兼続はいつだって、自分の方がより一層優位であるという態度を崩さない。
あの根拠のない自身も高慢さも、政宗と似たり寄ったりであろうが(故に仲が悪いのだろう)、そんな兼続の言に幸村が絡むと、政宗は過剰な反応を見せる。
そんなに私を自惚れさせないでくださいと幸村は思うけど、それは勿論本気ではない。
「もしもそなたが上杉に身を寄せなければ、私達の友情はどうなっていたであろうな!」
過去を塗り替えられないという悲劇は、世間に余りに流布している上に、それを裏付けるような証拠も豊富だから、この世のあらゆる類の絶望の中で最も簡単に実感出来るものだと思う。
幸村は、にっこり笑って答える。
「兼続殿と三成殿がおられませんでしたら、今の私はおりませんでした故、もし、などと考えたこともございませぬ」
兼続は満足気に大きく頷き、政宗は当然の如く激昂した。三成は暫くもごもごしていたが、やがて黙って俯いたから、多分、これはある意味で満点の答えだったのだろうと幸村はほっとする。
兼続と三成の友情のツボを刺激しまくる幸村の返答に怒っていた政宗は、二人きりになり暫く経つと、あっさり機嫌を直した。
別に幸村が必死で取り成したのではない。
幸村の言葉は、反論の余地はあれど真実の一つであること。何より折角二人でいるのだ、いつまでも下らぬことで拗ねていては勿体無い。恐らくは政宗が機嫌を直した大きな理由はこの二つで、政宗のそういうところが幸村はとても気に入っている。
あっさり掌を返せるところ。優先順位を決して違えないところ。
自分が不愉快であるという表明さえ終われば一先ず怒りは用済みとなり、幸村と共に過ごせるという事実に、彼は全力を尽くしてくれる。
二人分の汗、その他諸々を吸い込ませてしまった布団はすごく不快で、幸村は何度も何度も身動ぎを繰り返した。
つい先日まで身体を覆っていたのは冬仕様のそれで、あの重みを何処かで懐かしく思っているのか、ふわふわと頼りない布団は軽過ぎて、酷く体に馴染まない。まだ熱の引かぬ身体はうっすらと汗ばんでいて、そこに布が遠慮がちに絡みつくのも、もどかしい。
何よりも、政宗に抱き寄せられ、自分の左腕もしっかりと彼の背に回しているというのに、居場所が定まらない感じ――それは精神的に傍に行けないとか、そういう情感たっぷりなことではなく、言葉そのままに。本当に単純に、互いの手の角度とか身体の傾け具合の所為で、フィット感がやや薄いというだけのことだけど――が、不快感を覚えさせる。
隣でもぞもぞやっている幸村の真意に気付いたらしい政宗までももぞもぞし始め、二人でぴったりな場所を探す。
こういうのは、ただ、力任せに抱き合えば良いってものではないのだ。
政宗の腕が僅かに緩められ、幸村の頭は政宗の肩に。幸村の背中の丁度中央に吸い付くように添えられた政宗の掌は、汗が引き出し冷えてしまった身体には随分温かくて、自分でも上手く触ることの出来ないそんな部分を、生まれてこの方、直に触ったのは政宗だけだろうと思うと、幸村はそこはかとなく安心する。
思わず息を吐くほどの途方もない安心感ではなくて、彼が齎してくれるのはあくまでも、そこはかとない、安心。
そして似たような感情の中でも、それは格段に心地良い。
僅かに身体を政宗に寄せ、左腕に力を篭める。二人の身体に挟まれ、行き場のない右腕だけが寂しそうで(だって、政宗の身体に回すってことは、彼の身体の下を潜らせるってことだから、きっと重みで痺れてしまう)ぶらぶらとさせたら、政宗を腕を伸ばして指を絡めた。
あるべきものがあるべき場所にきちんと収まる、そのことが嬉しくて、幸村は繋いだ指先を解かぬように細心の注意を払って、もう一度だけ、腕を小さくぶらぶらさせた。そんな子供っぽい仕草にも、政宗は呆れることなく付き合ってくれる。
「完成ですね」
「そうじゃな」
完成形は、長く続かない。
幸村がまどろみ始めれば力を失った指先は、政宗からそっと外れてしまうだろうし、政宗の首筋に潜り込ませた幸村の頭は、熟睡した政宗には、枕との区別がつかないから、すこぶる体重を掛けられてしまうのだろう。既に寝入って意識のない幸村が彼の重みを有難く感じる筈はなく、それを振り払うようにくるりと背を向けて、今度は自分の為だけの心地良い態勢を探すことになるのだ。
眠っている自分のことを観察することは不可能なので、正確なことは分からないが、恐らくこの想像はそう間違っていないと思う。
けど、どういう訳か、それを嘆く気にはなれない。
「ずっと、このまま?」
首だけを上げるのも、傾げることすら億劫で、目だけで政宗を見上げながら、幸村はそう尋ねる。
ぴったり重なる姿勢の話でも、そうじゃなくても。
主語とか述語とか、たくさんの、本当にたくさんのものが省略された台詞に、心の中でそう、付け加えてみる。
――ずっとこのままなどあり得ない。
今日と違う明日は必ず訪れるし、人の心が移ろいゆくものということは、過去を塗り替えられないというそれと同じくらい、重大でありふれた悲劇だ。
父の茶器を割ってしまった時には、大いなる何かに本気でやり直しを願ったし、兄と転がり回って遊ぶのは楽しかったから、ずっと陽が暮れなければ良いと自然の摂理にすら逆らいたくなった。ありふれた悲劇を実感するが故のそんな幼い願いは、まるで昨日のことのように思い出せるのに。
こと政宗と居る限り、もしも出会えなかったら、もしもいつか離れてしまったら。そんなありふれた悲劇すら、悲劇として想像できない。ずっとこのままでいられぬことなど重々承知の上なのに。自分達の邂逅が、どれだけの偶然に支えられていたかということも、やがて来るべきもののことも知っている、実感など到底できなくても、それでも。
「ずっと、多分、大丈夫じゃ」
ずっと、と言うのは、政宗の願いで、多分、と言うのは、彼の誠実さなんだと思う。
実感できないありふれた悲劇をもう一度幸村は心の中で繰り返す。大丈夫、なんてこと、ない。
仮に心変わりなどしなくたって、語るべき出来事の一つすら二人の間に起きなくたって、大丈夫なんて、嘘だ。
このままずっと二人で安穏と時を過ごすことが出来ても、いつか自分は思い出す。ちっとも安穏じゃなかった自分達のこと。
初めて夜を共にした政宗が、どれほど必死で狂おしげに自分を抱いたか、快楽などいっそ否定するかのように齎される間断ない苦痛が、その後どれだけ自分を癒してくれたか。その癒しに耐えきれず、何度自分は涙を流しながら身を捩ったか。
今の彼の手が引き出してくれるものの中には、苦痛など欠片もなく、寂しくなっても彼を思って泣いたりなどしなくなった。
現在の自分達に失われてしまった様々なもの。
二度と会えぬ少しだけ前の政宗。
それらを過去にしてしまえることを安定した幸せと呼ぶのであれば、憧憬をもって過去を思い出すことなど、悲劇以外の何者でもないではないか。
過去を塗り替えられないこと、明日が必ず訪れること、人の心が移ろいゆくこと、そんなものとは比べ物にならぬくらいの、ささやかで他愛ない悲劇。他人は、きっと贅沢な悩みだと評し、本人すら笑い飛ばせてしまう類の。
けど、自覚すら持てぬ瑣末な不安や懐古の情が、悲劇でなくて一体何になろう。
嘆きはしない。今更悲しむことなど何もないくらい、幸せだ。
そんな不安を隠して全く別の悲劇について言葉少なに訪ね、そして政宗がちゃんと答えてくれる。そこに嘘が交じったとしても。
それはきっと、幸せと呼ばれるものなのだろう。
政宗の渾身の嘘は、ゆっくりと幸村の耳を辿る。
普段より心持ち低い、実体を伴わない筈の彼の言葉が、耳朶を静かに進んでくるのがちゃんと分かる。
鼓膜を揺さぶり、それはそのまま、一欠片の温度すら逃すことなく脳に送られて、柔らかいものを咀嚼するように、幸村は彼の言葉を噛み締めるのだ。
誠実さと嘘に塗り固められた政宗の言葉は、心地良い。
それが何の解決にならなくとも。
例えば、思わず息を吐くほどの途方もない安心感など、最早、何処にもなくとも。
「うそ」
幸村はやっと笑うことが出来る。
本当に?と念を押す意味もなければ、そんなつもりもないので、代わりに何度も何度も嘘だと笑う。
心外だ、という顔をして見せるのは、政宗の優しさで、けど言い返さないのは、きっと政宗だけが抱えている他愛ない不安の所為だと思うと、笑いが止まらない。
兼続に言った言葉を思い出す。彼らがいなければ今の自分はなかったのだと思えるのは、本当だけど真実ではない。
様々な偶然の介入で、もしも全く別の人達と深い交誼を結んでいても、恐らく自分の性質など、そうそう変わらぬだろう。
こうして隣にいるのが政宗ではなく、もしも別の誰かだとしても、きっと同じように自分はその人を愛したのだろうと思う。
そんなもの、下らぬ想像の範疇の話で、過去は塗り替えられないのだから、何だって言える。
私は、誰かとの交誼を自分なりの懸命さで守り切ろうと思うし、愛する人を同じように腕に抱き寄せるのでしょう。
出会えなかったら、などという妄想に、何の意味もない。きっと私は、今の私と、何一つ変わらない。
ただ、おかしなことに、具体的なことはちっとも思いつかないのだ。
例えば兼続が、三成が、或いは政宗が別の人だったら。
責任を伴わぬ想像の中でさえ、それ以外の人の名前は形を成さない。きっと、そういうのを運命の人と言うのだろう。
もしも出会わなくても然して支障のない、けど出会ったら替えの効かぬくらいの存在。
そのくらいで丁度良い。
政宗が眠りを誘うように、こめかみにそっと口付けるから、幸村は頷いて目を閉じる。
眠ったら離れてしまう腕を、ぎりぎりまで離さぬように試みながら、いつかの悲劇を考える。
彼を抱き寄せる腕はいつか腐ってなくなって、自分が愛した身体は消えてなくなってしまうのだろう。
自分達が存在していたという記憶はいつの間にか薄れてしまい、愛し合った証拠など、何処にも残らない。
なのに、それを嘆く気など、更々起きぬということ。
いつか、忘れ去られてしまうこと。そして忘れて、忘れられることすら、許されているということ。
だってそれはまるで、限りない癒しのようだから。
幸村はそっと息を吐く。目は閉じていたけど、吐息に混ざる湿気が彼の胸元を少しだけ湿らせることを、幸村は知っているし、覚えているし、そしていつか忘れるのだろう。重大でありふれた悲劇も、瑣末でいっそ贅沢な不安も、いつかすっぱり忘れてしまう。「ずっと、多分、大丈夫じゃ」あんなに身体に染み込ませた彼の嘘すら、いつか消えてなくなってしまうのだろう。
ごめんなさい、政宗殿。
夢見心地で呟く謝罪に、反省の色はちっとも見えない。
いつかの私が、あなたを思ってどれだけ泣いたか教えてあげよう。そしていつか、その事実をあなたが忘れてしまえば良い。
そう考えながら、幸村は記憶の中の政宗に手を振った。
今より数段幼い、思い返せば噴き出してしまうほど必死な顔で自分に覆い被さった彼は、相変わらず何だか泣きそうな顔をしていたけど、忘れ去られる彼の悲劇など――本当は、今の政宗の腕にぴったり収まった自分達の幸福に、比ぶべくもない。
今度のコピー本に突っ込もうとして、これ、捉えようによっては余りに暗いかなと思い、没にした話です。
本当は、一緒にいれば考えちゃう有体な悲劇すら終わりがあるのは一種幸せ、みたいなテーマだったんですが、
何が何だか分からなくなりました…。
けど、好きなテーマなので、いつかリベンジしたいと思う。
(10/06/01)