父と共に西軍につく、という事態になった時にも、政宗は声一つ荒げなかった。
無論、己も負ける気はなかったし、政宗もそうであったろうと思う。
 
日ノ本全体が天下分け目だと囁き合うあの戦を前にして、勝利を微塵も疑わずに槍を握ることは武士の本能であったと思うが、己の完全なる勝利が政宗の敗北に、最悪の場合彼の死に繋がる、という事態にまで考えが及ばなかったのが今となっては不思議でならない。
何よりも愛おしい愛おしい生き物は、今生の別れになるであろう最後の夜に幸村を抱き締めながら大層優しげな声で囁いた。
 
「どうあっても貴様は儂の誇りじゃ。それだけは覆らぬ」
 
政宗は、自分を前に進ませるのが上手いと思った。
 
彼の言葉には一片の嘘もなかったのだろうけど、幸村が肝心なことを見落としていたと知るのは、もう少し先の話。
 
結局、あの夜は今生の別れになどならなかった。もしもあの時、自分が三成と共に果てていたのであれば、彼の、何より自分自身のそんな姿など知ることなく終わってしまっていたであろうと思うと、、幸村は己の命を長らえさせた宿命だとか、そういったものにまで、感謝せざるを得ない。
彼はいつだって言っていた。
「儂は貴様の最高の伴侶じゃ」
そして、間違いなく彼はそうあろうとしていた。
最高の、つまり、物分かりの良い伴侶の顔のまま、幸村の背中を押し続けた。敬意を素直な愛情に変えることが得意な政宗にとって、それは然程負担をかけぬ姿勢だったのかもしれない。
 
 
 
それが一変したのは関ヶ原の敗北後。
最高、という言葉を用いなくなった彼は、静かに吐き出す呼気に紛れさせるように小声でこう言った。
「儂は貴様の生涯になりたかった」
その時はさっぱり意味が分からないどころか、いつもの軽口だと受け流してしまったのだけど。
 
 
 
不穏な情勢下で不定期に交わされる逢瀬の殆どが穏やかなものであったと嘘を吐くつもりはない。
最後は半ば罵り合いだった。
 
その言葉も正確ではないが、普段は感情の振り幅が大きい割に何処か冷静な政宗が遂に取り乱し、物心ついて以来終ぞ他人に声を荒げた記憶のない幸村でさえも、まるで喚くように彼の言葉を遮り罵った。
今更大坂方について何とする、という命題は、飛び交う怒号の中で徐々に逸れていき、やれ、あの時の政宗殿の態度は本当に腹に据え兼ねただの、それを申すなら貴様のそういう時の可愛げのない態度が云々。
全く関係ない互いの過去の失点を取り出しては、時折思い出したように政宗が話を戻す。貴様が死ぬ必要はないと政宗が怒鳴るから、幸村も今だけは憎らしくさえ思える彼の顔を見据えながら応戦するより他はない。
 
だがしかし、それは何だか大層幸せな罵り合いだった、と幸村は思う。
 
まるで己が世の中に組み込まれていることなどちっとも顧みない者達が、それでも世の中の片隅で口さがなく互いへの不満を表しているだけのような。
犬も喰わない、などと揶揄される痴話喧嘩というものは、当人達にとってすこぶる真剣に行われるものであることは間違いない。そこに命題の重さなど関係ないのだ。
 
糞、こんなことになるのであれば、あの時、貴様を無理にでも寝返らせるのであった。
覆せもせぬ過去のことを後悔のままに口にする政宗を見た時、幸村は思わず息を呑んだ。今更ながらに彼の言葉に嘘などなかった、と実感したので。
「儂は貴様の最高の伴侶であろう?」
かつての政宗は、幸村の意思すら尊重する伴侶であったのだと思った。彼は、三成と道を共にせんとする幸村さえも送り出し、後で一人こっそり後悔するつもりだったのだろう。
幸村が奇しくも長らえたことで彼の決意は薄れ、政宗は幸村にとって最高の伴侶と言う殻を捨てて、唯の、愚かな伴侶にならざるを得なかったのだ。
 
親子然り、兄弟然り、いや友情とて、そうだろう。世に惜しみなく与える愛情は多々あれど、相手の意思を捻り潰してでも共に居りたいという愛情は、愚かな、そして生涯をかけた伴侶でなければ到底抱けぬ。
 
幸村ははじめて後悔した。
勿論、今後の身の振り方に対する決意そのものを後悔したのではない。
 
私の頭は、ものが入っていく傍から何かを放り出してしまう。
政宗が自分にくれた声も仕草も温度も、何故正確に覚え続けていることが出来ないのだろう。
 
彼と過ごした記憶は、今でも幸村を幸福な気持ちに誘ってはくれるが、もしもその記憶が事実と寸分違わぬものであれば、どんな結末が二人の間に訪れようと、それはこの上ない幸福だったであろうに。
 
 
 
会いに来ているのか、ただ感情をぶちまける為に足を運んでいるのか、当事者ですらさっぱり分からぬ逢瀬を何度も繰り返した後で、政宗は急に優しくなった。
彼はやっと、諦めることを考え始めたのだと思った。
一見、昔のままの遣り取りが二人の間で交わされるようになった。違うのは、政宗がどうあがいてもあり得ない先のことを話し出したことだけ。
せめて、これからの残された時間に与えられる彼の言葉を、一字一句きちんと覚えておこうと幸村は思う。
 
「例えば二人ぼっちで、こんな辺鄙なところでな」
 
それは決して訪れることのない未来の話。
誰も知らない場所で、ひっそりと二人だけで毎日を生きる。絶対に叶わぬ夢物語を政宗は現実の計画であるかのように愉快そうに話す。
だがこの時の自分達に、夢物語以外の何が求められていたというのだ。
 
「ささやかな田を耕して暮らせば良い」
「政宗殿にそんなこと出来ましょうか?」
「儂はいざとなったら何でも出来る男じゃぞ?」
「ここに居る間にみっちり仕込まれましたから、耕すのは私の方が上手そうですよ」
 
粗末な着物に身を包む政宗の姿など、想像も出来なかった。
幸村の頭の中の政宗は、いつも通りの豪奢な羽織をきちんと着こなし、片手には刀ではなく鋤を握っていた。それがこの上なく可笑しかったので、幸村も少し笑う。
政宗も少し口の端を歪めたから、きっと具足をきちんとつけた幸村が腰をかがめて野良仕事をしている様を思い浮かべたのだろうと思う。
 
どうか、彼がこの先もそれを間違いなく思い出せますように。
決してあり得ぬ将来の話。
政宗の想像の中の自分が、どれだけ穏やかで幸せそうな顔をしていたか。
政宗の愚かさすらあますところなく引き出した生涯の伴侶とやらがいなくなった世の中で、夢物語の中の自分は彼をきっと癒してくれるだろうと思うので。
 
「儂では役に立たぬか」
「憚りながら、恐らくは」
「言ってくれるわ。貴様の稼ぎで毎日遊んで暮らしてやっても良いのだぞ?」
「そんなことは許しません」
 
それは、自分が言われたかった台詞だと幸村は少し、思う。
 
「真田紐の編み方を教えて差し上げます。政宗殿はそれを編んで家計の足しにしてください」
 
それがあたかも具体的な提案だとでも言うように、幸村は傍らに置いた紐を手に取る。随分楽しそうな笑みを浮かべているであろうことは、自分でも痛いくらいに分かる。
 
「糸をこうして絡げて」
 
紐の編み方は心得ているが、実際は九度山についてきた僅かな家臣がしていることだから、幸村はあまり上手に編めない。
が、政宗は至極楽しそうに手元を覗き込む。
ゆっくり糸を織る指先に戯れるように触れ、幸村の差し出した糸を押さえ、また幸村の指に糸を渡し、手元から視線を外さずに丁寧に幸村の髪を撫でる。
息を詰めて見守っていた政宗は、幸村の顔を一度も覗きこまなかった。
 
それでも、彼は自分が泣いていたことを分かっていたに違いない。
 
「申し訳ございません」
 
糸が切れるほどの力を篭めながら囁いた言葉は、自分が編んだ真田紐と同じくらい不格好なものだったであろうと思う。
 
意味のない謝罪を述べるくらいなら、武士の意地など早々に捨て去ったらどうだ。死にたいなんて微塵も思っていない。ならば確実に彼と生きる道を探したらどうだ。せめて勝利を疑わぬ傲慢さを見せつければ良いではないか。それが出来ぬのであれば、会わなければ良い。そもそもこんな不毛な関係を持ったことすら間違いだったのだ。
 
それらは心の裡で五月蝿いまでに語られる理屈なのだけど、幸村は反論も出来ぬ代わりに、おいそれと首肯も出来ない。
理屈が真実とは限らない。
彼と過ごした記憶は曖昧だけど、決しておぼろげではないように、二人だけで構成されるこの関係に、正しい理屈が入り込む余地など何処にもない、だって。
 
「儂は」
 
背後に回って幸村を抱きすくめた政宗が、不格好な紐だけを見ていてくれれば良いと思った。
政宗は確かに自分のことを諦めようとしているのだろう。そんな簡単に想いなど捨て去れないけど、なるべく早く彼の諦めが完成するように、と幸村は願う。
それは残酷でも何でもない、伴侶であれば当然の願いだ。
だって――理屈すら超えた真実を共有することが、伴侶なのだろう?
 
「貴様のその一言だけで、これからも生きていける」
 
自ら死に向かう気など更々ない。戦術は既に頭の中に出来上がっている。それと同じ頭で、同時にこの先の政宗のことを祈る。それはもう既に死を覚悟してるってことだろう?そんな理屈は通じない、少なくとも自分達の間には。
私の頭は、ものが入っていく傍から何かを放り出してしまう。政宗がくれた声も仕草も温度も、こうしている間にも零れ落ちていくのだろう。それを後悔すると同時に、本当は分かってもいるのだ。
 
真に欲したのは事実と寸分違わぬ記憶などではなく、幸村の忘却すらも許そうとする、彼のたった一つの言葉。忘れられても良いと、初めて思った。
いずれは、忘れてください、私が忘れずにいれば良い。
 
彼のその言葉を生涯忘れぬように、自分が存在した事実を政宗は多分一生忘れないだろうから。
他愛のないことなど、忘れられても構わなかったのだ。例えば、不格好な自分の謝罪や、背中に押し当てられた政宗の頬のあたりが不自然に熱く滲んでいることも。
 
彼が血反吐を吐くような思いで絞り出した生への宣言には、恐らく一片の嘘すらないだろうから、私も本当のことが言える。
戦国と言う時代に殉じた全ての者への餞に、せめて私の槍を。死ぬつもりで戦に臨む者が一体何処にいよう?
けどもしも、力尽き首を上げられることがあったならば、流れ出す血肉はせめて、貴方が立つ地の礎となるように。
 
「だから安心せい」
 
背後から絡められた腕で幸村の視界が埋まる。機能しなくなった両目に来るべき戦の情景が浮かぶ。耳元で囁かれる声に混じって、政宗の香りがした。
凄惨な戦の光景と、政宗の笑顔を同時に思い出せる自分の頭は、何ともお目出度いとは思うが、おかしいとは思わない。
少しだけ政宗が羨ましかった。
なくなってしまった右の眼で見据え続ける暗闇の中、響く自分の声は、きっと今の政宗の声のように静かに染み入るものだったのだろう。政宗は明かしてくれなかったけど、きっとそれは真実だと思う。
 
理屈など要らぬ二人だけの真実を共有できることを伴侶と呼ぶのであれば、やっぱり政宗は自分を前に進ませるのがこの上なく、上手い。

 

 

(10/07/02)