
「お主、捨て猫じゃろうが」
背後から声をかけたが、相変わらず猫は呑気そうに欠伸をし、段ボールの角の感触を楽しんでいる。
「もうちっと捨て猫らしく振る舞ってみたらどうじゃ?」
そこまで言われたら無視は出来ないとでも思ったのであろうか、猫が振り返って一瞥をくれる。
猫なんて大抵生きているのが面倒臭い、とでも言いたげな表情を浮かべているものだけど、例に漏れず目の前の仔猫も生きることに膿み切った表情を浮かべていて、だが、その顔が妙に人間臭く、それが殊のほか可笑しく思えた。撫でるほどではないが、とりあえずその毛並みの心地良さを享受しようと手を伸ばしかけたら仔猫はするりと政宗の手から逃れる。
さっきまであんなに楽しげに遊んでいた段ボールや毛布には未練がない、とばかりに箱から抜け出ようとする身体を、政宗は思わず引っ掴んだ。
「あのな、貴様の家は此処じゃろう?何処に行く気だ?」
首根っこを掴まれ政宗の目の前に突き出された格好の仔猫は、手足をばたつかせることもなく、されるがままの態勢でむう、と一声鳴く。
「捨て猫じゃよな?」
もう一度問い掛ければ猫は、やれやれ、と言った調子で再び鳴いた。
「腹は減っておらぬのか?」
首を振ったように見えたのは、きっと長いこと摘み上げられているのが嫌で身を捩った所為だろう。別に一人の生活に寂しさを覚えた訳でも気が滅入っている訳でもないが、律義に返事するかのように声を上げ首を振る生き物が面白くて、政宗は猫を摘んだまま立ち上がった。
「飼う気はないが飯くらいは馳走してやろう。儂の飯は美味いぞ?」
手の中の猫がはじめて「にゃあ」と可愛らしい声で鳴いた。
とは言ったものの、動物を飼うことも興味を持つことも初めてだった政宗が、仔猫の食べ物など分かる筈もない。冷蔵庫にミルクが残っていたのをこれ幸いに与えると、警戒もせずに皿に顔を埋めて舐め出した。
「やはり腹が減っていたのか?」
にゃあと言ったのか、みゃあと鳴いたのか、そこまでは分からぬが、ミルクを舐め続けている所為で仔猫の声は「ぶふう」としか聞こえなかった。卑しい奴だと思ったが、捨て猫であれば当然であろう。
「いいからゆっくり飲め」
台所の床から微かに聞こえるぴちゃぴちゃという音を背にシャワーを浴びる。
さすがに仔猫のミルクを舐める音は水音に紛れて聞こえなくなったが、徹夜明けのぼんやりした頭で仔猫の名前を検討している自分に、政宗は少々驚いた。
飼う気などなかったが、あの猫からすれば終の棲家をようやく得たと安堵しているところやもしれぬ。もしそうであるならば、このまま放り出すのは忍びないし、成程、情が移るから捨て猫に無暗に餌をやるなと言う教えは正しかったのだな。
そう考えつつ風呂から上がったら、空っぽになった皿の中で仔猫が気持ち良さそうに寝ていた。
「食い終わった皿の中で寝る阿呆がおるか」
眠っているのだから当然だが、さっきまではまるで政宗の言葉が分かるかのように逐一返事をしていた猫からの返答がないことに僅かな違和感を覚えつつ、政宗は再び猫を摘み上げベッドの上に放る。
さすがにそこまでされて目を覚ましたのだろう。その小さな身体には大きすぎる枕を何度か前足で揉みしだくと、仔猫は枕の真ん中にきちんと身を横たえた。
「それは儂の枕なのじゃが」
返事はない。
勿論猫如きに人間様の言葉が分かる訳はないのが、「都合の悪いことは聞こえません」とでも言いたげな見事な、いや人がましい無視の仕方である。
捨て猫にありがちな(とはいっても政宗は捨て猫を拾うことも、間近で猫を観察することも初めてだったから、あくまで印象の話だが)躊躇も恐れも奇妙な媚びも感じない。なかなか面白いものを拾ったのかもしれぬ、とはじめて思う。
その隣に寝転がりながら政宗は続けた。
「おい、猫。猫が名前ではあんまりじゃな。名前はないのか?」
「なう」
「なう、じゃ分からぬわ。タマか?タマって感じではないな。三毛でもないしのう。トラ、ブチ、ポチは犬か」
猫は随分はっきりした声で――まるで人間が猫の鳴き真似をしているかのようなはっきりした声で――にゃおん、と鳴いただけだった。
白い背中にはオレンジの斑紋がいくつか散りばめられていて、ブチという名の由来はブチ模様からなのだろうけど、ブチって具体的にどういう模様じゃ、などと考えながら政宗の瞼は徐々に重くなる。
政宗に倣うかのように眸を閉じた猫が、もしも暴れて睡眠を妨げるようなことがあったら有無を言わさず追い出してやろう、頭の片隅で往生際悪くまだそんなことを考えながら政宗は眠りについた。
目が覚めた頃にはカーテンを引き忘れた部屋の中までも夕焼けで染まっていた。糞、夕方まで眠ってしまった。孫市なんぞの所為でこれから暫く生活リズムが狂うと思うと腹立たしい。
そこまで考えて政宗は跳ね起きた。孫市どころではない。
眠りに就く前に政宗の枕を占拠した仔猫は、ベッドの何処にもいなかった。布団を持ち上げ中を探り、いやいや先に起きたのかもしれぬと隣室のリビングを覗いても、白い毛の塊は見当たらなかった。窓は全部閉まっていたと思ったが、もしや勝手に出て行ったのか。それはそれで野良猫(捨て猫だったが)の気概なのかもしれぬが、地上八階にあるこの部屋から飛び出しても大丈夫なものなのじゃろうか。そういえば美味い飯などと言っておいて結局ミルクしかあげなかったな。
いくつかある部屋を覗きながら洗面台に立ち蛇口を捻ったら、みぎゃ!という変な声が聞こえ政宗は唖然とした。
「何故こんなところに寝ておるのじゃ…」
布団の上は暑かったのか、陶器の肌触りが気に行ったのか、真相は分からぬが、昨日の猫は洗面台の洗い場に綺麗に収まって寝ていた。
まさかそんなところにいるとは思わなかった政宗も吃驚したが、微睡んでいたら急に冷水を体中に浴びせかけられた猫はもっと驚いただろう。金色の眼に浮かぶ黒い眸をまんまるにして暫く政宗を見詰め、逆立ってしまった尻尾をぴんと立てると、ふう、と威嚇するように大きく息を吐き出し、すぐに濡れた背中を舐め出した。
「怒るか拭くか、どちらかにせい」
毛繕いを中断した猫がゆっくり政宗を振り返り、はたと何かに気付いたように洗面台から身を乗り出した。リビングの大きな窓からは洗面所の中まで光が入る。
一体何に驚いたのか(水を掛けられたことに驚いたのであれば、猫にしては鈍過ぎると思う)、猫は弾かれたように洗面所を飛び出し、窓に向かって駆け出した。
「あ、こら!今拭いてやるから部屋の中を走るな!待て!」
タオルを引っ掴んだ政宗が後を追うが、猫は素早い。政宗の手から逃れながら窓のサッシをかりかりと齧り、玄関に続く扉に爪を立てる。
蛇口を勢いよく捻った政宗も悪いが、全身濡れそぼった猫の身体からはまだぽたぽたと水が垂れたまま。こんなに大暴れするほど水が嫌いなのか、それにしてもあの驚き方は尋常ではなかったぞ。
タオルを構えてじりじり近寄る政宗の目に映る猫の輪郭がぼやけた、そう思った瞬間だった。
「あー、時間切れです」
さっきまでふわふわした白い毛を揺らし大暴れした獣がいた場所には、男が一人、しゃがみ込んでいた。
「日が暮れてしまいました」
黒い艶やかな髪からぽたぽたと水滴を落としつつ、男は申し訳なさそうに政宗を見上げる。中腰のままタオルを構えピクリとも動かない政宗に向かって、曖昧な笑みを浮かべて彼は言った。
「こんばんは。たまでもぶちでもぽちでもなくて、真田幸村と申します」
お試し読み用です。以下続きます〜。