政宗は、自分にだけは優しい。
そんなこと充分知っている幸村は、自分自身の機嫌の取り方すら分からない。
 
甘えているという自覚はあるし、過度な我侭は関係の破滅だと知ってはいても、どうすることも出来ない。
いつもだったら気にならない政宗の態度とか、言葉の端々に含まれる棘に、過剰に反応したのは、きっとそもそも自分の機嫌が良くなかったから、なのだ。
いや、本当は彼の言葉に棘なんて欠片もなかった。いつもみたいに、ちょっと大袈裟に、手放しで、必要以上に褒めて欲しかっただけだ。褒められるようなことは何一つ、してないのだけど。
 
出掛けに忘れ物に気付いてわざわざ家まで戻らなきゃいけなかった。
信号は青だったのに、不義の車にクラクションを鳴らされた。
挙句の果てに兼続にばったり会って、急いでいたのに義の話をされた。
「よくもまあ、毎日毎日不義の山犬なんぞに付き合えるものだ!そろそろ飽きてはこぬか、幸村?!」
元気にそう尋ねられ、少しカチンときた。
 
あなたこそ、毎日毎日、政宗殿と言い争いばっかして、飽きませんか?嫌いなら放っておけば良いじゃないですか。
そう言い返せないことにも、正直腹が立った。
 
それを世間では、他愛ないヤキモチだとか(もしもこれで本当に政宗と兼続が云々だったら、他愛ないどころではない、真剣なヤキモチになって、それはそれで大問題なので幸村とて全力を挙げて考えねばならぬことなのだが、本気でないヤキモチは本気のそれよりよっぽど性質が悪いものだ)、全然関係ない第三者に恋愛などという実に個人的なものに首を突っ込まれた上に「飽きないのか」という漠然とした不安をぴたり当てられ、自分達にはそんなことあり得ないと信じるが故に不快な気分になった、即ち惚気、とかいうのだが――おっとりしている割に、偶にスイッチ一つで簡単に頭に血が上ってしまう幸村は、そこまで気付かない。
勿論、政宗に会って、彼が笑って頭をぐりぐりしてくれたらこんな気分吹き飛ぶのに、という馬鹿げた期待が身体中を駆け巡っていることに関しても、自覚はゼロだ。
 
 
 
玄関先に現れた幸村に、政宗は憎たらしいくらいのいつもの笑顔で「遅かったな」と言った。
それがもう癪に障る。
色々、あったんです、色々。面倒臭がりの幸村は、その色々についてわざわざ言及しないから、政宗は不審な色を浮かべる。
 
その顔にはありありと「ご機嫌斜めじゃな」と書いてあって、ならば一体どうしたらいいのだ、あなたが例えば、と幸村は心の中で文句を垂れるのだ。
あなたが例えば、来るのが遅いから心配したぞ、と抱き締めてくれれば良いだけなのに。兼続に会ったのか、大変だったであろう、と頭を撫でてくれれば済むのに。
あ、やっぱり駄目だ。もしもそれを当てられたら、きっと自分はもっと怒る。仲悪い癖に、何分かり合っちゃってるんですか、くらいは、今なら怒鳴りつけられそうな気がする。
 
 
 
そんなこんなで、甘えてる自覚はあれど、具体的にはそれってどういう状態ですか?な幸村が、政宗との会話に逐一揚げ足を取り始めれば、後はいつもの喧嘩コースまっしぐらだ。
宥めたり、猫撫で声を出したりしていた政宗がぶち切れ、「何じゃ、その態度は!もうちっと素直になれ、素直に!」と詰め寄る。
自分の機嫌が悪いのは政宗の所為ではないことだけは分かっているから幸村は、激昂した政宗から目を逸らす。
 
それでも変に頑固な幸村であるから、ぼそぼそと聞こえよがしに文句を呟いて、後は政宗がぶりぶり怒ったり、「あーもう仕様がないのう」と溜息混じりに、でもおずおずと抱き締めたり、それで喧嘩は終了だった筈だったのだが。
 
「愚鈍な私には、政宗殿の仰る素直な態度などとれませぬ」
 
これが、悪かった。
 
けど何が悪かったのかなんて後になってから分かるもので、その言葉を発した瞬間の幸村にとっては、ちょびっとだけ本音混じりの、唯の売り言葉に買い言葉のつもりだったのだが。
 
政宗が幸村の顔をまじまじと見る。
何か言いたげに暫く口を動かしていたが、やがて驚くほど冷たい声で、そうか。一言だけ。
立ち尽くしている幸村に背を向けると、さっさと部屋を出て行った。
 
 
 
慌てたのは幸村の方である。
どんなに酷い罵り合いをしたって、絶対に背を向けなかった政宗が。
言い負かされて二の句が次げず、ふいと部屋を出て行くのは自分の役割ではなかったか。無駄に広い政宗の家の何処かで膝を抱えて、彼が迎えにくるのを待って。時々待ちきれずに、もう少し政宗が見つけ易い場所に移動してみたりして。或いは、変に拗ねて庭の片隅に隠れたりして。
それでも、どんな酷い仏頂面をぶら下げてはいても、でも彼は必ず来てくれたから、呑気にぷりぷりしてられたのに。
 
背を向けた恋人を追いかける方法なんて、幸村は知らない。
ちょっと八つ当たりして、甘えたかっただけなのに、なんでこんなおおごとに。
 
おおごと、どころではない。もしもこのまま別れて二度と会えなくなったらどうしよう。
これも後で冷静になってみれば、仮に別れることになっても別れる為にはそれなりの儀式が必要で(二人で別れについて話し合うとか、そういう時間のことだ)、しかも二度と会えないなんてことはないと分かるのだが、少なくともこの時の幸村は、結構本気だった。
 
足が縺れそうになるのを必死で支えて政宗の後を追う。
廊下を亘って台所で政宗に追いついたのに、声を掛けるどころか横に並ぶことすら出来ない。
 
明らかに怒っている筈の政宗の足音は、いつもと全く変わらなくて、取りつく島がないとはこのことだ、せめて床を踏み鳴らすようにどすどすと歩いてくれれば良かったのに、と絶望的な気持ちになる。勿論、幸村が慌てて付いて来たことは百も承知で、なのに決して振り返らない後姿にも。
 
背を向けたまま急に洗い物なんて始めてしまった政宗の背後で立ち尽くしたまま、幸村は必死で言葉を探す。
だって彼はいつだって迎えに来てくれて「すまなかった。もう謝るから、そう怒るな幸村」って。
 
でもそんなこと言えない。
下らないことで怒るのはいつも自分で、だからいつもの政宗と同じように、怒るな、なんてとてもじゃないけど言えないのだ。
自分の所為で不愉快な思いをしてるであろう政宗は、いつだってさっさと彼自身の機嫌を直す術を知っていて、自分は政宗に頭を撫でてもらわなければ自分の気持ちを切り替えることも出来ない。
 
そんなことを考えてる幸村をやっぱり無視して、今度は政宗は湯を沸かし始める。
湯飲みを取りに行く政宗が振り返った時、一瞬だけ、目が合ったのだけど、政宗は大きな溜息を吐いただけで、何も言わなかった。(後で、捨てられた犬のような目をするのは反則じゃと笑われたけど、勿論今の幸村には知る由もない)
せめて彼の進路の邪魔にならないようにと慌てて飛び退って、腰をテーブルに強かに打ちつけたのだけど、それすら無視された。(仲直りの後で、軽い痣になったそれを政宗は楽しげに舐めて、幸村も政宗の背に腕を回しつつ身を捩って笑うのだけど、そんなこと今の幸村にはどう引っ繰り返ったって想像出来っこないのだ)
 
ただ、政宗の手には湯飲みがしっかり二つ握られていて、その一つが他でもない、政宗が用意してくれた自分用のいつもの湯飲みだと気付いた幸村は、意を決してやっと口を開く。
 
「…あの、申し訳、ございませんでした」
「何がじゃ」
 
そう言って再び背を向けて、政宗は乱暴に湯飲みを置く。
がちゃん、と響いた音に幸村は一瞬首を竦めたが、却ってそれで勇気が出た。先程のように、まるで全く怒ってないかのように静かに歩いた挙句無視されるよりマシだ。
 
「苛々して、八つ当たりして、その、ごめんなさい」
 
ぺこりと頭を下げた幸村の姿なんか見えてない筈なのに、政宗が「ぐっ」と小さく呻いたのが幸村にも聞こえた。甘えさせて、欲しかったのです、ごめんなさい。
 
「…あのな」
 
都合の良いことを言うな、もう貴様なんぞ知らん。最悪、そう叱られてもおかしくないと身を硬くした幸村の頭上から、政宗の声が降ってきた。
 
「もう一回、言うてみろ」
「は?」
「今の、もう一回じゃ。そうしたらもしかして、儂も絆されてあっさり許してやらんこともない」
「甘えたくて、ごめんなさい?って、うわっ!」
 
お辞儀の姿勢を崩さぬままだったので、政宗が飛び掛ってきたことにも気付けず、反応が遅れた。
幸村の首に縋りつくように抱き付いた政宗は、耳元でさも嬉しそうに言う。
 
「儂は喧嘩は嫌じゃが、お主にそうやって謝られるのは、好きじゃ」
「ごめんなさい、が、ですか?」
「こんな下らぬ痴話喧嘩で申し訳ありませんでした、なんて言われてみろ。寂しいぞ?」
 
そういうものですか?と尋ねようとして、結局止めた。
慌てて追い掛けてるのに、ちっとも振り返らず、それどころか怒った素振りさえ見せてくれない政宗に、自分も絶望したのだし、きっと政宗が言っているのは、それと同じようなことのような気がしたので。
 
もう一度だけ小声で「ごめんなさい」と呟いたら、真面目腐った声で政宗が「よし、許す」と囁いた。
 
 
 
「じゃが、偶には立場が逆になるのも良いものじゃ」
 
お茶を飲みながら政宗はそう笑う。けど幸村にはさっぱり意味が分からない。
いつもだったら聞き流してしまうけど、仲直りの後で少しだけ素直になっている幸村は、首を傾げた。
 
「いつもは儂がとりあえず謝って、結局お主が折れるじゃろう?」
「いつも政宗殿が折れてるじゃないですか。私は政宗殿のように」
 
自分で機嫌を直すことも、素直に謝ることも出来ません。しゅんとした幸村の耳に、やけに明るい政宗の声が響く。
 
「ああ、先のはそういうことか?」
「何がですか?」
「愚鈍な私には、って奴じゃ」
 
「政宗殿が持ち上げてくれないと、愚鈍な私には、どうしたら素直になれるのかも、どうやって自分の機嫌を直したらいいのかも分かりません」
「凄い殺し文句じゃな」
 
お茶を飲み終えた政宗が、静かに湯飲みを置く。
幸村はまだ両手で湯飲みを握ったまま。
 
きっとこれを手放したら、政宗は自分に擦り寄ってくるのだろうと幸村は思う。
擦り寄ってきて、覆い被さって、いつもより何だか丁寧なキスを繰り返して後は――喧嘩の後で抱き合うのは、いつもと恥ずかしさが比べ物にならないから、幸村はなかなか湯飲みを下ろせない。
 
「けどな、愚鈍などとは言うな。いつまでも根に持つのも素直でないのも構わぬがな、お主は儂のものじゃろう?」
 
頷くべきか、素知らぬ振りをして茶を啜るべきか、幸村にはやっぱり分からないのだけど。
 
「いくらお主でも、幸村を愚弄するのは許さんぞ」
 
そっちの方が凄い殺し文句じゃないだろうか。
それだけは分かったので、ちょっと頑張ってまだ飲みかけの湯飲みをそっと置いたら、計ったように政宗が覆い被さってきた。
いつもより少しだけ強い力で政宗の身体を引き寄せながら、幸村は、大好きですと言うべきか、今日はずっと一緒にいたいですと告げるべきか、結構真剣に悩んでみたのだけど、答えが出なかったので、いっそ両方とも言ってしまおうと奇妙な決意を固めてみたのだった。
 
幸村の珍しく殊勝な決意がどうなったかは、政宗しか知らない。

 

 

喧嘩→仲直り→あはんうふんは王道だと思うので書いてみたよ!
が、喧嘩のシーンを書くのがすんごい辛くて、我ながら吃驚しました。泣きそうでした。後半甘すぎるのはその所為です。
政宗は、頭に血が上りやすい割に切り替えも上手い、
(だから急に喧嘩の最中に別のことしたりする)(けどこれが長男坊の美徳だと思うので、兼続もそうだと思います)
幸村も割と変なスイッチで怒りそうですが、切り替え下手だと信じてます。甘えたがり故に心狭いのが幸村。
きっと三成も、どちらかというと幸村タイプ。
(10/02/02)