ホームに滑り込んできた電車の、その中の人口密度を見て、弁丸は知らず一歩後ずさった。
闘志や殺気を向けろと言われたら(そんな状況が仮にあるとして、そうしたら、ということだ)年齢の割に難なくやってのけそうな弁丸だが、彼の裡にある闘争心に限っては、てんで薄いと言わざるを得ない。
故に、彼は満員電車が苦手なのである。
毎日、通学などに使っていればまだ慣れることもあろう。
だが弁丸の通う小学校は家のごくごく近所だったし、わざわざ電車に乗って遠出するなど年に数回。
しかも大人の付き添いなく、友達同士で電車に乗るのは今回が初めてである。
そんな弁丸にとってこの反応は仕方が無いといえばそうなのであるが。
「わたしたちものれるのでしょうか?つぎのでんしゃをまちますか?」
「馬鹿め、そう変わらんぞ。たかが数駅じゃ。我慢せい」
嫌な訳ではないのだ。自分の我侭で、梵天丸や、同行している友二人を足止めするのは本意ではない。
ただ「すみませんすみません」と何度も謝りながら大人の足元をすり抜け自分のスペースを確保するその行為が苦手なだけで。
既に目の前には電車のドアが口を開けて待っているというのに、まだそのようなことを言い訳がましく心の中で呟いていること自体弁丸が出遅れている証なのだが、本人は気付いていないらしい。
「行くぞ、弁丸」
梵天丸が乱暴に腕を引く。
「すみません」とやっぱり周囲に謝り続けようとする弁丸を、梵天丸は座席とドアの僅かな隙間に詰め込んだ。
「あぶないです、ぼんてんまるどの!それに、あ、もうしわけございません」
小声で弁丸が叫ぶ。自分の身体が何処かにぶつかることを危惧してではなく、むしろ、ぶつかった先に迷惑だ、などと考えているのだろう。
実際、自分が鞄を蹴ってしまったと男性に頭を下げようとして、今度はその下げた頭が別の人に当たったものだから、うっすらパニックに陥りかけている弁丸である。
その隙に梵天丸はそのまま左手で弁丸の右脇にある手すりを握った。
人の隙間を無理矢理縫って、空いた右手を伸ばすと、今度は掌を弁丸の左側の壁に押し付け。
つまり、壁を背にした弁丸を梵天丸が辛うじて腕で囲んでいるといった形になる。
自分がこの腕を解かなければ弁丸が人波に揉まれてしまうということはない。
「大丈夫か?息は出来るな、弁丸」
弁丸は一瞬深く考えるような顔付きをした後、すーはーすーはーと大袈裟に呼吸をし
「はい、できまする!」
元気よく答えた。
「よいか、苦しくなったり気持ち悪くなったりしたらすぐに言うのじゃぞ」
神妙に頷く弁丸。梵天丸が手すりを握る手に力をこめた時、丁度電車が動き出した。
その頃。
「くっ。くつじょくだ。このおれが、こんなぶざまな…」
かろうじて電車に乗れたには乗れたのだが、大人達の隙間で潰されかけている佐吉と。
「む!皆の姿が見えんな!だが私は己の降りるべき駅を知っている。佐吉も知っているであろう!
弁丸は…小癪だが山犬が何とかするに違いない!これで安心というものだ!
では到着まで私は一眠りするとしよう!満員電車の中での午睡というのも良いものだな!なあ、佐吉!」
何故か座席を確保し悠々と電車内部を見渡す与六は、姿の見えない親友に大声で話し掛けていたのだった。
弁丸は耐えていた。弁丸は電車に乗ることも、その振動も面白くて大好きだったが、この状況では話は別だ。
どんなに足を踏ん張ってもふらふらなってしまうし、きっと自分が転んだら梵天丸にも周りの人にも迷惑がかかってしまう。
それに周りの人が高い壁みたいに見えて、それが小さな弁丸には圧迫感を与え。
何だか心細い。
「弁丸、儂の腕に掴まれ」
おずおずと弁丸が梵天丸の腕を握る。
「大丈夫じゃ、しっかり掴まれ。儂は絶対に転ばぬぞ」
そう言われて弁丸は安心して梵天丸の腕にしがみついたのだった。
一方の梵天丸も耐えていた。
不安そうにしていた弁丸が自分の腕を握って可愛らしく笑ったことだとか、ちょうど弁丸の指がくすぐったいところを触っていることだとか、それも勿論あったのだが。
ええい誰じゃ、儂の頭を小突いたのは!いや、それより背中!そのようにぐいぐい押すではない!馬鹿め!
しかし弁丸の前で弱音を吐くなど彼の矜持が許さぬ。
それより、自分が今手を離したら、弁丸が危ない。弁丸だってそう弱い訳はないだろうが、ここは一つ自分が守ってやりたいではないか。
そう思って頑張ってはみるのだが、所詮子供は子供。
文字通り背後から受ける他の乗客のプレッシャーに、突っ張っている腕は限界である。押さえようとしても小刻みに震えてしまうのは止められない。
目的地まで二駅。そのくらいは儂に格好付けさせてくれ!
だが、梵天丸の余り子供らしくない魂の叫びは、天に届かなかった。
「どこかいたいのですか、ぼんてんまるどの?」
突如視界いっぱいに広がった弁丸のアップに言葉を失っていると。
「だいじょうぶです!ぼんてんまるどのは、べんまるがおまもりいたします!」
何か勘違いをしたらしい弁丸が梵天丸を盛大に抱き寄せた、というか引っ張ったというべきか。
「何をする!弁ま…ぶべっ!」
弁丸に抱き付かれるのは吝かではない。
ただ梵天丸の顔は勢い余って弁丸の背後の壁にぶち当たり、その上やっぱり背中からぐいぐい押されているのも変わらないのだ。
更には弁丸が物凄い力で腰の辺りにしがみついており、痛い。むしろ落ちる。
梵天丸はこの日初めて走馬灯を見た、気がした。
目的の駅に着き、佐吉や与六と合流しても弁丸は梵天丸にしがみついていた。
「ぼんてんまるどのの、おかおが、まっかで、いたそうなのです!」
それは弁丸が儂を壁に押し当てていたからで、ずっと顔が圧迫されていたのと、呼吸困難から来るものじゃ。
だが心底不安そうに梵天丸の顔を覗き込んでくるこのいたいけな子に、どうしてそのようなことが言えようか。
「ふむ、それは話を聞くに弁丸の所為であろうな!」
「与六、貴様は黙っておれ!」
「もうしわけございませぬ!これからは、べんまるがいのちをかけて、ぼんてんまるどのをでんしゃにおのせします!」
いや、そんなことで命を懸けられても儂が困る。
電車の中から正に命懸けの生還を果たした梵天丸は、ホームのベンチに座りながら呆然と空を見上げた。
佐吉が気の毒そうに付け加える。
「…ええと、まあ…よかったではないか」
「……そうじゃな」
何が、とは聞き返したくなかった。
生の有難味を思い知った後で見る空は、とても綺麗でとても青く、梵天丸は隻眼を僅かに細めたのだった。
さて、弁丸の決意は随分固かったようだ。
帰りの空いた電車の中では座席に座った梵天丸の前で仁王立ちを試みた挙句、電車の揺れで盛大に転がり、結局梵天丸が弁丸を背負って家まで送り届けることになった。
その後も弁丸はことあるごとに梵天丸を電車に乗せようと手を尽くして誘ったが、如何に弁丸の願いとはいえ梵天丸が中々首を縦に振らなかったのは、想像に難くない話である。
すいません。もう無双ですらないです。
こいつらが何歳なのかすら分かりません。
あーもう梵は弁丸にめろめろです、むしろ物心付く前からめろめろです。
子供にする意味ないんですけど…子供の方が必死感が出るかなって…うん、言い訳だよ、言い訳ですよ。
(08/04/16)