弁丸のクレヨンは、控えめに言ってもぼろぼろで、画用紙だけでは飽き足らないのか箱にまで落書きがされていて、十二色入りだったはずなのに、四つ分、足りない。
 
「ぼんてんまるどの、あかを、かしてください」
 
多少おずおずと、しかしあまり物怖じせずそう告げる弁丸に、梵天丸はいつだって遠慮なく嫌な顔をしてみせる。
まだ自分のクレヨンは一本も折れてないし、なくしてもいない。ちょびっと箱を踏んでしまって片隅が曲がっているけど、それ以外はとってもきれいな自分のクレヨンを快く貸してやる気には、どうしてもなれないのだ。
 
「絶対、折るなよ」
「ありがとうございます!」
 
けど、結局、こうなる。
梵天丸はお絵かきの手を止めて、弁丸の絵を覗き込む。
弁丸の絵はぐちゃぐちゃで、「これはちちうえ。これはいぬです!」本人はそう説明するけど、梵天丸には弁丸が描く昌幸と犬の区別なんてちっとも付かない。そもそも彼の作品に興味なんてない。
それでも一生懸命見ているのは、大事に使ってきた自分の赤いクレヨンが折られないように、時折注意しないといけないからだ。
 
「弁丸、力入れすぎじゃぞ」
「だいじょうぶです。もうべんまるは、くれよんをおりませぬ」
 
御役御免になり、弁丸の指から無造作に放り出されたクレヨンを拾いながら、梵天丸は視線を巡らす。
 
寝転がって画用紙に向き合っている市松の頬に付いた青いクレヨンの色が、無駄に鮮やかだ。虎之助は描き終えてしまったらしくて、暇そうに窓の外を見上げている。
その向こうにいるのは手よりも口の方を動かすことに一生懸命な与六で、話しかけ続ける与六を無視して色を塗っていた佐吉が急に舌打ちをしながら「くそ、はみだしてしまったではないか」と眉を顰めた。
 
昌幸の口だか犬の首輪だか知らないが、兎に角そういうものを赤く塗り終えて、弁丸の絵は一応の完成を見たのだろう。さっきまで夢中になっていた画用紙を放り出すと、彼はさっさと佐吉のところに走っていく。
途中で市松に躓き、虎之助にぶつかって、与六を巻き込んで転んだ上、佐吉に心配させている。
………そんなに仲が良いんだったら奴らにクレヨンを借りたらどうじゃ。
本当はそんなことを考えたのだけど、梵天丸は慌ててふるふると首を振った。
 
自分にとっては一番仲が良い友達、と勝手に認定している弁丸が、自分以外の奴と口を利くのもつまらないが、それをおくびに出すのはもっと面白くない。
それは他愛ない子供のやきもちと称されるものなのだろうけど、そんな言葉、まだ梵天丸は知らないから、狭量に過ぎる自分の考えと、それを齎す弁丸に腹が立つ、それだけのことだ、なんて思っている。
 
 
 
大人は、幼稚園児なんて何も考えてないみたいに言うが、子供は子供で結構忙しいのだと、梵天丸は思う。
おゆうぎ会がありますよ。練習、しましょうね。
ほらな、練習だ、リハーサルだと面倒なことがまた増えたじゃろう。なんて言ってはみても、梵天丸とてまだ年端もいかぬ子供であるから、おゆうぎは楽しいし、上手に出来て褒められれば嬉しいのだ。「クラスを二つのチームに分けて練習します。みんな番号順に並んでね」そう言われれば、ほいほい整列してしまうくらいには。
出席番号順(親との連携が密に過ぎ、サボることなどほぼ不可能な幼稚園において、出席番号っておかしいじゃろ、とこっそり梵天丸は思ったけど、それは全くの余談だ)に並ばされた矢先のこと。丁度真ん中でクラスを二分するという、非常に理に適ったやり方に、突如抗議の泣き声を上げ待ったをかけたのは、何と弁丸だった。
 
これには梵天丸だけでない、皆が驚いた。
実は滅多に泣かない弁丸である。
先日も覚えたての前転を廊下で披露していた矢先、目測を誤って階段を見事に転がり落ち、大きな瘤をこさえたが、それでも「たくさんまわりました!」とへらへらしていた弁丸が、火の付いたように泣き出したのである。(ついでにその惨劇を目の当たりにした佐吉は、我が事のように悲鳴のような泣き声を上げ、階段を転がり落ちるという未知の試練に打ち勝った弁丸は、一躍子供たちのヒーローになったが、まあそれは今は関係ない)
年端もいかぬ子供達で埋め尽くされ、日常的に浮き足立っていた幼稚園の一室は、弁丸の泣き声で更に浮き足立った。
 
「ぼんてんまるどの!」
 
嗚咽に混じって聞こえてきた弁丸の必死の訴えで、何人かの聡い子供たちは状況を把握したようだった。
「さなだ」と「だて」の間に引かれた機械的な境界線。その上にいた子供たち――島津とか下間とか立花とかだ――が、一斉に梵天丸を振り返る。助けを求めるように。
大人ぶった仕草で溜息を吐く彌七郎はあまり堪えていないようだったが、豊寿丸は自分の名字が島津であるというどうしようもない事態にすこぶる責任を感じたらしく、もう涙目だ。
 
そんな注目を浴びずとも、梵天丸にはどうするべきか、分かっている。ああ、これは儂の出番なのじゃろう。
例えば赤いクレヨンを貸してやったときのようにすれば良い。
諭して宥めすかして、出来るところまで妥協して、そうすれば弁丸はいつものように平然と立ち直るのだ。さきちどの、なんて自分以外の名前を楽しげに呼ぶのだ、ちくしょう。
 
案の定、抱え上げられた弁丸は、「佐吉君が同じグループにいるでしょう?」なんて言われてる。
下らぬ感情だとは分かっていても、弁丸のお守りをしなければ、という決意さえうっかり挫けそうだ。それでも何とか弁丸に歩み寄ろうとする梵天丸を止めたのは、他の誰でもない、弁丸の叫び声だった。
 
「いやです!これは、さきちどのでは、だめです!」
 
あまりに酷い弁丸に宣言に、佐吉当人も顔を歪ませたが、梵天丸は自分でも不思議なほど泣き出しそうだった。
早く、まだ取り返しがつく内に早く、そう思うのだが、足が竦んだように動かない。
その内、弁丸につられ感情が高ぶったのだろう。
「おとら!」
「佐吉!私はここだ、佐吉!!!」
という大袈裟なことこの上ない悲鳴が混じるようになり、
「こんなグループ分けごときでそんな声出すな、馬鹿」
尤もに過ぎる虎之助の主張は、たった三人が搾り出す怒号に飲み込まれた。
 
全くもってその通りじゃ、虎之助。今生の別れのように自分に両手を突き出して、顔中ぐちゃぐちゃにしながら駄々を捏ねるというにはあまりに可笑しな格好でもがく弁丸に、虎之助と同じことを(もう少し分かり易く)言ってやれば良いだけだと分かっているのだが、まるで何かに臆しているかのように体が上手く動かない。
 
「べんまるは!ぼんてんまるどのと!いっしょじゃないと!いやです!」
 
実際は何事かを喚く与六の声の方が大きかったというのに、文節ごとにきっちり区切った弁丸の訴えの方が梵天丸の耳には不自然なほどはっきり響いた――ああ、子供の初恋って、なんて簡単なんだろう。
 
 
 
 
 
「どうしたんですか?ぼんやりなさって」
 
さすがに溜息までは吐かなかったが、物憂げに窓の外なんて眺めている政宗の隣に幸村が腰掛ける。
あんなに四六時中好きだの何だの、呪文のように唱えているのに(むかつくことに三成は「もう諦めろ」と何故か申し訳なさ気に言うし、兼続は「押して駄目なら引いてみろという言葉がある」と力説するが、諦める方法も引く手段も思い付けないほどだったら、どうしたら良いというのだろう)、こうもあっさり、ごくごく自然に隣に座る想い人が憎らしくもなる。
 
「儂って本当に一途じゃなあと思うてな」
「はあ、一途でいらっしゃいましたか」
「初恋の、話じゃて」
 
少しだけ幸村が、むっとしたような気がした。
へえ、という返事が返ってきたら多分、気の所為ではない。普段だったら「そうですか」と尋ねる奴だ。幸村がそんなお座成りな返事をするのは、決まって少し気分を害した時だけ。
こういう顔をするから、諦めることも引く方法も分からなくなるのじゃ、政宗は思う。
 
「…すぐにクレヨンを折る奴でな。儂のも」
 
そこまで言って思い出した。
結局自分の赤いクレヨンは、弁丸が折ってしまったのだ。
 
ごめんなさい、何度も繰り返しながら、弁丸はあの時も泣いた。
力任せにくっつけようとしたのだろう、クレヨンを握り締めた指は、真っ赤だった。
自分のものが他人の手によって壊される、という幼稚園児にとっては衝撃的な事実を突きつけられた自分が、弁丸を責めたのか、あっさり許してしまったのか、そんなことはもう覚えていない。
覚えているのは、真っ赤な弁丸の指と、折れたクレヨンの欠片の行方。
 
誰にも見つからないように辺りを見渡した後、確かに自分はそれをポケットに捻じ込んだのだった。
あのクレヨンは、何処に行ってしまったのだろう。大方、何処かに落としたか、隠したまま忘れてしまったのか、最悪洗濯する時に取り出されて捨てられてしまったのではないだろうか。
 
「もしも、政宗殿のクレヨンを折った方が、政宗殿のことを、お好きでしたら」
 
お好きでしたら、のところで、幸村が微妙に変な顔をしたが、それには気付かない振りをした。
きっと大事なクレヨンを折った弁丸を、自分はあっさり許したのだろうと、何の根拠もなく思った。
子供の恋なんて、簡単すぎる。自分が望んでいたのは、きれいなクレヨンなんかではなく、弁丸がもう一回自分だけの為に泣いてくれること。出来れば全力で、それだけだった。
そんな昏い願いが叶えられたら、後は案外簡単に許してしまうくらいには、簡単なのだ。確信犯の癖して隣で会話を交わす幸村を、小憎たらしいと思うが、声を聞けば許してしまう、それと同じくらいに。
 
「クレヨンを折った後、少し嬉しいと感じたのではないかと」
 
幸村は少しだけ笑うと、急に真顔になって「折ったことについては申し訳ないと思いましたよ?」と慌てて付け加えた。折れて隠したクレヨンの行方なんて、今更追求しなくてもいいのだろうと、政宗はやっと、思う。
 
独占欲に隠した幼い恋が、弁丸にクレヨンを折らせ自分にクレヨンを隠させたのだから。
あの簡単な恋は、けど本当に初恋だった。やっと、その長い長い初恋が終わるのだと思った。
 
その先の感情が何と呼ばれるものであるのか、それはまだ政宗には分からない。

 

 

好き、だから好き、一緒にいたい、という単純な子供の思いは、案外生々しい、というのが大好物です。
彌七郎は宗茂さん、豊寿丸は我らが豊久です。まあ、こんな話、わざわざ幼名にしなくてもいいんだけどね…
(10/04/10)