この期に及んで面と向かって言える言葉など何一つないと思っていたのに、おねね様は違ったか、と三成は己の計算違いに胸を撫で下ろすような気分で思う。
座敷の中央、平伏した三成につかつかと歩み寄ると、彼女は両手を腰に当て、在りし日のままの勢いで言った。お説教だよ、三成。
「何か物騒なことを企んでるんでしょう?お説教だよ!」
既に下ろした髪に似合わぬ台詞であることも(だって彼女のそれは、そういう意味の説教とはまるで違うのだし)、地味な、しかし趣味の良い色合いの着物の裾が乱れることすら気にせず、ねねはそうやっておどけてみせる。
内府と事を構える直前の、もしかすると今生の別れ。折角しめやかに行う為に平伏までして彼女を迎えたのに、貴女は俺の感傷などちっとも用がないらしい。
見目こそ違うが苦無を駆って戦場を走り回っていた時のままの声に、つい恨み言の一つも言いたくなった三成は、せめて苦笑を浮かべる。おねね様、俺はもう子供ではありません。そう仰られるとあの頃のように思わず逃げたくなる。
そう零せば「逃げたらもっとお説教だよ!」とねねは鮮やかに笑う。
お説教――きっと石田三成が人生の中で最も多く耳にした単語は、お説教なんでしょうね。
そう言ったら、ねねは酷く真面目な顔で返事した。こら、正則!だとあたしは思うよ?だって真っ先に叱られる回数は、あの子がダントツだった、と。
ああ、それはそうでしょうね、三成が同意する間もなく、ねねは、全く同じ声音で呟く。
「そういう言い方は止めなさい、三成」
「何がです?」
「石田三成の人生はまだ終わってないんだよ」
「………」
逃げたら、もっとお説教だって言っただろう?ねねが呟く。
ほら、また一つ、お説教という単語を聞いた回数が増えました。
憎まれ口を叩きながらも三成にはどうしても問い質せない。
逃げたら?何から?内府から、豊臣から、治部少の責務から?
もしかしたら今生の別れ、しめやかに行うつもりはあったが、湿っぽくするつもりはなかった。ああ、だが、やはり貴女は俺の感傷どころか、せめて最後かも知れぬその時くらいは、俺にしては珍しく、貴女のいい息子という立場で締め括りたい、そんな子供っぽい矜持にもちっとも用はないらしい。
逃げるな、と怒る癖に、こんなことを尋ねるのだから。
「…なんで逃げなかったの、三成?」
内府からですか、豊臣から?治部少の責務から?それとも先程両手を腰に当て、お説教をする真似をした貴女から?
三成はもう一度だけ、心の中で繰り返す。
「…逃げたら、もっとお説教だからです。私はそうやっておねね様に育てられましたから」
負けるとは思っていない。それは裏を返せば勝算も無いということ。
嫌味に聞こえるかとねねの表情を窺ったが、ねねは薄く笑っただけだった。だから本当のことを言いたくなった。
「おねね様は意外とすぐに手が出る方だ。いや、意外でも何でもありませんが」
市松と喧嘩した時だって、ねねにばれれば、すぐに叩かれた。正直、市松めの拳なんかより強烈だった。
ものの見事に二人揃って殴られて、その後けろりとした顔で彼女は尋ねる。
で?何があったんだい?原因は何だい?
まずは兎に角その場を収め、それからじっくり裁量を下す。それが、かつての彼女の正義だった。
「でもおねね様が本当に殴つかどうかくらい、俺にだって分かります」
彼女がそうやってげんこつを揮わなくなったのは、自分に分別がつき始めたからだと信じていた。
「こら、三成!」その一言で、少しだけ冷静になれるくらいには、俺も大人になったのだ、そう自負していた。
「けど途中から気付いた。俺が子供だった時、あなたは必ず右手を振り上げていた。俺も市松も虎之助も、悪さをすればすぐ殴れるように。けれどきちんと手加減出来るように、利き腕で」
ねねが顔を覆うから、許してください、三成も思う。ずっと確かめたかったのだ、許してください。
「出来の悪い息子共を叱らねばならぬのに、でももうご自分ではどうしようもないことが多過ぎた。貴女がそうやって拳を振り上げなくなったのは、その頃からでしょう?本当に握り締めた右手は、かつての左手同様、腰に当て、それを隠したままで。違いますか?」
「みつな――」
「怒っても、殴っても良かったんです。貴女だけにはその資格があった。息子としてはそう言うのが正解なのでしょう」
けど、俺にはそう言うことも出来ない。資格があったのは確かなこと、そんなことも知らぬ世間は俺が負ければ北政所が治部少を見限ったからだと騒ぐでしょう。
「だっておねね様には、叩くかお説教をするか、或いは何もせぬか。資格なんかじゃない、それを選ぶ権利があったのですから。勝手ながらそれでも怒り続けてくれたおねね様を、俺は」
もう、良いのだ。三成は思う。
もう彼女自身でもどうしようもない時勢の流れの中、それでもねねは両手を腰に当て、あの懐かしい姿勢を作って笑ってくれた。
逃げたらお説教だよ、そう言われた時、本当は叫びたくなるほど嬉しかった。逃げる権利は俺にだってあったのだ。ただ、逃げなかっただけ。
「そこまで分かってて、なんで逃げないの、三成」
「…逃げたらもっとお説教だからです」
憮然と答えた三成に、ねねは弾かれたように笑い出す。
ひとしきり笑いが収まった後、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ねねは呟いた。
「子供の頃からばかすか殴って石頭にさせちゃったからね」
どうせならちゃんと最後まであたしは盛大に叱ってやるんだったね。佐吉も、市松も虎も。
見送りはいいと丁寧且つしつこく辞したにも拘わらず、相変わらず聞く耳持たぬ彼女は、門までやってきた。
「あの馬鹿共を頼みます」
正則や清正に彼女が何と言い含めているか、家康とねねの間にどれだけの交流があるのか、三成だって知っている。
だがそんな台詞を必要以上に深読みし気分を損なうようなお方ではない、そう考え三成は頭を下げた。
「あのね!」
階段を降りかけた三成に声が降る。
「その馬鹿が、同じことを言いに来たよ」
それが正則なのか清正なのか、或いは内府その人なのか、もう三成にはどうでもいいことだった。
笑顔を浮かべたまま、ねねは叫ぶ。喧嘩?何が原因なんだい?そう尋ねた時と全く同じ笑顔で。
「勝っても負けても、お説教だからね!」
「逃げたら?」
内府から、豊臣から。治部少の責務から――自分がこっそり抱いた、誇りから。
ねねが大きく右手を振った。幼子が畦道の脇で別れを惜しみ合うように。
武器の握り方も冬場の水仕事も、悪餓鬼の殴り方も、全てを心得た右手を大きく振って、拳を作ってみせる。
「逃げたら、もっとお説教!決まってるだろう、三成?」
きっとこの人は、清正にも正則にも同じことを言ったに違いない。
清正は相変わらずなおねね様に苦笑いをし、正則はあの拳の強烈さを思い出して顔を顰めて見せただろう。だから俺はどっちもでなく、手を振り返そうと思った。
俺が秀吉様に教わったのは天の広さ。けど俺達には、それは少し難し過ぎたので。
せめて覚えておこうと思った。
悪いことをしたらお説教、喧嘩をしたらお説教、逃げたらもっとお説教。
天の広さは分からずとも、それだったらば理解できる。大丈夫、おねね様、喧嘩ばかりだったけど、俺達は決して逃げません。
天下分け目の大戦、けど天下は分けられないし、秀吉様と貴女が愛した日ノ本は、決してなくならない。
もう一度だけ大きく手を振って、後は振り返らなかった。
恐らく、自分の姿が見えなくなるまで、彼女は右手を高く振って見送り続けるのだろうと思った。
もう一度、その手を躊躇なく動かせるように、と三成は願う。
戦の果てに訪れるであろう長い長い泰平の世、どうか彼女がその手を大きく翳し、笑って、泣いて、いつまでも手に負えぬ悪餓鬼を殴り続けられるように、どうか、今度こそ。
「殿、もういいんですかい?」
頼んだ訳ではなかったのに、全く過保護なことに左近がわざわざ迎えに来ていた。
小さく頷けば、左近はすぐに話題を移す。宇喜多から来た密使のこと、兼続よりの書状、上杉征伐を名目に集まっている諸大名の動向。
「そうそう、正継殿がお出でになられましたよ」
「父上が?」
不肖の息子と命運を共にせんと馳せ参じてくれたのだろう。
一族郎党一丸となって戦に望むは当たり前、だが三成には当たり前だと頷くことなど出来なかった。思わず言葉を詰まらせた主を眩しそうに見詰めながら、左近が言う。
「殿は、本当に良い親御さん達をお持ちだ」
「…家臣もな」
「そう言われちゃ、今更怖気づくなんて出来ませんなあ」
「安心しろ。怖気づいて逃げたら、もっとお説教だ」
「そりゃ剣呑、左近も精々頑張りませんと」
「ああ、剣呑だ。内府なんか目じゃないくらい、怖いぞ」
そんなにですかい?
おどけた調子で歩みを止めた左近を尻目に、三成はさっさと歩き出す。
後ろから左近の呟きが聞こえたが、振り返れなかった。最高の家臣は、分不相応な戦に臨む主に、最高の台詞を吐いてくれたから。
「可愛い顔して容赦なし、ですかい。そういうところ、本当にそっくりですよ、あなた方は」
左近の呟きに思わず見上げ仰いだ空は、秀吉が天下人になった瞬間の空と、全く同じ色だった。
不安げに息子を見送るよりも、「さー行っといで!」と笑う方がおねね様には似合う。
もしも息子達が、頑張ってきます、と言いに来たら、ねねも、笑って見送ってあげられるのではないでしょうか。
あと、敗色濃厚になった関ヶ原で、三成が逃げる時、諦めかけた彼の背を押して再起を誓わせるものがあったんだろうと思いました。
それは左近達の奮戦と、おねね様達の「どうでもいいところだったら逃げても良いけど、最後の矜持だけは放り出して逃げちゃ駄目」という
教育方針に支えられた結果であったら良いな、という妄想。
(09/12/14)