きな臭い風評が忙しく飛び交う世間に比べ、この一室の何と静かなことか。
目の前に座る男の盃が空になったのを見届けて、幸村は腰を浮かした。
「よい。儂も手酌で呑むことに慣れねばならぬ」
そう言って幸村を制した政宗は、顎で鷹揚に幸村の盃を示してみせる。
幸村も心得たかのようにうっすら笑って己の盃に酒を充たした。
密やかに、そして何度も繰り返されてきた逢瀬の光景。
背筋を張りきちんとした所作で酒を呑む幸村を、政宗は心底美しいと思う。
鮮やかに咲き誇り、儚く散っていく花の美しさではない。
落城間近の大坂城、勝つ見込みの無い戦、尽きる命運。
そんなものを抱えて尚、幸村から感じるのは生きるものがもつ存在感であり、それを政宗は本当に美しいと思うのだ。
嘗て長篠で幸村の命を拾った傾奇者は、他でもない幸村の事を難儀な男だと、そう言った。
関ヶ原で破れ六条河原で首を落とされた男は、最後まで友である幸村を案じて逝った。俺が死んだら幸村はどうなる。そう憂いてきたことが現実になったのだとその目は語っていた。
決して彼らを蔑もうという心持ちがあるわけではない。
ただ、二人の幸村に対する思いは、政宗にこれまで感じたことの無いような、腹の底が冷え冷えとするような怒りを覚えさせる。
奴らの心は分かる、だが何と傲慢であることよ。
幸村の武勇は既に疑いようも無く、槍一本でもって戦場を勇躍する姿は皆に誉めそやされた。
まるで紅蓮の焔をその身に纏っているようだ、いやいやあれは正に戦場の華だ、と。
全てを焼き尽くす炎に、美しく咲き乱れる華に、貴様らは何を重ねておる?
あれが槍を振るう瞬間、その頭の中に何があると思うておるのだ。
無情な死への礼賛があると?友への敬慕があるとでも?
滅びを髣髴とさせる者が、必ず滅びに魅入られた者であるとでも言うのか?つくづくお目出度い奴らだ。
目の前に敵がいた。だから槍を横に薙いだ。そういう男だ、あれは。
「どうやら私は弱いそうなのです」
いつだったか、幸村がそう言ったことがあった。
やはりその時も二人で差し向かい酒を呑んでいた。
幸村に対する慶次や三成の評は知っていたが、まさか本人の口からそれを聞こうとは思っていなかった政宗は酷く驚いたことを覚えている。
幸村は、至ってどうでもよさそうだった。まるで「明日は晴れそうですね」とでも口にするくらいの軽さだった。
武田然り、三成そして豊臣然り。
幸村は己が選んだ主家に身命を捧げただけだ。
何故そこに皆意味を付けたがる。己の価値観を幸村に植え付けて、救われたいのはどちらだ。
勝手な死生観、虫のいい志、幸村はそれを持つことを放棄した。
そもそも彼は自らの価値を自分で決定付けることすら、やめた。
その選択を、三成や慶次も認めてやらなかった幸村の覚悟を、政宗は認めてやりたいと思う。
それは己の愛おしい人に美しく生きろと言うことと同義で、故に幸村は死に向かうのだということを承知していても。
「覚えておけ、貴様は」
その髪の毛一本から。爪の先、紡ぐ吐息まで。
「儂のものじゃ」
覆そうとする意思も、武士の矜持も、志も、生き死にすら。
「儂には、最早そう思うことしか出来ぬ。お主は、儂を弱いと笑うか」
「いいえ、笑いませぬ。どうぞあなた様のものに」
「儂の前に貴様が立ち塞がったら、儂は兵を引くやも知れぬぞ。それは弱さではないのか?」
「ではあなたが空けてくださった道を通って死に赴こうとする私は、強いのですか?」
絡めた幸村の指先は冷たかった。
「政宗どの、私は強さも美しい生き様も求めてはおりませぬ。もちろん後世の名声など。ですが何故でしょう、私はただ」
あなたが美しくみえて仕様が無い。
そう微笑むと幸村は静かに盃を置いた。
なあ、幸村。世の中を善悪で、人の生き様を強弱で語って一体何の意味がある?
幸はむっちゃ強いの希望です。伊達も兵は引きませんが。
(08/04/14)