喧嘩をすると、幸村はいつも何かを呑み込んだような顔をする。というか、はっきり、呑み込んでいる。
その喧嘩の原因が実に下らないことで、例えば冷静に二人の関係を話し合うとかそういう建設的で崇高な(それって崇高か?と政宗は思ったのだが、少なくとも互いの不満を感情に任せて罵り合うよりは幾分か建設的であることに間違いはなかろう)状態ではなく、最早本人達ですらじゃれ合いなのか、軽い仲違いなのか判別つかないくらいの、そういう喧嘩の時には大概、幸村は何かを口に上らせようとして慌ててそれを抑え込んでいる、そんな感じがする。
よもや儂に直接言えぬ不満でもあるのか、と疑ったが、そういうのとも、ちと違う。
何故だろう、そんな彼の姿を見るにつけ、愛おしくて愛おしくて仕様がなくなるのだ。
喧嘩中のあの独特の苛々感も相まって、ぐりぐりと乱暴に頭を撫でてやりたいような――まあ、本当にそんなことをしたら、実に素直な幸村は馬鹿にされたと烈火の如く怒るだろうから、間違っても出来ないのだが――そうだ、自分を惹きつけてやまない幸村のあの表情は丁度、長い長い逡巡の最中、政宗の首に自然に腕を絡めるにはどうしたらいいのかを真剣に検討している顔に酷似している。
雨がようやく上がって、だが開け放たれた窓からは風の一つも入ってこない。肌に纏わりつく空気すら絞れそうな、そんな蒸し暑い、不快指数ぶっちぎりの夜だったというのに、幸村は昨夜「何だか肌寒いです」とごにょごにょ言い訳しながら、政宗の首筋に唇を押し当てたのだった。
なのに肌寒いと言った幸村の掌は少しだけ汗で湿っていて、政宗は浮かびそうになる苦笑がばれないように細心の注意を払って、俯いたままの幸村の顎を摘まんで此方を無理矢理向かせたのだ。
目の前で脹れっ面で口を閉ざしてそっぽを向く幸村は、その時の顔にそっくりだ。
昔は、もっと無邪気な喧嘩をしていた、と思う。
喧嘩は文字通り本当に喧嘩で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
売り言葉に買い言葉で乱暴な言葉も遣ったし、今思えば顔から火が出そうなことを延々夜中まで話し合って、もうこれはのっぴきならない事態なのではないかと勝手に悲観したりもした。最悪の事態まで考えていた割に、咽喉元過ぎれば何とやら、仲直りもそれはそれは派手なものだったし、そんな時には臆面もなく、もしかしたら自分は本当に世の中で一番幸せなんじゃないかと思ったりもしたものだ。
世の中の何を差し置いても一番の幸せ者であるという自覚など必要なかったというのに。
かけがえのないことと、一番でありたいと願うことは全く違う。
長い長い幸村との付き合いを経て政宗が学んだことなど、そのことだけだったような気もするのだ。
思えばそう、もっともっと昔の喧嘩は、限りなく今に近い気もするのだ。
記憶の中の弁丸が、ぐしぐしと洟を啜り上げながら言う。「ぼんてんまるどのなんて、しりませぬ!」
その頃は恋なんて知らなかったけど、あれは本当に可愛くて憎たらしかった。政宗は反芻する。あの瞬間の弁丸は、確かに、幼い政宗を全力で否定しようとしていた、だからこそ、余計に。
まだ子供だった政宗も――梵天丸も、それを真に受けて本気で切り返したりしていたものだ。
「儂だってお主のことなどもう知らぬわ!」
「ぼんてんまるどのなんて、だいっきらいです!」
そう言って弁丸は、振り向きもせずにさっさと走り去っていく。それを見届けてから、梵天丸は為す術なくその場にしゃがみ込むのだ。
勿論、弁丸のように泣いたりなんかしない。
「知らぬ」「大嫌い」そんな言葉の重大さなんてちっとも分かってないから、そう罵り合ったことを後悔する訳ではないのだけど、暫くすると何となく奇妙な罪悪感に苛まされる。それは、言わでも良いことを口走ってしまった自責の念に恍惚とする自分への罪悪感だ。
やがて途方に暮れた顔で弁丸が戻ってくる気配がすると、或いは意を決して彼の行きそうな場所を探し始めてやっと、そのもやもやしたものが、何と言うか、直視できるような、冷静に受け止められるような気分になってくる。
でもやっぱり胸糞悪いし、もう一言二言言ってやらねば気が済まぬから、のたのたと決まり悪そうに此方に向かってくる弁丸の歩みがもっと早くなればいいのにと念じる。もしくは必死で弁丸の姿を探す。
見つけ出したものが、仮令小憎たらしい仏頂面だったとしても。
「…もう、だいっきらいではなくなりました」
「そうか、どのくらいじゃ」
「きらい、くらいです」
「儂もそのくらいじゃな」
そうして今度は二人で並んで黙り込む。黙り込んでいたって時間は過ぎて、やがて夕暮れの先にある明日までの、会えぬ長い時間を思う頃、どちらともなく焦り出すのだ。
「儂はそろそろ嫌いではのうなったぞ」
「べんまるは、まだちょっと、きらい、くらいです」
折角梵天丸が譲歩してやったというのに、弁丸は顔を真っ赤にして、でも少し笑いながらそう叫ぶ。
さっきまで調子外れな鼻歌を歌いながら地面に落書きしていただろうに、なんてことは言わない。自分だって一緒になって落書き、していたのだし。
「あとどれ位で嫌いではなくなる?」
「えっと、ひゃくかぞえるくらいです!」
百。
子供にとってのそれは、まるで永遠を表すかのような時間の単位ではあるのだけど、指折り数えていた弁丸が三十だか四十くらいで力尽き「もうきらいじゃないです」と打ち明けるのを、梵天丸はじっと待つ。心の中では出来る限り早く数字を数えながら。
さっきまで落書きに使っていた小石を放り出して「だいじょうぶになりました!」と見上げる弁丸は本当に嬉しそうなので、梵天丸は満足する。
だいっきらい、と口にした相手のことだけを考え続ける時間。
本当に嫌いなのかと自問して、もしももう会えなくなったらと無責任な悲劇に心躍らせて、想像の中の孤独な自分を哀れむことは、愚かなことかもしれないけど、あれは確かに二人にとって大事な儀式だった。
そういえば佐吉や与六とも(佐吉が三成になり、与六がバ兼続になった今ですら)数え切れぬ諍いがあったが、そんな言い争いはしたことがない。
仲が良いから喧嘩する、という言葉が真実であるならば、あれは確かに幸せな喧嘩に相違ない、政宗はつらつらと考える。
どんなに気に食わないことがあったって嫌いにはなれないと言えない代わりの、ああ、そうか幸村は。
他愛ない言い争いの合間に彼が呑み込んでいる言葉がやっと分かった気がして、政宗は薄く笑った。
「いいぞ、言ってしまえ」
相変わらずそっぽを向いたままの幸村に、そう告げる。
さすがにいい年こいて捨て台詞を吐きながら走り去ることはなくなったが、本当に言いたいことなどそうそう変わる訳などない。
「政宗どのなんて」
うむ、と頷く政宗も、耐え切れなくて幸村の髪に手を伸ばす。
ぐしぐしとかき混ぜるように頭を撫でる政宗の手を振り払うでもなく、幸村は先を続けた。
「大嫌いです」
「儂も、今は少しお主のことが嫌いじゃぞ」
いくら一緒に居たって目の前の相手のことだけを考えてなどいられない。
人の頭なんて案外器用な作りをしているから、全身全霊で恋人のことを思うことなんて、そうそう出来っこない。
でも今だけは、理不尽な言葉を口にしたその瞬間だけは、頭の中で溢れそうな雑多なものを一先ず脇に追いやって、懸命に互いのことだけを考えていられるのだ。そう思うと罵られるのもなかなかに悪くないと思う。
「少しだけ、なのですか?」
耳元で囁かれる声音は、とても喧嘩の真っ最中だとは思えない。
「幸村は、どのくらいじゃ」
「私も、ちょっと嫌い、くらいになりました」
「儂はそろそろ嫌いではなくなったぞ」
早過ぎます、と文句を垂れる幸村を抱き寄せて、百まで数えてやろうか?と尋ねたら、拗ねたようなくぐもった声がした。くつくつと笑いながら、政宗は幸村の台詞を受け止めてやる。
「やっぱり大嫌いです」
「そうかそうか」
幸村も同じことを思い出しているのだろう。いつになく穏やかな政宗の応えにも、別段不思議そうな顔はしなかった。
ただ少しだけ、背に回された腕の力が強くなった気がしただけだ。
甘えられていると思うと、政宗の笑みは一層深くなる。
幸村は甘え下手だ、三成はそう嘆くし、兼続なんかはもっと我侭を聞かせてくれても良いのにな!と兄面で苦笑する。馬鹿めが。甘え下手な奴が本当に居るとでも思うておるのか。
涙を拭きもせず、豪快に鼻水さえ垂らしながら「だいっきらい!」と叫ぶ弁丸を、貴様らが知らぬだけの話だろう?
理不尽な言い争いにさえ揺るがぬ愛情を自覚するのは心地良い。そんな身勝手な陶酔を得る為に嫌いと口にする、その幼い我侭をぶつける相手に彼が選んだのは、他でもない、自分だったというだけだ。
だからこそ、こ奴は安穏と儂だけのものでいられるのだ。
「政宗どのなんて、大嫌い」
こんなに優しい罵声など、きっと他には有り得ない。
身体を預けてうっとりとそう呟く幸村以上に、自分は酔いしれた顔をしているのだろうと政宗は思った。
なんか喧嘩してますが、政宗様誕生日おめっとさん記念つーことで一つ。
(09/08/03)