夏の押し入れの中は当然のように暑い。溜息のようなものを吐き出したら、周囲の空気が揺れて、それすら弁丸の肌に容赦ない不快感を与える程に。
押し入れの低い天井と畳まれている布団の間にきちんと体育座りした弁丸は、見るべきものなど何一つない暗闇の中で目を凝らし、膝を抱えた腕に力を込めた。
まだお昼にもなっていないのに今日はおかしなことばかり。服のボタンを掛け間違えたように。噛みあわない歯車がどんどんずれていってしまうように。少しだけ不穏なものを孕んだ日常が何処に辿りつこうとしているのか、弁丸にはさっぱり分からないから、それが怖くて仕様がない。
だって、きょうはあさから、いろいろちがっていたのです。それはたしかに、ちょっとだけ、のことでしたけど。
みみみみ、と鳴く弁丸の目覚まし時計は、政宗に買ってもらったものだ。その可愛らしい声が気に入って、店頭で一緒に鳴いていたら、政宗がプレゼントしてくれた。
勿論弁丸はすごく大事にしているのだけど、それが目覚まし時計的な意味で働いたことはあまりない。弁丸の目覚まし時計は政宗その人だ。
朝食の支度の為に政宗は弁丸より三十分は早く目覚ましをかけている。三十分という時間が具体的にどのくらいなのか、弁丸にはまだよく分からない。
けど弁丸のそれよりずっと控えめな政宗の目覚ましの音の後に、ベッドが僅かに軋む感触がして(本当は弁丸にも弁丸のベッドがあるのだけど、概ね弁丸は政宗の脇でタオルケットに包まりながら眠る。夜寝る前に本を読んでもらうにも、話をしてもらうにも、都合がいいからだ)寝室の扉が閉まる気配で弁丸は必ず目を覚ます。
「昼寝の時には耳元で掃除機をかけても起きぬのにな」
と政宗は弁丸の早起きを訝しがるけど、五月蝿いから目を覚ますのではない。
一人ぼっちになる気配は、眠っていても固く目を瞑っていても、いつだって弁丸に警告、のようなものを与えるから、政宗がいなくなる音で弁丸はぱちりと目を開けるのだ。
ひるねのときとは、わけがちがいます!上手く伝えられないけど、概ねそういうことだろうと弁丸は思っている。
「ろくじです!」
本当は六時ではないのだけど、弁丸に時計は難しくて、ちょっと上手に読めない。まだ鳴ってもいない自分の目覚まし時計を止めて、弁丸は慌てて政宗の後を追う。朝ご飯を作る政宗の後ろをくっついて歩きながら、新聞を取ってきたりコップに牛乳を注いだり、政宗の目玉焼きの黄身をこっそりつついて潰してみたりする。それが昨日までの朝の光景だった。
みみみみ、と枕元で何かが鳴いて、その耳慣れぬ音に今朝の弁丸は跳ね起きた。
思わず正座しながら音源を探ったのには理由がある。いつもと何かが違う朝。それは幼稚園の遠足や動物園に行く約束をした当日、とはちょっと違う。心が、ばくばくする感じ。
大人はそれを嫌な予感と言うのだけど、そんな単語を知らない弁丸は慌てて伸び上がって両手で目覚ましのスイッチを切った。いつもは鳴らない目覚ましを早く止めれば失敗が帳消しになると言わんばかりに。
でもね、しっぱいはしっぱいのままだったのです。弁丸は思う。
政宗は隣に寝ていた。弁丸より遅くに寝て、早く起きる政宗が横になっている恐怖を振り払うように弁丸は政宗の腰に手を掛ける。
「まさむねどの、ろくじです!まさむねどの?」
「…六時ではないがな。一体いつになったら弁丸は時計が読めるようになるのじゃろうな…」
とりあえず返ってきた返答に幾分かほっとしながら尚も政宗を揺さぶり続ける弁丸に、政宗はこんなあり得ない言葉を呟いた。
「もう少し大人しゅうしていてくれぬか。起き上るのも正直辛い」
咳き込みながら政宗が続ける。
「風邪、みたいじゃな」
いつもと違うことは、それで終わった訳ではなかった。
二度寝の習慣などない弁丸に、目が覚めても横になっていろというのは酷な申し出で、仕様がないから政宗の傍で絵本を読んでいたら兼続がやってきた。朝も早くから、だ。
「全く不義の山犬に相応しい無様な姿だな!遍く義に照らして生きている私は、生まれてこの方寝込んだことなどない!風邪の菌の方から逃げていくぞ!」
「何とかは風邪を引かぬ、というからな」
「そう、義人は風邪を引かぬ!貴様も己の不義を悔い改め、これからは義と共に歩むのだな!」
兼続が騒いでいたら三成もやってきた。いつもと違う朝に弁丸はそっと本を置いて、あたふたと首を動かす。
「夏風邪は何とかしか引かぬ、とも言うぞ。ところで大丈夫か?台所は勝手に借りた。今左近が粥を作っている。貴様は適当に食え」
「ああ、すまぬな」
「ついでだ。気にするな」
おみまい、という言葉は知っている。ずっと前、弁丸が風邪を引いた時、三成と兼続と左近が代わる代わるにやってきてくれた。順繰りに頭を撫でられて、お菓子や絵本を貰ったのだ。
お客さんがいっぱい来て何だか大人になった気分だったし(だってみんな政宗ではなく弁丸に会いに来たと言ったのだ!)、政宗がずっと枕元にいてくれたから、弁丸はうきうきしっぱなしだった。「早く良くなれ」そう言われたのに、もう少し風邪を引いていようと思うくらいには楽しかったのに。
今日のお見舞いは何だかそれとは違う気がする。
いつもだったら弁丸にも分かる言葉で義の話をしてくれる兼続は難しいことを言っているし、三成も弁丸を抱っこしてくれない。三成の抱っこは余り手慣れたものではなかったから、ずっと抱き上げられていると苦しくなったりするのだけど、それとこれとは別問題、なのである。
三成と兼続、そして政宗の遣り取りを少しでも理解しようと懸命に耳を傾けていた弁丸は、急に自分の名前を呼ばれて飛びあがらんばかりに驚いた。
「で、弁丸は俺の家で預かれば良いのだな?」
「そうじゃな、うつるといかん。頼むぞ」
「いやです!」
遊びに行くことと預かることはどう違うのか分からぬままに、それでも思わず弁丸は叫ぶ。難しい遣り取りの間で何か大変な事態が持ち上がっている気がするのだ。
警戒を露わにする弁丸に、半ば予想していたことだったのだろう、三成が嘆息し、政宗も苦笑を浮かべて手招きした。
いつもだったら政宗に呼ばれれば喜び勇んで近寄って行く弁丸だが、首を振ったまま動かない。だってその先にあるのがいつも通りの政宗の抱っこではない、と本能が告げていたので。
「やれやれ、聞きわけがないのはいかんぞ?」
丁度一番近くにいた兼続が弁丸の脇に手を入れ、持ち上げて運ぶ。ちょびっとじたばたしてみたのだけど、兼続の力には敵わなかった。
政宗の前に下ろされた弁丸は俯いて唇を噛む、まるで叱られている時みたいに。
けど、しかられるときとはぜんぜんちがうのです!
弁丸は悪いことなんかしていない。まだつまみ食いも落書きもしていない。政宗が風邪を引いてしまったことは分かった。政宗はきっととても辛いのだ。そして弁丸に風邪をうつしてはいけないと思っているのだ。だったら出来るだけ息を止めていればいいだけなのに。
ほら、まさむねどの、べんまるはぜんぶわかっています。なのに。
「今日は三成の家にお泊りじゃぞ?な?いっぱい構って貰え」
なんで、そんなことを、きゅうにいうのですか?
「俺は今日休みだからな。ずっと遊んでやれるぞ」
弁丸は黙って首を振る。「ちゃんとわかってます」ってこと、「まさむねどのと、はなれるのはいやです」ってこと、それらを一生懸命伝える方法を考えているのに、政宗達は色々なことをぽんぽん話すから、弁丸は自分の主張をなかなか切り出すことが出来ない。
「三成の家が嫌なら私の家でどうかな?」
「…貴様に弁丸の面倒が見れるかどうか怪しいものじゃがな」
「弁丸、俺の家に来れば左近がホットケーキを焼くぞ」
「私の家にくれば私の義の話が聞けるぞ!ドーナツも買ってやろう!」
「糞!ならば夕飯は左近にハンバーグを作らせる!」
「三成、貴様も左近にばっかり頼っとらんでな…」
「此方の夕飯はファミレスで愛の篭ったお子様ランチだ!ん?夕飯なのにお子様ランチ…ランチという名称はおかしいのではないか?義か不義か分からぬ!これは私も食べて検証せねばなるまい!」
分かっている。弁丸はまだまだ子供だし、政宗も三成も兼続も大人だ。大人は難しいことを素早くたくさん話すから、弁丸は時々ついて行けない。
それでも政宗だけはいつだって弁丸の話をゆっくり聞いてくれたのに。まさむねどの、あのね、と耳打ちすれば絶対に抱っこしてくれるか膝に乗せてくれるか、せめて頭を撫でてくれたのに。
だからこれまでは大人の話をしている政宗のことを嫌だなんて思ったことなかったのだ。弁丸は俯いて自分の爪先を睨む。でも、きょうは、なんだかいやだ。
「…ギーギー五月蝿いわ、兼続。で、弁丸?」
自分の名前を呼ぶ政宗の口調はいつもと同じなのに、風邪の所為で掠れた声と、時々混ざる咳が弁丸から現実感を削ぎ取って行く気がする。聞き覚えのない苦しそうな政宗の声は、夢の中から響いてくるみたいで、半分大人の話をしながら半分弁丸にも分かる言葉で弁丸の話をする、それが物凄く、辛い。
「お主はどちらが良い?三成の家に世話になるか?ば兼続のところへ行くか?」
政宗の声はあくまで優しい。ば兼続、と言った時には嫌そうな声だったが、それ以外は文句のつけようがないくらい。
せめて、いやいや、と頭を振ったのに、頭の上にいつもより少し熱い掌を乗せられたから、もう弁丸には首を動かすことすら出来ない。
いいこでいるから、どっかにいくなんていや。まさむねどのといっしょじゃなきゃ、いや。
本当はそう言うつもりだったのに。
「私とお子様ランチの義について考える方が良いに決まっている!」
「何だと!左近のハンバーグはお世辞にも絶品とは言えぬが、普通に美味いぞ!」
「いいから黙れ、貴様ら!で、べんま…」
…べんまるは、ちょっとまちがえてしまったのです。
自分で目覚ましを止めたこと。政宗が起きなかったこと。朝なのに三成や兼続がやってきたこと。
いつもとちょっとずつ違ったこれらのことはきっと、間違えちゃ駄目だよって弁丸にずっと教えてくれていたのに。
「まさむねどの、だいっきらい!」
いや、っておもうことと、きらい、っておもうことはちがうのに、なんでこんなに、にているんだろう。
お試し読み用です。以下続きます〜。