もう随分前の話だ。あの時も自分は政宗の部屋で宿題でも写していたか、漫画でも読んでいたのか、或いは菓子でも頬張っていたのか、兎に角だらだらと過ごしていた。
政宗の家にはいつも通り、彼以外誰も居なくて、既に好きあってはいた癖に、そのことを上手く隠せていると思い込めるほど自分達は子供だった、その頃の話だ。
スケジュール帳をぱらぱらと捲りながら政宗がふと口にする。もうすぐ母の誕生日なのじゃ、と。
気にしいで面倒臭がりな彼の手帳は、真っ白と言っても過言ではないと思う。
年が変わるか変わらぬくらいの季節には必ず、本屋の片隅の手帳コーナーで彼は実に難しい顔で自分にあった一冊を選ぶ。曰く、これは縦書きで珍しいだとか、日にちだけでなく時間まで書き込めるのだとか。
そのまっさらな手帳に、政宗はまずふざけた調子で、でも丁寧に幸村の誕生日を書き込む。
けど書き込まれるのは手帳を新調してから僅か一ヶ月にも満たない間の取り留めない予定と幸村の誕生日だけで、春が来る頃には鞄の奥底に仕舞われたまま、彼の手帳は滅多に日の目を見ないでいるのだ。
何とはなしに思い出して手に取る時もあるのだろうけど、本格的な暑さが来る前にその手帳はとうとう何処かに行ってしまう。書き留めなければ覚えていられないような予定が詰まっている訳でもない、至極呑気な自分達にはそんなの当然のことで、きっと政宗の部屋には途中から真っ白の手帳がいくつもいくつも埋まっているに違いない。
だから彼のそんな言葉を聞いて吃驚したのだ。
宿題から顔を上げて――ああ、やっぱりそれは宿題を写させてもらっていた時のことだった――政宗の手元を覗き込んだら、真っ白な頁が目に飛び込んでくる。
当然、彼の母親の誕生日であるなんてことは一文字も書かれていなかった。
「そんなことわざわざ書き込まぬじゃろう?」
幸村の視線から顔を背け、弁解するように政宗は言った。今年はどうしようかのう。
誕生日、なんて。
家の中で語られる誕生日の対象は常に自分か兄だった。
勿論あの父にも誕生日くらいあるのだろうけど(なかったら化け物だ)、何らかの書類で父親の生年月日を書く時だけ意識されるもので、そもそも生年月日と誕生日という言葉は、こと父に関しては結びつかぬものだった。
それに驚いた幸村を見て、何を勘違いしたのか政宗が慌てたように呟く。
祝って貰えば誰だって嬉しいじゃろう?
勿論、母のことを考える政宗に驚いた訳ではないのだけど、彼がまるで子供みたいだと思った。
兼続と言い争っている時なんか、確かに彼はいちいち反応して盛大に腹を立てる、それでも幸村にとって政宗は自分と同じ年の癖にずっとずっと大人びた存在だった。
反抗期真っ只中と言ってもおかしくないその年にはそぐわないものを彼は母親の為に選ぶのだろう。いやそもそも、自分が父の誕生日など思いもよらなかったように、この年齢で親の誕生日などをどうこうしようと思う政宗は大人なのかもしれない。
でもその姿は幼い子供が、下手糞に折った、汗でふやけた折り紙なんかを渡す様を思い起こさせた。
手帳には決して書き込まれない、けど政宗にとって特別であることを許された日。
「儂を育てるのも結構な苦労だったと思うしな。偶には子供らしいこともしてやらねばのう」
そう笑う彼は、もうすっかりいつもの政宗だった。
「折角ならきちんと書けばいいじゃないですか」
まるで気遣うような声音の底に、自分は随分意地悪な気持ちを隠していると思った。
書き込まれない日。それは即ち何があっても決して忘れない日ってことだ。
彼の手帳に真っ先に記された自分の名を思ったら、その誇らしさは瞬く間に鬱陶しさに変わった。
許されるのであれば、その手帳を取りあげて少し大きめの文字で書かれた「幸村の誕生日」という文字をぐしゃぐしゃに消してしまいたかった。
とは言えそんな他愛もないこと幸村本人ですらあっという間に忘れてしまった。写す宿題なんて疾うになくなってしまって、けど今ではもう、そんな理由がなくても暇な時間の大半を共に過ごすことは二人にとって普通で自然なことになった。
一方で煩雑な仕事のスケジュールや日常の為すべき些細なことはあの頃とは比べ物にならないくらいに増えてしまって、政宗の手帳は(幸村だってそうだ)きちんと一年通して使い続けられるようになった。
それを捲りながら政宗が言う。
「そういえば儂、今週末は仕事じゃ」
ふーん、と何気なく政宗の手元を覗き込んで幸村は小さく笑うと、そのまま体重を預けるように凭れ掛かる。
「重っ!何じゃ急に。どうした?」
先日政宗が祝ってくれた筈の幸村の誕生日の日付の欄には、細々した仕事の予定が記されているだけで他には何も書かれていなかった。
「何でもないです」
「言い忘れてたから怒っとるのか?」
「怒ってませんよ?」
もしかしたら唯の自惚れかもしれないけど、年に一回の誕生日ですらわざわざ書き込むまでもない程、自分は政宗の近くにいられるようになったのだ。
あの時のように政宗は、もうすぐ幸村の誕生日じゃ、と独り言ちたのかもしれない。
健気な子供がそうするように、懸命に幸村への贈り物を考えたのかもしれないのだ。
覚書をする必要もない軽さの、でも特別な場所にようやく立てた気がして、同時にあの時は当たり前に政宗の傍にいられる彼の家族に嫉妬なんてしてしまっていたのだと思い至る。
我ながら心が狭いと思ったのだけど、それが何だかこそばゆくて政宗の肩口にぐりぐり顔を押し付けたら、幸村の上機嫌の理由なんて見当も付かないであろう政宗が冗談めかした抗議の声を上げた。
6月頃から11月までの拍手で、何が言いたかったのかというと、
何のつもりでこの話を書いたのかすっかり忘れてしまっています私は、ということです。
(09/12/14)