身動ぎしたと思ったら、すぐに腕が枕元に伸びる。
今日に限っては時計としての機能しか期待されていない目覚まし時計を手探りで探り当て、音もなくそれを持ち上げた幸村は、あー、とも、うー、ともつかぬ声と共に奇妙な欠伸をした。
ことりと時計を枕元に再び置いたから、政宗には、幸村が欠伸をしながら現在時刻を把握しきってしまったことが分かる。
幸村は寝起きが良いということを政宗が実感するのはこんな時で、早朝に起きるのが得意だから寝起きが良いという訳ではないのだ。自分だったら、目覚めた瞬間、すぐに時間を判断できるかが、まずあやしい。力加減も細かい位置の確認もできないだろうから、目覚まし時計は無様に床に落ちてしまうだろうし、仮に上手いこと手にとっても起き抜けの欠伸交じりに時計なんて読めない、絶対にだ。
 
腕を伸ばして時計を見る、たったそれだけの一連の動作で、幸村は現在時刻のみならず、今日が休日であると瞬時に思い出したらしい。
伸びた腕を当たり前のように畳むと、寝返りを打ち政宗に背を向け、額まですっぽり布団を被った。と思うと僅か数秒後には、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 
折角の休日、しかも珍しいことにもう儂はすっかり目が覚めていて「いつまで寝てるんですか」とお主が叩き起こす必要のない休日の朝じゃぞ。
そう言って無防備な肩を揺さぶろうかと思ったが、止めた。
幸村の寝息は、政宗を心底愉快な気持ちにさせる。例えば拾ってきたばかりの猫が、恐る恐る膝に乗り、あまつさえそこですやすやと転寝を始めてしまったような。それも少し違う、そうだ。政宗は唐突に思い付くのだ。
聞き慣れた幸村の寝息と、朝の空気という組み合わせが珍しくて、楽しい。
自分の方が先に目が覚めることが皆無だとは言わないが、寝起きに関しても寝付きに関しても素晴らしい能力を持つ幸村の寝息を政宗が耳にするのは、大抵夜のうち。
抱き合ってへとへとになった後か、へとへとになってなくてただ抱き合っている状態か、稀に真夜中にどうかして自分だけが目を覚ましてしまった時、このくらいだ。
 
 
 
何が原因なのか自分でもさっぱり分からないが、今日は妙にすっきりした気分で目覚めてしまって、それが七時少し前だったから、政宗は迷ったのだ。
休日の七時。起きて何かを始めるにはまだ早く、もう一度寝直すには遅すぎる気もする(普段は平気で鼾を掻いているが)。
目を瞑っても、もう睡魔は手の届かぬところに行ってしまったから、こ奴はいつも、儂より早く起きて何をしておるんじゃろうな、と政宗は詮無い想像に勤しむ。
 
幸村の機嫌がすこぶる良ければ、朝食なんかが炊き上がっている事だってない訳ではない。
が、大抵は隣でじっとしているだけだ。ゆっくり夢から覚める政宗を、幸村は実に大人しく観察している。
飯の支度も嬉しくない訳ではないが、政宗が好むのはどちらかというと後者で、これは恋しい者が隣にいる朝の訪れが素晴らしいとか、そういう理由じゃない、と思う。
 
「起きましたか?」
横たわったままの幸村は何処か畏まった顔で瞬きもせずにそう尋ねる。
「起こしてしまいましたか」という時もあるし、「いい加減に起きなさい」と偉そうな口調の時もあるが、じっと顔を見詰めるその所作は決して変わらない。
幸村と違って、寝付きも寝起きも悪い政宗だから、幸村の質問にすぐに答えることが出来ず、布団に染み付いた自分の香りと幸村のそれとが混ざり合うのを政宗は目を閉じたまま認識する。
そうこうするうちに、ああ、朝か、と具体的な思考がやっと働き始め(殆ど昼の時もあるが、やっぱりその時も、もう朝かと思う)その頃合を見計らったかのように、幸村が一度だけキスをする。
一体どういうつもりで唇を合わせるのか聞いたことはないが(そんなことをして臍を曲げて、二度としてくれなくなったら勿体無い)飽きるほど繰り返しているキスの中でも、幸村からしてくれるのは希少価値が高いから、政宗は大人しく、幸村のしたいようにさせるのだ。
深く唇を合わせるのでもなく、吐息を漏らすでもない、簡単だけど、長いキス。唇を柔らかく噛んだり、舌で歯を辿ったりなんかしない。性交前のそれとは明らかに違う類のものだ、結果的にそうなることはあっても。
一度だけこっそり薄目を開けて間近に見える幸村の顔を眺めたことがあったが、滑稽なくらい厳粛な顔で眸を閉じていたものだから、悪いものを覗き見たような気分になって慌てて目を閉じた。
それが済むと、幸村は普段通りの声で言う。お腹が空きました。朝から二人で過ごす休日は、大抵、そんな風に幕を開ける。
 
 
 
眠りこける儂の横で、幸村はいつも何をして居るのじゃろうか。
政宗は相変わらず答えの出ぬ想像に余念がない。
 
さっき寸分の狂いもなく幸村が目覚まし時計を手に取ったことを思い出す。毎晩毎晩ここで寝ているわけでもないのに、彼の仕草は実に正確で、それが政宗をいい気にさせる。思わず同じように枕元に手をやって、時計を取った。
休日の筈なのに今日に限って政宗と幸村、二人から大人気の目覚まし時計は、静かに時を刻み続けていて、政宗はぼんやりと落ち着きない秒針を眺める。
何時になったら起こそうか。
幸村も、時計と自分の寝顔を見比べながら思うのだろうか。あと十五分したら、いや三十分くらい待ってやろうか。寂しいと思う。それは一人の時に襲ってくる、幸村に会いたいという暴力的な感情ではなくて、静かに、ひたすら静かに感じる笑みさえ浮かぶような感覚だ。
寂しい。二人の体温で充分温まった布団も、あと三十分、自分自身に課した制限時間も、何もかもが寂しい。
幸村の口から漏れるのは寝息だけで、目を開ける気配などなく、睡眠という政宗とは全く関係ないものに幸村が支配されていることが寂しい。
目を開けているときの自分たちは、あんなにもお互いに支配されすぎているというのに。
 
寝返りを打った幸村が此方を向いた拍子に、少しだけ布団が捲れ、政宗はその隙間から幸村の顔を覗き込む。
幸せそうに眠る幸村の寝顔の所為で、やっぱり、寂しくて悔しくて少し愉快になる。
あと二十八分。遅々として時間は進まない。
政宗は少しだけ制限時間を変える。あと五分。いきなり短くなったことは気にするな。気にしろ、と幸村は怒るだろうが、そこは目を瞑ってもらおうと思う。
儂はそんなに気が長くないのじゃ。そんなこと、お主はもう百も承知であろう?
 
 
 
それからの五分は、驚くほど長かった。
まるで新年を迎える人のように心の中でカウントダウンまでして、政宗はそっと幸村に口付ける。
まだ現に戻っていない幸村は、無意識に政宗の頬を押し戻そうとするが、何、構うことはない。五分かっきり、儂はちゃんと待ってやったのだ。
深くもなく浅くもなく、舌を捻じ込むでもなく、舐めることも噛むこともせぬ簡単な簡単なキスは、確かに一人の目覚めの寂しさを埋めるのには最適だと政宗は感心する。目は閉じていたが、幸村が起きる気配だけは、はっきり分かった。唇を重ねたまま、起きたかと尋ねたら、幸村が僅かに身動ぎする。きっと頷いたのだろう。それきり幸村は動かない。
横を向いて眠る癖のある幸村にキスをするのは結構大変で、不自然な格好で自分の身体を支えている政宗の左手はじんわり痺れているのだけど、政宗も身動ぎ一つしない。
儀式には、それなりの作法があるじゃろう?
じっと動かずに、ただ祝うのだ。長い長い夜の間、隣に居ようが何だろうが感じざるを得ない相手の不在を乗り越えて、目を開ける喜び。そう、これは再会を祝うキスで、馬鹿馬鹿しいほどささやかな、儀式だ。
まだ寝ていた幸村にそれをするのは早過ぎたかもしれぬが、構わぬ、お主は寝起きが良い。儂と違って。
 
「偶に自分が早く起きたからって」
 
しっかり目を覚ました幸村が文句を言いながら視線も動かさずに目覚まし時計を手にするのが見えた。
目測を誤って倒すでもなく、落とすでもなく、実に正確に。
半ば眠りながら幸村が同じようにそれを手にした光景を、政宗は思い出す。習慣に裏打ちされたその動作も愛おしいと思えたが、しっかり目覚めた彼が時間を確認するという確固たる意思でもって枕元の時計に手を伸ばす様はもっと愛おしい。
幸村の目は、もう完全に開いているのだから。
 
「すまぬな」
 
起きかけた政宗を見守ること、そっと唇を合わせること。立場を入れ替えてやっと分かる。きっとお主にとってのそれは何物にも代え難い行為だったのであろうな。何だかよう分からぬが朝っぱらから得した気分じゃ、そんな軽い気分でずっとおったわ。
そんな意味を込めて一応謝罪したのだけど、幸村にはきっと伝わってないだろう。
無理矢理目覚めさせたことを謝っているようにしか聞こえぬだろうし、それでいいとも思う。
 
「本当ですよ。あーお腹空きました」
 
案の定幸村は、さらりとそんな風に答えた。
朝から二人で過ごす休日は、今日もいつも通り、けど少しだけ政宗に感慨を覚えさせながらはじまる。

 

 

熟睡している人を見るのは、(悪い意味だけじゃなくて)死の疑似体験だと思うのです。
いずれ起きることは分かっているから、怖いとはまた違うんだけど、微妙に寂しくなるんじゃないかと。
いつも先に起きちゃう幸村は、きっとそんな風に思ってるんじゃないかという妄想。
(10/04/20)