左近に、兼続に、或いは吉継に言われるまでもない。取るべき道は二つに一つ、そこまでは分かっている。
薄気味悪いほど静まり返った屋敷の中、だが己を監視する幾つもの鬱陶しい視線を振り払うでもなく、座敷に一人胡坐を掻いたまま三成は思う。
大掛かりな戦でもって徳川を下すことは、もっとも判り易い手段で豊臣の御世を守る唯一の方法である。同時に、老齢と言っても差し支えない内府の命尽きるを待ち、その後ゆっくり離反の意を表した諸将を誅する。此方は最も確実な方法だ。
どちらがより理に適っているのか、ここ数日の三成の頭を支配しているものは、それだった。豊家の為、そんな甘い幻惑に酔って己を縊り殺そうとする正則や清正のことなど、二の次だ。
きっとこの屋敷の奥で内府は、俺を殺すべきか否か、同じように逡巡しているのだろうな。
そう思うと殺意まではないものの、敵意を剥き出しで此方を睨めつけてくる無数の視線すらおかしかった。
正則らに追われ我が知と胆力を思い知れとばかり、黒幕である徳川屋敷に逃げ込んだのは良いが、俺は本当に奴らに恨まれているのだな、三成は今更ながらにそう実感する。
とはいえ、このような時勢に己の感情だけで内輪揉めを広げていく正則や清正の足りなさ加減には、三成自身辟易しているのだ、人のことは言えぬ。だが憎んではならぬ。
三成は必死で怒りを押し殺し、平静であろうとする。
戦か、一先ず日和見を決め込み機を待つのか、その二つの間で己が揺らぐのは、自分こそが誰より家康のことを憎むが故、頭が回っていないからであろう。
「そうやって感情すらも頭で押さえ込んで何とかなるとお思いのところこそ、殿の悪い癖ですよ」
左近はそう言うであろうが、正則を見ろ、三成だってそう言ってやりたい。
憎悪は人の目を曇らせる。
あの馬鹿共は、確かに元々馬鹿ではあったが、俺憎しの感情で豊家の今後も自らの命の置き所すら見失ったではないか。俺はああはならぬ。内府めはあくまで仇であって、俺は誰も憎むべきではない。
そう思った矢先重い溜息が漏れ、三成は忌々しげに足を組み替えた。
分かっている、頭で心を律するのは無理だ。
己が館にいる時のように手にした扇子か何かを投げ付けなかっただけでも上出来で、つまりはそのくらいの分別はあるが、逆に言えばその程度にしか自らを抑えることが出来ていない、という何よりの証拠だ。
湯漬けを所望するという三成の言からたっぷり二刻、努めて無表情のままそれを持って来た侍女は、一言も発することなく三成の前に湯漬けのみを置くとそのまま辞した。
上の者から話すことを禁じられているのか、彼女の個人的な徳川への忠義がそうさせるのか計りかね、随分ゆったりしたものだ、そう聞こえよがしに呟いてみたが、やはり何の反応も無かった。
湯漬けが出た、ということは一先ず屋敷に転がり込んできた三成をどうすべきか、家康が腹を決めたということであろう。
俺であればもっと簡潔に事を進められるがな。
湯漬け一つ出す時機ですら家康と張り合おうとしている己に不快感を拭えぬまま、三成は誰も居らぬ部屋の中央でそう毒づく。
殺すつもりであれば湯漬けを所望したのを幸い、毒を含ませるのが、一番簡単な手段であろう。
だがここまで時間が掛かったということは、とりあえず自分を生き永らせることに決まった訳だ。それでも暗殺という手段を此方も考えないではなかったが故に、少々の警戒は否めないが。
自らの考えを証明するかのように三成は、戦前の猛将がまるでそうするかのように、ずるずると音を立てて湯漬けを掻き込んだ。
日が暮れれば、静まり返っていた屋敷の静寂が一層浮き彫りになる。
左近は今頃心配しているだろうか。むしろ奴のことだ、一言の相談もなしに徳川屋敷に飛び込むとは、と怒っているかもしれぬ。
侠気を重んじる義宣は今頃、治部め、よくぞ内府の鼻を明かしたと豪快に笑っていることであろう。兼続辺りは膝を打って義を叫んでいるような気がする。そして家康は――。
俺は戦を起こしたいのか?
豊臣を背負って、俺如きが、秀吉様の残した全てをこの手に握って。取り零し、握り潰してしまうかもしれぬのに?
治部少憎しと伏見を走り回っている正則達と今の俺は何が違う。俺は内府が憎くて堪らぬだけではないのか?天に手が届くあの男。互いに腹の内を探り合いながらも、秀吉様と肩を並べられる唯一の男。
俺は唯の治部少で、だがあの男は武士の棟梁になろうとしている。成程、嫉妬か。
もしも家康に目通りが叶ったら、いや、許されるものなら家康の寝所にでも怒鳴り込み、俺がそんなに憎いかと問うてやりたい。何故なら俺自身が奴を憎くて憎くて堪らぬからだ。
貴様も所詮俺と同じなのかと。
あの狸がそうそう腹など見せぬだろうが、貴様さえ居らねば天は己のものだと罵って欲しい気もしたし、あの好々爺めいた底知れぬ笑みで、何を馬鹿な事を仰るかと戒めて欲しくもあった。
音もなく襖が開いて先程の侍女が入ってきたのは、その時だった。
刺客か、或いはこれは自分の想像の続きで、もしや内府がやってきたのか、そう身構えた三成に相変わらずにこりともせず「寝付けぬようでこざいました故」それだけを手短に告げると、ことりと小さな徳利を置く。
誰の差し金かと問えば「上様直々の仰せにございます」と返ってきた。
天下人を示す上様という敬称を内府如きにと目くじらを立てた時には、既に女は背を向けていた。躾の行き届いたことだ。返事の返らぬ簡素な徳利に向かって、三成は独り語ちる。
折角だ、敵に酒のおこぼれを頂くも悪くあるまい、そう思い返し、手酌で徳利を傾けた三成は、覚えのある酒の香に目を見張った。
家康が吝嗇家であることは三成も知るところであったから、秀吉存命の頃、ふとしたきっかけで行われた内府の館での太閤歓待の宴の華やかさは、三成にとっては大層な驚きであった。と同時に、家康にそこまでさせる主・秀吉に、途方もない誇りを抱いたのも確かだった。
東西の美味をこれでもかと集めた膳、文句の付けようのない器、しかし華美に過ぎず、田舎者が見よう見真似で贅を凝らしてみたというのとも一線を画す品格のようなものが感じられた。
無論、そのようなことに家康自身は興味がなかったであろうから、そつのない家臣が手を尽くし用意したものだと思われたが。
秀吉の傍に付けられた女が酒を注がんとした瞬間、家康はあの人の良さそうな、しかし三成にとっては反吐が出るくらい忌々しい笑みを湛えながら言ったのだ。
「特別な趣向がございましてな。酒だけは尾張の百姓より直接取り付けたのです」
盃の中の酒は、白く濁っていた。
市井の者が好んで口にする、決して上質ではないそれ。
まさか秀吉様の生まれを嘲笑う気ではなかろうな、そういきり立った三成の耳に聞こえたのが、秀吉の嘆息だった。
有難いことじゃ。
人臣位を極めた筈の太閤殿下は、確かに、耳障りな尾張弁交じりの言葉で呟いたのだ。
「贅を凝らしたものが何より儂は好きじゃ。女も膳も磨き上げられたものが好きじゃ。だがこれだけは、のう」
そう言って目を細めて酒を舐める。
「よくぞ、用意してくださった」
確かに秀吉は、そう言ったのだ。家康殿、よくぞ、と。
それを受け、家康は心底嬉しそうに巨体を揺すり、声を殺したまま笑ってみせた。
この私めにも、恥ずかしながらそのようなものがございますれば。
あの万感篭った秀吉の呼び掛けは、満足気な家康の笑みは――年若い三成には芝居めいてすら見える、郷愁をたっぷり含んだそれは、だが、きっと、本物だった。
あれすら人誑しと謳われた太閤の、或いは野望を抱いた老将の駆け引きだったのだとしたら。間違いない、彼らは真の天才だ。
今、三成の手の内には、それと全く同じ酒が湛えられている。
覚えているか、内府は手の内に転がり込んできた小賢しい若造に、そう問いたいのであろう。
この簡素な、世辞にも旨いとは言えぬ酒を心底好んだ天下人がいたことを。
天を愛し、己の才を愛し、不肖な部下共を愛し、それと全く同じように市井の者を、彼らが好む酒ですら愛した男がいたことを覚えているかと家康は問うたのだ。
お前はその方の為に何を為すのだ、と。
あの宴を仕切ったのは確かに家康ではあるまい。しかし今三成にあの酒を出せと命じたのは、家康本人に違いない。あの女が嘘を言う必要などないのだから。
いや、仮令そう聞かされていなかったとしても、これは家康からの挑戦だ、三成はそう思う。
三成、そなたにこの酒の味が分かるか。儂はこの方の残したものを全力でもって押し潰す。それが嫌なら、治部め、かかってこい、家康はそう言っている。
家康は己を憎んでいる訳ではない、三成は確信する。内府は秀吉が残したものを自らの手中に収め、自らの手でもって塗り替えんとしているだけだ。
「有難い」
いつぞやの太閤によく似た台詞が、知らず口をついて出た。
俺はもう貴様を憎むまい。憎んだとしてもそれは仇故のこと。兵を集め正面から挑むのだ。
口には合わぬ酒を舐めながら三成は愉快そうな含み笑いを浮かべる。
秀吉様には及びもつかぬ俺の小さな手でも、守れるものがきっとある。秀吉様が身罷られたこの世の中で、俺がそれを見せられるのは兼続でも幸村でも、左近ですらない。きっと貴様だけだ、家康。
結城秀康に警護されながらも無事な姿を見せた主に、左近は大きく息を吐いた。
「殿、こういう危険なことは勘弁してくださいよ」左近の目はそう訴えていたが、さすがに内府の息子である秀康の手前、主への説教は断念したようだった。
それを面白そうに観察しながらも三成は静かに言う。
左近、俺は立つぞ。
左近は勿論のこと、隣にいた秀康も呆気に取られ三成を見詰めた。
俺は、立つぞ。
だからもう一度、はっきりと口にしてやる。
「ちょ、殿、何を」
「大丈夫だ、恐らくは内府も承知のこと」
「…徳川屋敷で何かあったんですかい?」
声を潜めて剣呑な表情で左近が問うが、三成には上手く説明できる自信がなかった。
きっとお前にも分からぬ。あの正信にすら分からぬ。これは俺と内府だけの謀だ。豊臣と徳川の行き着く先は俺にも見えぬ。
だか、秀吉様が愛した日ノ本は、どう転んでもなくなりはしない。
「まさか内府の策に嵌ったとかではないですよね?」
そうかもしれぬし、そうでないのかもしれぬ。しかし、もしもあれが俺を奮い立たせる為の策であるなら、内府は天才だ。
その天才に真っ向から挑めるのは、俺だけだろう?
「まあ、随分といい顔になられましたがね」
これで左近も安心して戦働きが出来るってもんだ。
己を前に堂々と挙兵の話をする佐和山主従に、秀康は困ったように、しかしやがて大声で呵呵と笑い出した。
この豪胆な武将を好み始めていることに、三成は気付く。彼が内府の種だとしても、そうでなくとも。
父に寵されず不遇をかこつ次男坊、世間ではそう取沙汰されている彼に、父を誇れよと言いたかったのだが、それはわざわざ自分が伝えるべきことではない、そう思い直した。
寝所に一人篭った内府が考え直し思いあぐねた挙句、仏頂面を隠しもせず、治部如きに秘蔵の酒を舐めさせてやったことは、如何に息子といえど話したくないことに違いない。
「内府に、昨夜の馳走の礼を伝えてくれ」
それでもこれだけは伝えようと馬上から振り返って秀康に声を掛ける。
秀康の姿は既に小さくなってはいたが、三成には、秀康が礼として受け取った佩刀を大きく掲げたのが、はっきりと見て取れた。
関ヶ原に行くとこんな話を書きたくなってしまうですよ。みんな、大好き!
どぶろくがあるかどうかとか全然知りませんが、昔太閤立志伝ではアイテムとしてあったのでいいんじゃね?みたいな気持ち。
(09/12/14)