梵天丸の机の上に置かれた筆箱を見て、弁丸は「ふおー!」と奇妙な声を上げた。
毎日一生懸命授業は聞こうと思っているし、宿題だって忘れずにやろうと思っているのだけど、途中でついつい遊んでしまう。そんな弁丸の机上での遊び相手は専ら筆箱で、そこには弁丸の大好きな戦隊モノのヒーローが印刷されているのである。
父に買って貰ったときにはすごく嬉しかったし、自分の筆箱が一番格好良いと思っていたのに。
ぼんてんまるどののふでばこには、かないません!
潔く負けを認め、何故か少々誇らしい気持ちで梵天丸の筆箱を覗き込む弁丸の隣では、同じように佐吉が口を開けて興味津々なのが見て取れる。
俺だって本当は弁丸と同じ筆箱が欲しかったのだ。だから左近にそう頼んだのに、間抜けな左近には佐吉が大好きなヒーローの区別がつかなかったらしい。
さんざん念を押したのに、左近から渡されたのが新幹線の絵柄の筆箱だった時には絶望した。だが更に悪いことに新幹線はなかなか早いし格好良いし、泣き喚いてまで拒む理由が佐吉には思い付かなかったのだ。
結局そのまま新幹線の筆箱は落書きだらけになりながらもまだ佐吉の手元で任務を遂行中である。
「さきちどののふでばこは、だめです」
「くっ…だが、しんかんせんだって、はやいぞ」
他人の筆箱をしたり顔で全否定する弁丸にそう言ったら「でもしんかんせんは、びーむがでませぬよ?」と言われ、また悲しくなった。
左近にもそう言ってやれば良かった。しかし今はそんなことすらどうでもいい。
悔しいが梵天丸の持っている筆箱はすごい、佐吉はこくりと唾を飲み込んだ。
「ここは普通に鉛筆を入れるところだが、それだけではないのじゃ!」
梵天丸の手元を覗き込んだ弁丸が、叫ぶ。
「ここになにかありまする!」
我が意を得たり、と頷く梵天丸が弁丸の指し示した小さなスイッチを押した瞬間、筆箱の上部から鉛筆削りが顔を出した。目を輝かせる弁丸に、びくりと身体を震わせる佐吉。
「これでは、えんぴつをけずりほうだいではないか」
手品のタネを暴こうとするかの如く、飛び出してきた鉛筆削りを触ったり擦ったりする佐吉の隣で、弁丸が自分の筆箱をがさがさ探って鉛筆を五本取り出した。
「ぼんてんまるどの!これをけずってください!」
弁丸の手に握られた鉛筆は根元から芯がぽっきり折れている。
「お主、全部鉛筆の芯が折れておるではないか。どうしたのじゃ」
「おりました!あさ、がっこうについてすぐ、おりました!」
「何故そんなことをしたのじゃ」
「べんまるはいま、えんぴつのしんをあつめておるのです!」
「ほう。おれはけしごむのかすをあつめているぞ」
その宣言通り、佐吉の筆箱の中は放り込まれた消しゴムのカスが幅を利かせており、弁丸の芯だらけの筆箱の中は、真っ黒だ。
楽しそうに自分のコレクションを自慢する二人を尻目に、梵天丸はせっせと、だが丁寧に弁丸の鉛筆を削ってやる。「暫くは折るなよ」そう言って渡したものの、さてやたらに良い返事を返す弁丸の暫くとは何分ほどであろう。
それはさておき、梵天丸は再び自分の筆箱の自慢に取り掛かった。この筆箱から出てくるのは鉛筆削りだけではないのだ。
「これはなんだ?」
「分度器じゃ。角度を測ったりするものよ!」
分度器どころか角度の何たるかも分かっていない弁丸が奇声を上げる。
「まるがはんぶんなのは、われてしまったのですか?」
残念そうにそう尋ねる弁丸に、もともとこういう形なのだと諭すと存外素直に頷いた。
その間も佐吉は、筆箱に幾つも付いている小さな蓋を開けては中を確認している。
「これはけしごむのへやか」俺ならここを消しゴムのカス入れにするのにな。そうだ、こっちの部屋には練りケシを入れよう。
筆箱を見て自分のものでもないのに夢を膨らませる佐吉に、梵天丸が言う。佐吉、そこの隣のスイッチを押してみろ。
言われるがままにスイッチを押した佐吉は、大きく息を呑んだ。筆箱の横から定規が飛び出したのである。これには佐吉だけではなく弁丸まで吃驚したらしい。真っ黒な目を零れそうなほど見開いて定規を見詰めている。
「どうじゃ、驚いたであろう?」
言葉もなく、こくこくと頷く二人。ややあって我に返った弁丸が「べんまるにもやらせてください!」と叫び、梵天丸の定規はさしたるお役目もないままに十数回も出し入れさせられることとなった。
「べんまるのじょうぎでもできますか?」
そう言って弁丸が差し出した定規は、丁度真二つにぽきりと折れている。一応セロテープで応急処置は施してあるものの、このように歪んだ定規では最早意味を成すまい。
「これは…これも折ったのか、弁丸?」
「ちがいます!めいよのふしょうです!となりのくらすのむさしとたたかって、おられたのです!」
むさしのじょうぎのうでは、たしかなのです!
鼻息荒く弁丸がそう叫ぶ。一体自分の目の届かないところでどういう遊びをしているのじゃ。何かあったらどうするのか。
「でも、むさしは、じょうぎをじぶんでけずってとがらせているので、ちょっとずるいです」
武蔵とやら、定規をわざわざ刀状に成形することに何の意味があるのだ。そう突っ込もうとした梵天丸の背後から威勢のいい声が上がる。
「定規をそのように削るとは正に不義!所詮人斬りは人斬りということか!嘆かわしい!」
「そんなことより与六。梵天丸のふでばこはすごいぞ」
いつもあれば与六の声量に怯む佐吉も、今回ばかりは梵天丸の筆箱の機能に心躍らせているらしい。
「貴様も見るか?」そう眼前に差し出された筆箱を、与六はノートで押し包むように受け取った。そのまま器用にしげしげ眺めたり引っ繰り返したり。
与六の書き取り帳の上でぽんぽんと生き物のように跳ねる筆箱を、弁丸と佐吉はにこにこと見守っている。「手にとって触っても良いのだぞ」梵天丸のその言葉が終わるか終わらぬうちに、与六が再び喚き始めた。
「この与六は謙信公の薫陶を受けし者!さような不浄の筆箱、見るも汚らわしい!」
「ふん、馬鹿めが!負け惜しみを!小汚い字で義だの愛だのと落書きされた貴様の筆箱とは雲泥の差よ!」
「何を!私の義と愛溢れる筆箱の真価に全く気付けぬとは…山犬とは全く哀れな生き物であるな!ええい、こんなものこうしてくれる!」
でやっ、と書き取り帳を振りかぶって、与六が梵天丸の筆箱を宙に放り投げた。
「な!貴様!儂が小遣いを溜めて買った筆箱に何をするか!」
「見たか、山犬め!不義の筆箱などこうだ!次は貴様の番だな、首を洗って待っているがいい!」
こうなってしまった二人を止められる者は誰もいない。唯一何とか出来そうな弁丸と、何とも出来ないのだけど何かしなければならぬのか、と毎回律儀に巻き込まれる佐吉も、今度ばかりは口も挟まない。
それもその筈、与六が投げた梵天丸の筆箱をきゃっきゃっ笑いながら拾いに行って、今尚、がちゃがちゃと遊んでいるのだ。
「弁丸、ここをひっぱったら、ちいさなはさみがでたぞ」
辛うじて紙の一枚くらいなら何とか切れそうな、お粗末な刃を備えたハサミを弄りながら佐吉が言う。ハサミのすぐ脇の小さな蓋を開けて弁丸ががっかりしながら呟いた。
「このなかはまだ、からなのですね」
なんだ、つまらんな。蓋を閉じかけた佐吉の手を制して、弁丸が叫ぶ。ここにはべんまるがなにかいれてさしあげるのです!
「だがなにをいれるのだ、弁丸」
「これです!」
そう言って弁丸が持ってきたのは糊。黄色いチューブに入った紛うことなき糊である。
成程、弁丸は時々すごく賢いと佐吉は思う。
だってハサミがついているのだ、切った後貼ることが出来なかったらそれは一大事、なのではないだろうか。
「せっかくだから、たくさんつめてやろう」
佐吉がそう言うと、弁丸はにっこり頷いて糊の蓋をゆっくり外したのだった。
~おまけ~
「べんまるも!べんまるも、すごいふでばこをつくってもらったのです!」
そう言って弁丸が教室に駆け込んできたのは、筆箱の糊を泣きながら洗い落とした記憶が梵天丸の中でもまだ生々しいある日の朝のことであった。
鞄を下ろすのももどかしく、弁丸が剥き出しで手に持ってきた筆箱を梵天丸の前にぐいっと差し出す。
「何じゃこれは」
「ふでばこです!ちちうえがつくってくれました!べんまるのふでばこにございます!」
ここを押してください。そうせがむ弁丸に言われるがまま、小さなスイッチを押したら筆箱の上部から定規がすごい勢いで飛び出してきた。梵天丸の飛び出す定規なんか目じゃない速度である。
教室の一番後ろの弁丸の席から発射された定規は、教科書を鞄から机に移す佐吉の頭上を通り、何事かを喚く与六の脇を掠め、教卓にぶち当たった後乾いた音を響かせて床に落ちた。
「なっ!危っ!危ないではないか!儂うっかり与六を殺すところじゃったわ!」
「つよいのです!」
「強いっていうか、もうそれ暗器とか言うレベルじゃろう?」
唯一梵天丸がそんな疑問を持ったものの、殺されかけた与六も、一瞬頭がすーすーした気がした佐吉もさして気にせず、物珍しげに弁丸の筆箱に集まってくる。
「なんと珍しい!この鉛筆削りは電動なのか!正に義!」
「いや義とかではなく、大体どうやって動いておるのだ…」
「ふむ、ここはえんぴつのしんを、ためておくところなのだな」
梵天丸の筆箱は放り投げて壊しかけた癖に、弁丸の筆箱は好奇心剥き出しで弄り回している与六であったが、これは何の装置かな?そうスイッチを押そうとする彼の手を弁丸は慌てて押し留めた。
「それはあぶないのです。ひじょうじたいにおすのだと、ちちうえがおっしゃっておりました。てきをたおしたいときに、つかうのです」
物騒な世の中、己の身を己で守ることも大事だが、自らを物騒に彩ってどうする。残念ながらそんな突っ込みが出来る者はここにはいない。
「…ということはじゃ、先程の定規みたいに内蔵されておる武器が飛ぶのか?」
「なんだかどこかの、こどもになっためいたんていみたいだな」
「弁丸は試したのか?」
与六の素朴な疑問に、弁丸はふるふると首を振る。
「それはいかん!武士たるもの、己の獲物の特性は事細かに把握しておらぬとな!」
「だが、ざんねんなことに、てきがみあたらんぞ」
居る筈もない敵の姿をきょろきょろと探す佐吉に、弁丸が耳打ちした。
「さこんどのは、いかがでしょうか」
「…ふむ。なかなかいいじんせんだ」
聞き捨てならぬ弁丸の発言に、まず佐吉があっさり頷いた。
「そうじゃな、左近なら試しても何だかんだで大丈夫そうな気がするな」
武器、とやらが飛び出すらしい穴を覗き込みながら、梵天丸までもがそんなことを言う。
「よし!では早速今日の放課後決行だ!義と愛の為、いくぞ諸君!左近め、せいぜい一時の栄華に酔いしれるが良い!」
その頃、鼻歌まじりに洗濯物を干す左近がそんなことに気付ける筈もなく、恐るべき子供たちの恐るべき脅威(それは先端を申し訳程度に削って丸めたコンパスだったのだが)はひっそり左近に忍び寄っていくのだった。
1月半ばから6月頭までの拍手お礼だったものです。
頑張れ、左近。コンパスの先を丸めたのは昌幸パパの良心。
(09/06/06)