呼び鈴の音が響き、如何にも手持ち無沙汰に立ったまま新聞を広げていた三成は、玄関へと急いだ。約束、だったのだ。
困り顔の幸村にそっと耳打ちされ、「それならもっと別の…例えば女子とかに頼んだ方が良いのではないか」と言ってはみたものの、正直心の中では、兼続より誰より真っ先に自分が頼られたことに対する誇らしさでいっぱいだった。
頼みごとの内容を冷静に考えれば、幸村が何故三成に言ったのかは、誰も、多分当の幸村でさえ分からないところではあるのだが、少なくともこの時の三成は、何とかしてやろうと心から思ったのだ。
俺達で何とかならなくても、まあ、左近がいるだろうし。
三成の左近への信頼は、変なところで無駄に厚い。
片手にスーパーの袋を抱え、少しだけ所在無さ気に玄関に佇む幸村を家に招き入れると、やっと彼が息を吐いた。
一応、緊張していたのだろう。
簡単な料理くらいは出来る幸村は(三成はフライ返しとお玉の区別も余り付かないが)それでも菓子と名の付くものを作るのは初めてだ。
しかも折りしもバレンタイン。
愛する人に手作りチョコを作る、なんて普段の幸村のキャラからしたら大分おかしいのだが、彼が浮かれ気分の世間に踊らされたところで一体誰が責められよう。
仮令、真に初めて手作りされた菓子を食わされるのが、拷問以外の何物でなかったとしても。
「しかし随分買ってきたな」
「ええ、チョコは溶かして作ると聞きました。溶かしたら少なくなってしまうかと思って」
「ふむ、道理だな」
道理でも何でもない。
世の中には質量保存の法則というものが存在する筈なのだが、ちょびっとわくわくしている幸村の頭からは、ついでに初めてエプロンを付けてみた三成の頭の中からも、きれいさっぱりその概念が消え失せているだけである。
箱買いしてきた何の変哲もない板チョコの封を切ってみたは良いものの、早速二人は固まった。
「これは…どう溶かすのだ?」
「さあ…?」
「おい、左近!左近、さっと来い!早くしろ!」
苛々を隠さぬ主の声に呼ばれ、奥から左近が顔を出した。
「はいはい、殿。大声出さなくても聞こえてますよ。お、幸村か、久しぶりだねえ」
「お久しぶりです、左近殿」
「何ですかい、この板チョコ。ははあ、成程、バレンタインという訳ですか、若者はいいですなあ」
バレンタイン前、板チョコの群れ、と来たらその先にはもう手作りチョコという図式が思い浮かぶのは常識としても、半端ない量の板チョコを見てもさして気にせぬこの反応。
それ一つとっても、左近が菓子作りに長けているとは思えないのだが、そのことを見破れる者はこの場にはいない。
「幸村とチョコを作るのだ。で、チョコは溶かして作ると聞いたが、どうしたら良いのだ?」
だが左近とて無駄に数十年も生きている訳ではない。湯煎、という言葉は知っていた。さすが左近だ。
「お湯を入れて、その上にチョコを入れたボウルを重ねて溶かせばいいんですよ」
「成程、湯か」
「で、こっちにチョコを入れるのですね、分かりました!」
ストーブの上でしゅんしゅんと湯気を立てるやかんに、三成が手を伸ばす。
勢い込んで銀紙を剥いていく幸村は、削るどころか割りもせず、丸のままの板チョコをボウルに放り込む。
初っ端から何処がどう間違っているのか指摘するのも面倒だ。
「待った!」
と、左近が大声を上げた。湯煎も知っていた左近のこと、チョコを溶かす温度も、そもそも削らないと溶けにくいことも知っていたのかと思いきや。
「そのやかん、大分熱くなってるんでね、俺が湯を入れますよ」
「そうか、左近頼む」
回避できたのは、三成の火傷だけだった。
ボウルに熱湯を入れ、その上にみっしり板チョコが積まれたボウルを重ね、見守ること数分。
「……………溶けませんね」
「どういうことだ、左近!横がふにゃふにゃになっただけではないか!」
「こりゃちょっと時間が掛かりそうだ。もう一度、湯を入れ替えてみましょうか」
「すごい量の湯を使うんですね」
「全くこれだから菓子作りなど」
不経済なのだ、と言おうとして、三成は横の幸村にちらり目をやり、口を噤んだ。
膨大なチョコと膨大な湯を使い、更に気の遠くなるような労力もかけて世の女共(と、ついでに幸村)は、惚れた男の為にせっせと菓子を作るのだ。その真心のようなものは、多分、俺如きが簡単に否定して良いものではなかろう。
そう思えるところが三成の良いところなのだが、そういうものだと信じ込んでしまい、本当にこのやり方で当っているのか考えないところが、彼の悪いところである。
何はともあれ、ボウルの中央三分の二くらいはまだ塊が幅を利かせているのだけど、大雑把な幸村はそれを「溶けた」と言い張った。
最もチョコを作りたい本人がそう言うのだから良いのだろうと三成も力強く頷く。
左近だけはまだせっせと湯を沸かし、せっせとボウルの熱湯を入れ替えていたが。
「後は方に流し込むだけですね」
「型とは何だ?」
「三成殿、ハート型の食器とかないですか?」
一般家庭にはそんなもの、普通、ない。
困った三成が左近の茶碗を差し出したが、幸村はそれを断固拒否した。曰く、バレンタインのチョコというものは、ハートの形と決まっており、
「やっぱりオーソドックスな形の方が良いのではないかと思うのですけど」
幸村にそう言われれば、俄然頑張る友想いの三成である。
何かめぼしいものはないかと食器棚を覗き込み、台所中の引き出しを開け、冷蔵庫の中も覗いてみたが、ハートの形状のものは何一つ見当たらなかった。
「…そうだ!アルミホイル!アルミホイルでその形を作れば良いのではないか、幸村」
お玉とフライ返しの区別は付かぬが、サランラップとアルミホイルの区別は付く三成である。
アルミホイル?と首を傾げる幸村の目の前でそれを引き出し、即席のハート型を作り出す三成。
成程!さすが三成殿!と歓声を上げる幸村も手伝い、何だかぐにゃぐにゃの、歪な丸に毛の生えた程度のハートの型がこうして完成した。(勿論左近は、熱湯をボウルに注ぎ続けていた)
それにそっとチョコを流し込み、ご満悦の二人に左近が尋ねる。
「お二人さん、余ったチョコはどうしたらいいんですかね?」
先程幸村がボウルに放り込んだ板チョコは、およそ十三枚程。(それでもまだ手付かずの板チョコが残っていたが、これ以上入らなかった)
掌サイズのハート型(あえて言おう)に入ったのは、ほんのちょびっとだけ。
「このままボウルの中に入れっぱなしだと固まっちゃいませんかね?」
「それもそうだな。よし、とりあえず左近の茶碗の中に投入しろ、幸村」
「ちょ、左近は今晩何でご飯を食べたらいいんですかい」
「まだすっごく余ってますけど」
「それなら郷舎の茶碗にでも入れておけ」
「でも半分以上の残ってます、三成殿!」
「ええい、面倒だ!そこらの茶碗を全部持って来い!それに入れれば文句なかろう!」
おおありである。
石田家の茶碗はあっという間にチョコで埋め尽くされた。
あーあ、げんなりする左近だが、嬉しそうな幸村と三成の顔を見ると、強く反対も出来ない。
「あのハートだけでは小さいからな。茶碗で固めた奴も持って行ってやるといい」
「はい、三成殿!ありがとうございます!」
後はチョコが冷えて固まるのを待つだけだ。
冷蔵庫の棚、丸々一つを占拠したチョコの群れの中から、茶碗を一つ取り出した幸村は「固まっております!」と嬉しそうな声を上げた。
「ほう」と手元を覗き込む三成は、先程まで甘過ぎるチョコの匂いに酔い、横になっていたのだが、もうすっかり元気になったようだ。出来ましたか、と幾分かほっとした顔の左近も集まってくる。
「だが何か…チョコにしてはところどころ白くないか?」
「ええ、実は見て見ぬ振りをしたのですが」
無理矢理熱湯で溶かされ、乱暴に固められたチョコは、表面に分離した油が浮き出ていて、痛々しい。
ま、食べられるものを溶かしただけだから、問題ないんじゃないですかい、左近がそう呟くと、幸村は何処からともなくメモ帳とペンを取り出した。
「そういえばお菓子には、よくこんなことが書いてありますよね」
幸村の手元には『表面が白くなることがありますが、品質には問題ありません』の文字。
一体どんな診査を経て問題ない品質と判断されたのか、左近は少し疑問に思ったが、
「きっと菓子メーカーやプロが作れば白くはならんのだろうが、俺達は素人だ」
「そうですよね、素人にしてはやるものです!」
と息巻く彼らには、そんなこと然したる問題ではない。
三成どころか幸村さえ、それを食わせるのは政宗であるという事実をすっかり忘れ、上機嫌だ。
だが、本当に問題なのはそんなことではなかった。
「大変です、三成殿!アルミホイルががっちり絡まってチョコから外れません!」
「なんだと!」
「殿、ついでに茶碗からも取れないんですがね」
「糞!俺は今日何で飯を食ったら良いのだ!」
三人揃ってチョコの周りのアルミホイルを削ったり、製氷皿から氷を取り出す要領で茶碗を捻ったり(勿論物理的に無理だった)、業を煮やした三成が茶碗を叩き割ろうとしたのだが、チョコはがっつり型に嵌ったまま、取れる気配もない。
「こうなったら茶碗ごと持っていけ。ついでに型もそのままだ」
「ちょ、待った!それ左近の茶碗ですってば!」
「そんなこと分かっている!一日くらい貸してやれ!」
「しかし…これでは余りにも」
「気に病むな!茶碗はお粗末なものだが、見方を変えればハート型まで手作りだぞ!そんなバレンタインの贈り物などそうそうあるか、自信を持て!」
そうそうあっては堪らない。が、素直な幸村は、三成の言葉に顔を輝かせる。
ついでに「チョコにココアパウダーのようなものが掛かってたら良くないですか?」という幸村の生半可な知識から出た提案を受け、三人で大騒ぎしながら台所を引っ繰り返してココアを探し、上からぶっ掛けてみた。
「…何だか…手作りチョコっぽいな、幸村!」
「言われてみれば、これに良く似たお高いチョコを左近も見た気がしますなあ」
確かに悪い意味で手作りチョコで、左近の見た高価なチョコはきっと錯覚だ。
「ええ、三成殿!左近殿も、ありがとうございます!」
「確かに自分で作ると誰かに食べて貰いたくなるものだな。俺の茶碗に入れたチョコは左近にやろう。郷舎と兵庫と分けて食えよ」
三成が少し喋っただけでココアの粉が舞い上がりそうである。案の定、左近は少し咽ながら、一応礼を言った。
「左近殿のお茶碗、お借りしますね」
ほのぼのと義理チョコを贈りあう主従を見ながら、幸村は小さく笑むと、ビニール袋にアルミホイル付のチョコを投げ入れ、茶碗には丁寧にラップで蓋をして意気揚々と出掛けて行った。
ぶっちゃけ、政宗は不安だった。
「今年のバレンタインは頑張りますから、楽しみにしててください」
そう言った幸村は可愛かったが、頑張る、という言葉が気にかかる。
金銭的に普通に頑張るのであればそれはそれで問題ないのだが(いや、金の問題ではないのじゃがな)、幸村がこそこそと三成に何事か話し掛けているのを見てしまった。よりにもよって、三成だ。
そういうことなら兼続の方がまだマシな気がしてくる。
一体どんなチョコを用意するつもりじゃ。あらゆる可能性を考え、まあ、最悪、デパートのチョコ売り場の受けを狙った義理チョコでも有難く頂こうと覚悟を決めていた政宗は、幸村が持ってきた物体を見て、可哀想に息を呑んだ。(ちょっとココアパウダーが咽喉に入って、やっぱり彼もむせた)
「…まさかの手作りか!!!」
そうです、こっちなんてハートですよ、ハート。と、ぐいぐいチョコを押し付けてくる幸村は、どう見ても、作ってる途中でバレンタインの目的とか政宗のことすら忘れ、菓子作りそのものが面白くなってしまった感、丸出しだ。譬えて言うなら、生まれて初めて卵焼きを上手く引っ繰り返せたことが嬉しくて、褒めて貰いたがっている子供の、それだ。
というか、このアルミホイルは何じゃ?型?型なのか?何故型まで手作りするのじゃ。がっつりチョコに絡まっておるではないか。アルミホイルごと食え、と?何故バレンタインにスプーンを思い切り噛んだあの感触を味わわねばならぬのじゃ。
しかも何か浮いとるし。
紙切れには『表面が白くなることがありますが、品質には問題ありません』の文字。しかも手書き。
ああ、問題ないじゃろうて。そんな些細なこと、問題にすらならない。その茶碗は何じゃ?上にこんもり掛かっとるココアパウダーはふりかけか?にしても多過ぎるわ。これで何杯ココアが飲めると思うとるのじゃ。
こんなことなら、チョコなぞ要らん、一緒に過ごすのが一番の贈り物じゃとか何とか、上手いこと言うて丸め込んでおけば良かった。
が、後悔しても、目の前のチョコはなくならない。
覚悟を決めてまずは何とかアルミホイルを剥がそうと思ったら、早速幸村に止められた。
「あ、そちらは出来れば後にしてください。まずは此方の方から」
そう言って差し出されたのは茶碗である。
「これが空かないと、左近殿は今夜ご飯を食べれませんから、先に此方を召し上がってください。そしたら私、三成殿にお返しに参ります」
その言葉で敏い政宗は全てを理解した。
型がなくてアルミホイルで作り、チョコが余ったので左近の茶碗に流し込んだのだろう。しかも茶碗から抜けなくなったのでそのまま持って来たのだ。しこたま、ココアパウダーを振りかけた後に。
誰か止めなかったのか?!特に左近!
大体、外すことも出来ぬほど凝り固まったチョコを、どうやって食えというのだ。しかも茶碗一杯。
儂の愛が試されておる!
そんな政宗の胸中知らず、幸村は早く食べてくださいよと口を尖らすだけ。
「…あのな、折角お主がくれたのじゃから、大事に食べたいのじゃが」
「じゃあ味わって食べればいいじゃないですか。石田家のお夕飯は六時からですって」
「いや、だからな、周りだけ少し溶かして外してから食べたらいかんじゃろうか?」
恐る恐る言ってみたが、幸村が気分を害した風はなく、むしろ、おお!と感嘆の声を上げられた。
良かった、一先ず左近の夕飯時の茶碗の不在についての問題は解決じゃと胸を撫で下ろした政宗は、恋人ががっちり固めたチョコを再び溶かすべく台所に向かう。
儂、何やっとんじゃろうな、と一瞬我に返り思わず笑いが漏れたが、一人ぼっちの台所に響くそれは、案外満更でもなさそうで、政宗はそんな自分に少しだけ吃驚した。
湯の温度を測りながらチョコを溶かす政宗の様子を見に来た幸村が、今更ながら「熱湯では駄目ですか!」と驚いたことも、その頃、石田家では皆が皆、それぞれの茶碗の中からチョコを取り出すのに四苦八苦し「やはり叩き割って中身を出すしかないか、茶碗が勿体無いが」と息巻く主を家臣ら総出で取り押さえたことも、今の政宗にはまだ与り知らぬことである。
良く言うと「伊達の為に一生懸命チョコを作る幸村」の話。三成は、付き合いいいなあ。
途中で何度、これ、幸村と三成をにょたにすればよかった!と思ったことか。
あと、私、お菓子作りどころかチョコを溶かした経験も皆無なので、チョコは湯煎であれこれするらしいってのと、
やり方がマズいと分離するらしい、ってことしか知りません。色々おかしいかもしれませんが、そこはスルーしてください。
(10/02/14)