※相変わらず幸村死後の政宗と兼続の話です。
本当にこのシチュが好き過ぎて自分でも困ってます。誰か特効薬をください。

 

 

 

客を迎えるというのに、もう起き上がることすら侭ならない古馴染みの男の姿を目の当たりにした政宗が思ったのは、今の日ノ本を取り巻いているのが間違いなく泰平である、ということだけだった。
 
戦乱の世の面影は薄れようとも、政宗自身が蓄えた記憶が同じように希薄になるという道理はない。
振るう刃の感触も、返り血の温さも思い出せるというのに、病魔によって床に縫い付けられた目の前の男からは死を彩る不愉快な匂いの一切がなかった。鬨の声も土埃も硝煙の香りもないところで繰り広げられる人の死というのは、こういうものであったのだ、と初めて思った。
 
かの大御所が死んだ時には少なからず感じた高揚が全くないことに少々うろたえながらも、政宗は思う。
これこそ、戦乱の世は遠くなりにし、というものなのだろう。
 
たった一人の人間の死が世の趨勢を決めるような時代は疾うに過ぎ去ったということで、それを人は泰平と呼ぶ。
かの古狸は、初めて姿を拝した時から古狸であり、目の前の男は然して自分と違わぬ世代であったのだから、その感慨も多分に己に影響を与えてはいるのだろうが。いや、そもそも年を重ねた者より順番に世を離れていくということに素直に頷けるようになった事実、それ自体が、自分が泰平にどっぷり浸かった証なのかもしれぬ。
 
「最早身を起こすことも出来ぬか、このくたばり損ないが」
 
先程小姓に手を貸されながらも身体を起こそうとした彼を制したのは、政宗自身だ。
 
可笑しかった。
時代に牙を抜かれたのは己だけではなかったらしい。かつての彼であれば政宗の姿を認めた瞬間、身体を起こして傍らの太刀すら引き抜きかねない程であったのだ。仮に死病に侵されていようが。
これをくたばり損ないと呼ばずして何と呼ぼう。
 
「ああ、その通り。六つの巷に片足突っ込んだ私には、山犬の遠吠えすら、もう良くは聞こえぬようだ」
 
兼続の返答は相変わらず政宗を不快なものにさせる。眉を顰めそうになったのは、彼の声音に想像以上の張りがあったからか、それとも言葉の合間に漏れる病人独特の息遣いの所為か、分からなかった。
 
噛み付き合っていれば事足りたかつての関係に比べ、泰平の人間関係は面倒臭い。
見舞いの目的が快癒を願うことであるならば自分が兼続を見舞う意味など欠片もない筈であるが、それでも病床に就いたと聞かば、こうしてわざわざ足を運ばねばならぬ。
ご丁寧に自分と兼続、二人の江戸詰めが重なった時期に死病に罹りおって、と政宗は今度こそ不愉快さを露わにする為、眉を顰めた。見舞う義理は辛うじてあっても、不快を隠すまでの義理はない。
 
上辺ばかりの慰めか、(この男をそう呼ぶのは不本意だが)古馴染みという言葉に沿うように昔のまま遠慮なく罵ってみようか。兼続が望む、そして死にゆく天敵とも呼べる男の最期に自分が掛けたい言葉はさてどちらなのか、政宗は口を閉ざしながら考える。
見舞いの場には相応しからぬ重苦しい沈黙が流れたが、兼続は頓着しない。矢張り、素直に読むかどうかも分からぬ書状を通り一遍の慰めで埋め、送った後は病人のことなど無視すべきだった。
 
この屋敷にわざわざ足を運んだことを早速後悔し出した政宗の前で、兼続は身を横たえたまま固く目を瞑り、辛気臭い息を吐き出した。
 
「…何故あの時私を殺さなかった」
 
病人と過去を語らう趣味は政宗にはない。が、聞かなかったことにするには兼続の声は強気に過ぎた。
 
「知るか」
「才人を討って取るなど、だと。笑わせる。親を討ち、女子供すらも撫で斬りにした山犬の王が、今更私の有り余る才を理由に手を緩めることなど考えられるか」
 
嫌味か、それとも旧悪が祟る、という奴なのか。
どちらにしても蛇のように執念深い兼続の脳裏には、自分の言動すら正確に残されているようである。
 
あの時引き金を引いていれば、と思ったこともあった。上杉の筆頭家老をこの手で屠った功は、限りなく大きい。難癖をつけるのが趣味としか思えぬあの狸ですら、感嘆と共に百万石のお墨付きを眺めたであろうと思う。
 
「何故だ、政宗。貴様が惜しんだ私の才とやらを持ってしても、こればかりは答えが出ぬ」
 
出る訳はなかろう、政宗はそう吐き捨てたい気持ちを辛うじて押さえた。
 
義などという不確かなものを信じ続けた時勢の読めぬ馬鹿共には、あの時刀を収めた政宗の気持ちも、その先の天の行方も分かる訳はない。日ノ本全体を巻き込んだあの天下分け目の決戦で、本当に天下が決するとでも思っていたのであればそれは唯の馬鹿者だ。
その時は具体的な大坂攻めなどという言葉こそ考えていなかったが、予感があった。
それを乱世に生まれた武士の勘だというのであれば、それこそ、そんな勘を持つ武士などこの世にごまんといる。
いや、そうでなくとも、あの決戦で自分と幸村、どちらとも生き残ることさえ奇跡に近かったのだ。
 
義、とやらの所為で貴様らは何を見失ったのか知っておるかと叫びたかった。
 
兼続に不義と罵り続けられた己には痛いほど分かる。人間には、美しいものを愛せる者とそうでない者がいる。
義に裏打ちされた武士の本懐。
それは大層耳触り良く聞こえる言葉ではある。しかし姑息な手段すら用いて家を守り、他人の隙を虎視眈々と狙いつつ上を目指すこと。そのどれもが武士の本懐であろうと殴りつけたかった。
 
が、相手は死を前にした病人であると同時に、未だ上杉家中で絶大なる権力を握る宰相である。たった一発ぶん殴るだけのことがどれだけの混乱を引き起こすか、考えただけで拳は萎える。
本当に泰平の人間関係は面倒臭い。やはりあの時討ち取っておくべきだった。
そしてそう思うことこそが、兼続を殺す気など更々なかったことの証拠でもあるのだと思い至り、政宗は舌打ちをした。
心底後悔している人間は、その内容を決して語りはしない。
 
「本当に生き永らえさせたかったのは、私ではなかろう。しかし」
 
嫌な予感がした。萎えた筈の拳が再び熱を持つ。
 
「皮肉なものだ。私の義の話を目を輝かせて聞いていたあの子がそれに殉じ、蛇蝎の如く嫌ってきた山犬にこの私が助けられるなど」
「貴様は、簡単に口にするそのたった一字でどれだけの人間を縛る気じゃ!」
 
珍しく兼続が口を噤んだのは、殴ることさえ叶わぬならせめて、とばかりに政宗が拳を畳に叩きつけた所為だろうと思う。
 
「義に因りて豊家に殉じたと?それは誰の評価じゃ?あれがどれだけ戦馬鹿だったか知っておるか?」
「政宗…」
「一糸乱れぬまでに統率されたあのような隊を、儂は知らぬ。もしもあそこで豊家が勝っていたらと考えるだに馬鹿らしい。じゃがその馬鹿馬鹿しい印象をあれは儂に与え続けたのだぞ、あのたった一戦で」
 
自分が何を語り出したかすら分からなかった。
儂と兼続は所詮分かりあえぬ筈。不義と罵られようが山犬と蔑まれようが、誠意を持って反論したことはない。己の正義しか見えて居らぬ者に主張を振りかざしたとて何になろう。通り過ぎ、漂う言葉は、唯無駄になるだけだ。
 
そしてそういう無駄を自分は一番疎んでいた筈だった。
 
「義だか何だか知らぬが、そういった下らぬ矜持もあろう。しかし虎視眈々と勝利を狙い、その為の道をこじ開けようと試み、己が命を明日に繋ぐ為に知略も武勇も際限まで使ったのじゃ。あれも、あれの周りの人間も、無論あの場にいた者は皆」
 
もしや自分はこれを告げる為にこの男を生かしたのではないだろうかとさえ思った。
貴様が考えている程、世は単純ではなく、美しいものではないからこそ、生きていけるのだと――下らない、そんなものが生きる理由など下らぬ感傷だが、それは一つの真実であるかのように思える。
 
「それを義などという言葉だけで語るな。幸村だけではない、徳川だろうが豊臣だろうが、大将だろうが、雑兵に至るまで、そんな言葉でなし崩し的に忘れることは許さぬ」
 
いや、違う。本当はこう言いたかったのだ、と口に出した後でやっと政宗は思う。
 
幸村を忘れることなど許さぬ。
 
あれを覚えている者がこの世からまた一人いなくなる、それを実感する恐怖。幸村が生きていた頃から抱いていたそれは、最早習慣に近い。
 
「政宗」
 
笑い飛ばされるか、訳の分からぬ理屈で反論されるかと思ったが、兼続は実に病人らしい、しおらしい声で名を呼んだ。
 
「私は、忘れてなどいないぞ、政宗」
 
貴様の口は嘘を吐く為にあるのか、という反論は言葉にならなかった。
 
兼続は――ああ、この男とそのような言葉を同時に語ることがあるなど、誰が思っただろう――大層、穏やかに、笑みながら言ったのだ。
 
平素は強過ぎる光を纏っていた眸は病の為か白く濁ってはいたが、確かに弓なりに細められ、僅かに上がった口角には冷酷さの欠片も、詰まらぬ自尊心の軋みすらも上らせてはいなかった。
 
「くたばり損ないの私には、既に義などどうでも良いのだ」
 
政宗は目を見張ったまま身動ぎも出来ぬ。死病で脳が湧いたか。それとも遂に盲いたか。
分かっておろう?貴様の目の前に座っておるのは、三成でもなければ、幸村でもない。貴様自らが不義の山犬という二つ名を付けてまで嫌った政宗ぞ。
硬直した身体を叱咤して政宗は干からびた咽喉に唾を流し込んだ。ぼやけそうになっていた視界が俄かにしゃんとする。
 
「しかし私とあの子を繋いでいたものは、義だけだったのだ」
「儂は」
 
独白のような病人の声に被せるように発した己の声は、童のようだった。何と妙な取り合わせなのだと思う。
 
兼続の病み衰えた姿を見ずに逝った幸村は、それでも恐らく、今正に政宗の眼前にいる兼続と同じ表情の彼を見、同じ調子で語られる彼の話に耳を傾けたに違いないと思った。
 
「故に私はそれ以外にあの子を語る術を知らぬ。後悔などしてはいないぞ。だが時折、そうだな、そなたが羨ましく思えることがある」
 
病人と過去を語る趣味などない。
それでもかつての幸村が、こうして穏やかに笑む兼続をその眸に写したのだろうと思うこと。今の自分と同じように。
 
それはわざわざ兼続如きの見舞いに来たという腹立たしさや旧知の者が死ぬという寂寥感などとは比べ物にならない衝撃だった。
 
「儂は、あれと同じものを見たいと」
「どうした、急に。私の話はまだ途中だぞ?」
「せめて幸村と同じものをこの眸に写し、覚えていようと」
「…成程」
 
同じ花を愛で同じ月を見上げ、同じ戦火をくぐり抜けようとした記憶を自分と幸村はきちんと共有してきた筈だった。花の名も月の形も未だに思い出せると言うのに、何故かそれはまるで夢の中の光景のようで、歯痒い程に覚束ないのだ。
政宗はもう一度隻眼を見開き、小さく頷く兼続を見詰める。
 
いつかの幸村が見たものは、政宗の目の前に、確かに現実として在る。
 
後生大事に兼続が抱えている義とやらがどれだけ不確かなものか、それにより忘れ去られていく死人の真意。そんなもの端からどうでも良かったのだ。
 
もしも幸村の生が叶わぬなら――それは戦でも戦じゃなくても、だ――彼が見たもの全てを見、覚えておきたかっただけだ。仮令それが憎い仇敵のあり得ぬ程に穏やかな笑みだとしても。
 
「安心しろ。私は案外人好きのする表情を作るのが下手だ」
「威張ることか」
「だが、そうだな。今の私は、まるで幸村が目の前にいるような顔をしているのだろうと自分でも思う」
 
兼続の声は乾いていたが、彼が発したものは笑いに他ならなかった。出しても出してもこびり付く痰をその声に絡ませながらも快活に笑った兼続は、ふと真面目な顔に戻って言う。
 
「政宗。そなたは、義人でも日ノ本一の武士でもなかった幸村をどうか忘れないでいてやってくれ」
 
その要望は筋違いだと怒鳴る気など、既に湧かなかった。横柄に頷く政宗を見届けた兼続が細く息を吐く。あの狸には告げずにおいてやるから、と兼続は普段通りの偉そうな口調に戻った。何がじゃ、と反射的に渋面を作った政宗に兼続は告げる。
 
「幸村の為に私を生かしたのだろう?一足先にあちらに向かった狸に知れれば唯では済まぬぞ」
「死人に知れたとて恐ろしゅうないわ」
「それもそうだな」
「偉そうなことを言うたが、儂は唯、貴様の口から幸村の話を聞きたかっただけかもしれぬ」
 
もうどちらか自分でもさっぱり分からぬ。もしかしたら本当に兼続の才には敬意を払っていたのかもしれぬ。
が、幸村がいなかったらあの時躊躇いもなく引き金を引いたのも確かなことだと思う。
 
「どちらでも良いではないか」
「先に尋ねたのは貴様じゃが」
「そうだった、すっかり忘れていたぞ」
「幸村に会いとうなった」
 
さらりと口に出した政宗を、兼続は暫くの間随分懐かしそうな目で見詰めていた。私もだ、と振り絞るように兼続が口にする。
私も会いたいよ、あの子に。三成に。謙信公と母上、俄かに細くなった震える声が続けた。
あの兼続ですら、真実を口にする時には多少なりとも躊躇すると見える。その事実が愉快だった。
会いたいのだ、何より景勝様に。我が主に。最期にその手を押し頂いて果てたかった。
 
「三成らと違うて景勝は生きて居るじゃろうが」
 
慰めを含んだ揶揄は、我ながら随分と優しげに聞こえると思った。
だが兼続にはそんな配慮など必要なかったのだろう。くすんだ色の唇を歪めながらこんなことを言うから。
 
「今際の際に会いたいと思う者が多いことがどれだけ幸せであるか、山犬にもきっと分かる日が来るだろう」
 
それまでは、三成と語り合い、貴様の話をする幸村を揶揄いながら待っていてやる。
 
耳障りな兼続の声を聞きながら、死にゆくものの語る幸福には欠片の間違いもないのだろうと、珍しく殊勝に思う己に、政宗は苦笑せざるを得ない。
 
景勝と兼続。
盟友のような主従が一体どれだけの絆で結ばれているのか分からぬ自分が、兼続の最期の願いを耳にするのは少々おかしなこととも思ったが、何、問題はない。
 
きっと自分も今際の際に願うのだろう。もしもそれをこうして傍らで聞くものがいたとして。
独眼竜と呼ばれた己が最期の最期に望んだ男の名を耳にした者はきっと仰天するのだろう。
殿は、あの日ノ本一と称えられた武士を愛していたのか、と。そこまでは分からずとも良い。愛していたのか、それとも手に入れたかったのか、憧れていただけだったのか。
誰にも聞けぬその事実は、やがて薄れて消えていく。それが、泰平という世の摂理で、そんなこともどうでもよい。
 
大事なのは、今の兼続のように、死にゆく前の己が乾いた唇で最期に名を呼ぶのは、恐らく幸村唯一人なのだろうと思うことだけだ。自ら殺めた父の名を敬意と共に呼び、縁遠かった母の名を思慕を持って呼び、先立った家臣の顔を思い浮かべた後、今生での仕事は全て終わったとばかりに。
 
無条件に美しい言葉も、感傷に任せた悲痛な醜ささえも最早関係ないのだと思う。
今際の際に幸村を呼ぶであろう己の声。そんな確信だけで、案外人間というものは、往生際悪くやってのける。

 

 

兼続は、死にかけててもすてきな筈!ってだけの話ですまんかった。
おぼろげながらも今より死後というものの概念が少しだけ強かった時代が良いか悪いかは分かりませんが、
確かに心強さみたいなものはあったのでしょう、とは思う。
(10/10/05)