通い慣れた政宗の家の玄関前に立って、息を整えながら幸村は一人呟いた。
「…どうかしてる」
左手に下げた鞄とコンビニの袋が触れ合ってがさがさと耳障りな音を立てる。右手に握り締めた鍵は、春先というのに昨日からぶり返した息も真白な寒さの中で、奇妙なほどに暖かかった。
先程まで、本当につい今しがたまで、自分達におかしなところなど一つもなかった、と幸村は思う。
一応恋人であるからして互いの優先順位は高めかもしれないが、それでも取るに足らない煩雑な諸々の事情を無視する訳にはいかないのだ。
帰宅するまでの道のり(本当はその後、政宗の家に寄ってまったりする時間も含まれているが)をいつも通り一緒に過ごそうとしていた幸村に、幾分か申し訳なさそうに、しかし然程深刻な顔もせず、他事があると打ち明けた政宗の言葉を、ごくごくフツーに幸村は聞いた。今日は早めに帰ってゆっくり出来そうだったなという感想は、口からも、顔色からも漏れなかったと思うし、実際それは大したことではなかった。
ああ、そうじゃ。
そんな幸村を見ながら政宗は言ったのだ。
「儂もなるべく早く帰る。先に家で待っておれ」
キーホルダーも何も付いてない唯の鍵は、放物線を描きながら空を舞って、幸村の右手にすっぽり収まった。
政宗と一旦別れ、三成と兼続に手を振ったところまでは、やっぱりフツーだった。
一人になってから、一旦掌を広げて静かに光ってる鍵を見た。右手を再び鍵と一緒に握り締めたときからだ、何だかおかしくなったのは。
居ても立ってもいられない、いわば焦燥感のようなものに背を押されるように数十メートル全力疾走し、我に返ってわざとゆっくり歩き、深呼吸をしたと思ったらまた小走りになる。
スーパーの前を通ったときなんか、夕飯の材料を買っていってあげようかなんて思いついてしまって、思わず座り込んだ。人目も憚らずに、だ。
通行人が殆どいなかったことと、財布の中に紙幣が一枚もなかったこと(お小遣い前だったのだ)が幸いして、何食わぬ顔でスーパーも夕飯も無視して歩き出せたのだけど。
一人で帰ることなんて、ざらにある。
一人で政宗の家に向かうことだって、きっと数え切れないほどにある。
そう思っているのに幸村の足はまた速くなる。それを戒める為――そんな必要があるのかどうかも分からなかったけど、兎も角だ――コンビニに駆け込んで、財布の中の百円玉を数えつつ、わざとゆっくり菓子を選んだ。自分でも何故だかとんと分からなかったが、おつまみセットという変な名前の、ソーセージが数本入った惣菜も買ってしまった。
高いのに。こんなのコンビニで買うなんて馬鹿馬鹿しいのに。というかそもそも必要ないのに、お小遣い前だって言ったのに、財布の中の百円玉はもうすっかりなくなってしまったのに。
幸村の心中どころか、此方の顔さえも見ようとしない無愛想な店員に箸は何本かと尋ねられ、口篭りながら「二本、お願いします」と答え、逃げるようにコンビニを後にした。
他人の家に一人ぼっちというのは、なさそうで結構ある体験だ。
ごくごく稀に政宗は自分を家に置いたまま、ちょっと買い物に出掛けたりする。(そういう時は幸村は、ぼんやりテレビを見たりして過ごす)
そういえば先日三成を訪ねて行ったら、丁度留守だったらしく、「すぐに戻ってきますから」とひっきりなしに家臣らが入れ代わり立ち代り茶を持ってきたのには閉口した。
主の友である自分を必要以上に敬っているつもりなのか、それとも粗相があったと後で主に叱られるのが面倒なのか、幸村には判断付きかねたが、やけに広い座敷の中央に座らされどんどん溜まっていく湯飲みに「わんこ蕎麦ですか」と冗談も言えず、左近達の姿が完全に視界から消えてから小さくなって茶を飲んだ。
コンビニから走って辿り着いた政宗の家の玄関で、幸村はそんなことを思い出す。
極力音を立てぬよう、息を殺して茶を啜ったことや、例えば、一人残された政宗の部屋で、テレビのボリュームを何となく落としてしまうことについて。
正直、実に不本意だが正直なことを言うと、自分は結構うきうきしている。
あの時だって、家臣達の過度のもてなしに尻込みしつつも、戻ってきた三成が左近達に「茶を出す前に俺の携帯に連絡を入れろ!」と怒鳴っていた声に噴出した。
人を待つのは面白い。それが普段とちょっと違う場所で、だったら、もっと。
先に政宗の家に入って彼を待つ、というのは、三成の家での出来事とは比べ物にならないくらいのことで、それが幸村をいい気分にさせる。そう、不安になるくらいに。
主不在の家というのは何だか捉えどころがなくて、幸村は鍵を握り締めたまま動けない。
日の入りにはまだ早いが、確実に傾き出した陽射しは温もりとは程遠くて、幸村は首を竦めながらやっとの思いで軒下まで移動する。
鍵を見詰めながら考えるのは、下らない想像。
おかえりなさい、と出迎えればいいんだろうか。
彼の、部屋の中で物音にじっと耳を澄ましながら待って、彼の、家の玄関まで出て、おかえりなさい、って。
ああ、本当にお小遣い前で良かった。スーパーの前で我に返って良かった。
ことことと音を立てる鍋の具合なんか見ながらそんなことを言ったら、それはもう、飯事のような、真似事のような。何の真似って、いや、つまり夫婦というか何というか。
盛大に首を振って頭の中の光景を追い払おうとするのに、幸村の意思とはまったく関係なく、勝手に想像上の物語は進む。
「寒かったでしょう、おかえりなさい」
「ああ、今帰った。今日の飯は何じゃ」
違うのに。
そんなこと期待してないのに。
いつの間にか妄想の自分はエプロンなんか付けている。おかしいだろう?エプロンつけて料理したことなんて、ないですってば。
妄想の自分を覗き込んで「美味そうじゃな」と夕飯に舌鼓を打ちながら笑う政宗は、いつもの三割増で穏やかで、幸せそうで(内緒だけど、格好良かった)、そこまで考えたら何だか急にじたばたしながら叫びたくなって、幸村は慌てて右手を頬に押し付けた。
吹き曝しの寒い寒い屋外なのに、右手はじんわり汗ばんでいて、丁度頬に当たった鍵の部分だけがひんやり冷たくて気持ちいい。
「…おい、幸村」
背後から声を掛けられて、幸村は見事に飛び上がった。
その拍子に鍵を取り落とし、慌ててしゃがんだ頭の上から、政宗の声がする。
「先に入っておれと言うたじゃろう?どうした」
こんなところに突っ立って、と続けようとした政宗の言葉が途中で止まった。ん?と首を傾げかけて幸村は慌てて手を振る。
違うんです!政宗殿の鍵に頬を寄せて色々考えてたんじゃなくて、暑くて!そう、暑くて、です!
この時期にどう考えてもおかしい幸村の言い分に、政宗は一瞬変な顔をしたが、「そうじゃな、ならば早く中に入るか」と訳分からない返事を返した。
ぎこちなく頷きながら後に続く幸村を、こっそり横目で見ながら、政宗はほっと息を吐く。
然して時間はかからなさそうであったが用事があった、それでも今日はもう少し一緒にいたいと思った。だから鍵を渡したのは本当だが、幸村と別れてから急に耐え切れなくなった。
自分の家で、幸村を待たせている、という事実に。
「政宗殿、おかえりなさい」
脳内の幸村は、味噌を溶き終えた菜箸なんぞを持って実に可愛らしくそんなことを言う。
「寒かったでしょう?」
まだ冷える外気を身体中に張り付かせている自分の肩に手を回しながら。
儂ってば何を考えておるのだ!いや、幸村を家庭に縛り付ける気なんぞ、ないぞ?幸村を養う気は十二分にあるが、あ奴が外で働きたいと言うたら儂は家事も協力してだな…ってそんな話ではのうて!
それは一笑に付して終わらせるには余りに惜しく、また自覚するのは余りに照れ臭い妄想だったので、通い慣れた道を政宗は必死で走ったのだ。信号待ちの時には、無意識に足踏みなんか、してた。
家への最後の曲がり角を曲がる前に呼吸を整えて、「おかえりなさい」と出迎える幸村の姿を頭の中から振り払って(それでも完全に否定できなかった)門を潜ったら、玄関先でぼうっと突っ立ってる本人がいた。
その姿を見た瞬間、これまでの妄想は吹き飛んだ。頭の片隅に僅かに残る、甘い軋みを残して。
それは、下らない妄想なんかよりずっと現実味のある、はっきり言ってしまえば実に幸せな実感だった。
こんなこっ恥ずかしいこと、ばれずにすんで良かった。胸を撫で下ろした政宗の横で幸村が大きく息を吐き、やがて小声で言う。内緒話のように。
「あの、お茶でも淹れましょうか?」
お茶請けに出てきたのは、どう考えてもおかしい、もそもそした奇妙なソーセージだったのだけど、頭の中の幸せな光景と必死に戦っている二人は終始無言で、時折目が合うと微妙にぎこちない笑みで茶を濁しながら、やっぱりもそもそとそれを食べるしかなかったのだ。
夫婦云々ではなくて、ずっと一緒にいるステレオタイプなイメージとしてのそれ、みたいな?
誰だって妄想はすると思いますが、
当人の前で幸せな妄想をするというのは、一番恥ずかしいことの一つではないかと思います。
バカップルでなによりです。
(10/03/03)