書状を前に幸村は真剣な顔で腕を組んだ。
別に深刻な内容ではない、が、幸村は本気で困っているのだ。
「お待ちかねのものですよん」
と書状を届けてくれたくのいちは、さっさと姿を消してしまった。
忍働きであれば兎も角、こんなことで彼女を頼るなんて情けないのだが、ちょっとくらい此処に居てくれたって良いではないか、と思う。くのいちは顔を顰めるだろうけど。
「うえ〜愛しい愛しい竜の殿さまからのお手紙を読む幸村様を、何であたしが観察してなきゃいけないの」
そう言って。
そう、書状は政宗からだ。それは単純にとても嬉しいのだ。
頻繁に貰う書状は溜まりに溜まって、なのに幸村が返事を出さなくても政宗は一向に堪えない。
そのことを心苦しく思い、一度謝罪してみたのだが、「お主が筆不精なのは前々から知っておるから安心しろ」と、むしろ何で謝られているかちっとも分からん、という顔で言われた。おかげで幸村の肩の荷は随分軽くなったのだが、いや、今はそのことは問題ではない。
何で政宗殿は、こんなぐにゃぐにゃした字をお書きになるのか!
問題はそこなのだ。
もしかしたらこれを達筆と言うのかもしれないが、幸村にはちっとも分からない。
自分のぎこちない手に比べると、筆遣いは美しいのかもしれないな、と少し思うが、実は情けないことに、時々、読めない。だってぐにゃぐにゃ過ぎるから。
父上の字もぐにゃぐにゃしているけど、ぐにゃぐにゃ具合が全く違うのです。
その上頑張ってぐにゃぐにゃしたものを読んでも、意味が分からないことが書いてあったりするのだ。
ずっと前、兄上に「これは古い歌に…まあ、難しいことはさておき、会いたいという意味だよ」と言われ吃驚した。「会いたい」なら、たった四文字なのに、何故政宗殿はそれを紙いっぱいに書いてくるのだろう。わざと分かり難くして。
暫く書状を眺めていた幸村だったが、一つ溜息を吐くと文を携え部屋を出た。
行先は兄の部屋だ。お兄ちゃん子の幸村がまず頼るのは信幸と、昔から決まっている。
「兄上、おられますか?」
廊下から顔を覗かせる弟を見て信幸は一瞬相好を崩したが、幸村が手に持っているものが何か分かったらしい。笑みを苦笑に変えて幸村を招き入れる。
「政宗殿からかい?」
何かを期待するように見詰めてくる幸村から目を逸らさずに、信幸は諭すように言った。
「偶には頑張って自分で読んでみたらどうかな?どうしても分からないところは教えてあげるけど、政宗殿の手は本当に美しいから、お前にとっても良い勉強になると思うよ?」
敬愛する兄にそう言われれば、幸村も頷かざるを得ない。
忽ちのうちにしょんぼりして踵を返す幸村の背中に向かって、信幸はこっそり後悔する。槍だけでなく、もっと色々なことをちゃんと学ばせるべきだった。少なくとも、世辞にも上手いとは言えぬ昌幸の手を見本にさせるべきではなかった。
それは信幸が思っても詮無いことであるけれど。
何より、政宗の文の内容がいけないのだ。
至る所に恋の歌を散りばめ、古今東西の書物から引用して、情感たっぷり(というか、時折口に出すのも憚られるほどの内容だ)に書き上げられた恋文など、弟に読みこなせる筈がないではないか。
一人寝の寂しさを歌った歌を何とか解読した幸村は「まだ秋口だというのに、奥州は寒いのですなあ」なんて感心していた。別に幸村の誤解を放っておいても良かったのだが、ついうっかり解説をし出してしまい、そうなると政宗と幸村の関係性にまで言及せねばならぬから、いくら信幸でもそれは大変なのだ。
言って聞かせる此方の方が、正直照れる。
さて信幸の心中知らず、再び書状を前にした幸村は、やっぱり暫く腕組みをして政宗の文字(文章ではないところがポイントだ)を眺めていたが、ついに身体を投げ出して畳に大の字になってしまった。ちょびっと、面倒になったのだ。
誰か読んでくれる人を頭の中で検索する。
兄に断られた今、父がいるにはいるが、似たような状況で昔、昌幸に書状を見せたら、大変なことになった。
あろうことか書状を真っ二つに裂き、その後幸村を訪ねてきた政宗と、上田の大手門の前で一騎打ちなんか繰り広げたのだ。
何でそんなことになったのか、昌幸も政宗も口を割ってはくれなかったが、夕刻からはじまった一騎打ちは夜を徹して行われ(昌幸の命令で大手門前に大きな篝火が焚かれたので、きっと宵闇は勝負には影響しなかったんだと幸村は思う)「ウチの息子にあんな破廉恥な恋文を送るなど、百万年早いわ!」と朝日の中で勝ち誇る昌幸の足の下でぜえぜえ言ってもがいてる政宗は満身創痍だったので、これは何か大変なことが起こっていると幸村も直感したのだ。
それを考えたら父に文を見せるのは、得策ではない、と思う。
「そうだ、三成殿!」
幸村はそう叫んで飛び起きた。
頭が良さそうな友人といえば、幸村にとっては三成である。
思い立ったが吉日、とばかりに幸村は早速三成の許へ向かう。因みに、兄への態度からも分かる通り、恋文を他人に見せているという感覚は、幸村にはあまり、ない。
「幸村か。よく来たな、入れ」
仕事で忙しい筈の三成は、そう言って歓迎してくれた。
きっと三成だったら内容を教えてくれるに違いない。三成の字は幸村にも充分読めるくらいだし、内容だって難し過ぎないし。(それは三成の書状の内容が実務的なものばかりだからなのだが、幸村にはそこまで思い至らない)
が、政宗の書状を目にした三成は、こんな絶望的なことを言った。
「何だこれは。ぐにゃぐにゃしていて読み難いな」
「そうなんです、ぐにゃぐにゃし過ぎですよね」
いい加減、政宗が聞いたらキレるか、或いは地の底までも落ち込みそうだが、幸か不幸か此処に政宗はいない。
三成は暫く書状を睨んでいたが、おもむろに立ち上がって大声で叫ぶ。
「左近!左近はいるか!」
やっぱり三成にも無理だったらしい。いや、内容は読めるが、言っている意味が分からないのだ。
さっきまで昨夜見た夢の話をしていたのに、急に木綿のたすきの話になるなど、意味が分からなさ過ぎて嫌になる。これだからB型は。と、B型の人からこぞって、これだから治部は!と反論されそうなことも、思う。
なんとなく恋の歌、ということは分かっても、武将に必要なのはせいぜいが辞世の句くらいだろうと考えている妙に男らしい三成は、眉を顰める他ない。
兵糧の計算は得意でも、和歌やら本歌取りやらにさっぱり興味がないので、調べる気にもならない。が、幸村の頼みを無視する訳にもいかないから、左近を呼んでみるのだ。左近にとってはいい迷惑だが。
案の定呼ばれた左近は、少し目を通して「こりゃ恋文じゃないですかい」と呟いた。
「そんなことは分かっているのです!けど内容がさっぱりなのです!」
驚いたことに幸村は、恋文ということくらいは分かっていたらしい。
「左近も軍略以外はさっぱりなんですがね…万葉集とか、そういうアレじゃないですかい?」
「まんようしゅう?」
「そういうアレとは何だ、左近。あれだのそれだの、そんな言葉ばかり使っていると呆けるぞ」
「殿…そりゃないですよ…兎も角、概ね会いたいとか恋しいとか読めば良いと思うんですがね」
左近も面倒くさいらしく、適当なことを言う。
「会いたいのに何故木綿のたすきが出てくるのだ」
「たすきが必要なのでしょうか?真田紐で良ければ送りますが」
有名な歌を引用して、たすきをかけることと幸村のことを心にかけることを訴えているのだろうが、「そんなの唯の駄洒落じゃないですか」と笑いかねない幸村と三成には、思い至る筈もない。
さすがに左近もそこまで詳しくないから、うーんと頭を抱える。と、その時。
「ん?皆、景気の悪い顔をしてどうした?!そんな有様では心の中の大事なもの、即ち義が逃げていくぞ、義が!」
呼ばれてもない兼続がやってきた。この手の話題にはある意味適任者である。
問題は、普段ああもいがみ合っている政宗の書状を素直に兼続が解説するかどうか、だが。
「ぶふ――――――っ!!!」
困り顔の幸村から書状を受け取り、冒頭に目を通した兼続は、盛大に噴き出した。
「兼続殿!文に唾を飛ばさないでください!」
「これはすま…ぷぷっ…幸村、だが、しかし…くっ、山犬がな!そうか、あの山犬がな!これは面白い!」
そう言ったきり、ひーひー言いながら畳に突っ伏した。右手で床をばんばん叩き、腹を抱えて大笑いしている。
「そんなに面白いことが書いてあるのですか?!」
「政宗がそんなに愉快な奴だったとはな…」
ここまでされると人間、内容が気になるもので、三成と幸村は兼続を揺さぶって無理矢理起こす。
まだひーひー笑っていた兼続は二人を無視して懐から紙を取り出した。政宗の書状を見、ぶつぶつ言いながら三成の筆を勝手に取る。
「成程、これは古今集の名歌の、ぷっ、だがしかし、己の恋情を常緑の松だと、ぷすー、言い切る不義は全く山犬の名に、くくっ相応しい…一体どんな顔で書いたものやらと思うと、ぷっ、ははは!これは失礼!だが笑いが止まらぬな!」
「いちいち笑うな兼続。鬱陶しいのだよ」
が、兼続は三成の叱責にも怯まず、筆を滑らせ続ける。
「あの、兼続殿、何をなさっておいでで?」
「なに、随分面白、いや趣深い文なのでな。思わず参考に写させて貰ったよ!妙に技巧に走ってみたかと思えば急に素直な文面になり、時折此方が赤面してしまうほどの、ぶふっ、情感に溢れているが、堪え切れなくて急に卑猥な言葉が顔を覗かせる!正に山犬の恋文だな!」
「して、その、中身は何と?」
「これは良い土産が出来た!景勝様もきっとこれを御覧になって、珍しくお笑い、もとい!楽しんでくださるだろう!感謝するぞ、幸村!いつかこれで山犬を揶揄ってやる日が楽しみだ!」
言いたいことだけ言って立ち上がる兼続。
いつもであれば幸村が兼続を引きとめることなどないのだが、今回ばかりは話が違う。兼続はあんなに楽しそうに読んでいたのだ、きっとすごく面白いことが書いてあるに違いないし、それを幸村は知りたいのに。
焦って引き止める幸村を、兼続は懐に紙を仕舞いつつ暫く見詰めていたが、急に真面目な顔になって言った。
「幸村は…あの山犬、というのは私にとって不本意だが、愛されているのだな」
「はあ…」
「少しばかり安心したよ。大事して貰うと良い」
そんなに楽しげな文(と幸村は勘違いしたままだ)の一体何処にそんな内容が書かれていたのだろう、と首を傾げる幸村の顔を撫でると、兼続は続ける。
「さっき真田紐のことを言っていただろう?」
「ええ、たすきがどうの、と書いてありましたので」
「長い長い、そうだな、真田紐でも山犬であれば通じるだろう。長い紐を送ってやると良い。七夕の紐、とでも書けば奴は飛んでくるぞ。どうしても奴に会いたくなったら、そうしてみろ」
それだけ言うと兼続は、来た時と同じように唐突に帰って行った。後にはさっぱり意味が分からない幸村と、巻き込まれた三成と左近が残されるばかり。
「と、いうことだそうだ。俺にはさっぱり意味が分からぬが、たすきが必要なのではなかったな」
「真田紐なんかで喜んでくださるのでしょうか?」
その後、幸村は言われた通りに、長い真田紐を政宗に贈った。
なるべく丁寧な文字で「たなばた」とだけ書いてみた。
書き手の意図を必要以上に汲み取った政宗が、「七夕の糸…七夕に貸す糸のことか!幸村はそんなに長いこと儂を想い焦がれておったのか!」と勘違いし、政務をほっぽり出して幸村のところへ訪ねてくることになるのだが――。
それとは別に、あれだけ兼続が笑った内容を知りたくて仕様がなかった幸村が、今度は懲りずに吉継のところへ内容を尋ねに行き、「俺は病の所為で近頃よく見えぬが…丁度良い、虎之助、お前が読み聞かせろ!」と丁度近くにいた清正が巻き込まれ、更には何をやっているのだと様子を見に来た正則まで巻き込まれ、
「お前ら正真正銘の馬鹿か!こんな文の一つもすらすらと読めんとは!」
と、案外短気で口の悪い吉継に三人揃って怒られているところに通りがかった忠興が、兼続と全く同じ反応を示し、本人の預かり知らぬところで政宗の渾身の恋文は回し読まれることになり。
幸村に会いに来たついでに秀吉の許を訪れた政宗が(政宗にとっては天下人に挨拶することですら、幸村のついでだ)秀吉とねね、夫婦揃って似たような含み笑いで「政宗は幸村のことが本当に好きじゃな」と揶揄れることになる、なんてこと、とりあえず今の政宗には知る由もない。
政宗には色々申し訳ない。そもそも出てないし。
どうでもいいですが、輿に乗って戦場に出た御仁は、何故ああもむやみに強いのか、と思います。
如水も、道雪も、大谷さんも。
おかげでこの三人、無双のイメージとは別に「何でもこなせる人なのに、変に短気で怖くて猛将タイプ」という印象が拭えないのだよ左近。
(10/07/17)