比翼の鳥やら連理の枝やら、夫婦の睦まじさを称える言葉をこれまで実際聞いたことはない。私達のことを世の中の人は誰一人としておしどり夫婦などとは呼ばないからだ。かと言って、したり顔で男女の情の儚さを語ってくる者もいなければ、我々に離縁を勧める不届き者もいない。
私達はそんな夫婦だ。
仲が良い訳でもなく、悪い訳でもなく、浅くも深くもない情や忠義や貞操の行きつく先が、ただ互いであっただけ、そんな夫婦なのだ。
例えば私は、昨夜あの男が見た夢の内容など知らず、あの男は昨夜の私が魘されていたことなどは思いもよらない、そんな。
だが、そんな夫婦にも秘密はあって、私はそれをどうやって心の裡に留めておくべきかが、時々、分からなくなる。そういう話だ。
岩屋城を枕に義父が島津と交戦中であるという知らせは、夫の顔を曇らせすらしなかった。
それが武士としての彼の誇りなのだと言い聞かせたが、私は、募る不快感を拭うことが出来なかった。
実父の危機に眉一つ顰めない、情の薄い男。
紹運殿が命を賭して島津を足止めしてくれているというのに。
彼は私の父・道雪こそを唯一の父と呼んでいた。
「想像以上に紹運殿はもってくれている」
まるで他人の武勇を褒めるかのように額に手を当ててそんなことを呟いていたものだから、私は慌てて彼の顔を覗き込んだ。
泣いているか、そうでなくても困惑し絶望しているとばかり思っていた彼の顔には、いつも通りのあの嫌な笑みが浮かんでいた。我慢ならない。私は立ち上がろうとする。
「何処へ行く気だ」
「岩屋城だ。婿殿が動かぬというのであれば、私が紹運殿をお助けする」
「そして紹運殿は嫁御を道連れに討ち死か?それこそ、犬死だ」
頬を打とうとしたのか、それとも胸元から懐刀でも取り出して彼の首筋にでも突き付けてやろうとしたのか、自分でも分からない。
咄嗟に動いた右手は夫の腕に絡めとられた。ふざけるな。夫は女でも口説いているかのような艶めいた低い声を私の耳元で響かせる。
「紹運殿の守ろうとしているものは何だ?そしてお前は誰の娘のつもりだ、ァ千代」
私は身体の力を抜いた。
もう、岩屋城に向かう訳にはいかなかった。
それから半年もの間、岩屋城は島津の激しい攻めに晒され続け、しかし一人の逃亡者も投降兵も出さなかった。
それより僅か一年前、臨終間際の父・道雪が私の短い髪を撫でた後で、私の背後に誰の姿を探したか。そんなことは考えるまでもない。
人払いがなされ、風に揺れる陣幕以外には何もなかった私の背後の空間を見た父の眸には、明らかに落胆が混じっていて、私は涙で滲んだ視界でもそんなものをご丁寧に拾う己の観察眼を呪った。
「父よ、立花の誇りも魂も私が立派に引き継いでやる。安心しろ」
頬はしとどに濡れていたが、声を詰まらせる訳にはいかなかった。
我が躯は柳川に向けて埋めよという遺言を言い終わった父は、一瞬、自らの老いを凝縮し形にしたかのような渇いた掌を見詰め、それから娘の――私の顔を笑って見上げた。お前は一体誰に似たんだか、と不快な程に苦しげな吐息に混ざった言葉は、鬼と呼ばれた男のものとは思えぬ柔らかさで、私は父の臨終の場に夫を連れて来られなかった親不孝と、陣幕の向こうの夫の気配に再び泣いた。
もう父には、愛した娘婿が薄い布切れ一枚隔てた向こう側に控えていることすら気付けないのだろう。
父の臨終を看取った私は、黙って立ち上がると勢い良く陣幕を捲り上げた。
涙は拭かなかった。
父は最期に婿である男の手を取って逝きたかったに違いなく、そんな父のささやかな無念の為に、何度懇願しても頑として父の最期を看取ろうとしなかった夫への見せしめの為にも、私は涙を拭く訳にはいかなかったのだ。
「死んだぞ」
「そうか」
「鬼道雪に相応しい最期だった」
そう言い放った私も、言葉少なに頷いた夫も、既に立花を背負った人間の顔をしていたであろう。
戦場にいる兵、父を慕った領内の全ての者、それから今正に父と対峙している島津の将兵達にその死を知らせる為に立ち上がった夫は、すれ違いざま小声で言った。
「最後の機会だ、父上の」
そこで何故か彼は言葉を詰まらせた。
「…道雪殿の娘御でいられる、これが最後の機会だぞ」
彼の言葉の意味が分からず、立花でも何でもない唯の娘である私は黙って目を伏せる。無情な程に規則正しい足音が遠のいて、私は這うように父の枕元へと身を寄せる。父上、と嗚咽交じりの声で囁き、大きく息を吸い込む。
泣く為に。
たった一人で、誰にも遠慮せず、大声を上げ身を捩り拳を振り上げて慟哭する為に。
鬼道雪にだって心残りはあったろう。嘆くしか出来ぬ頼りない娘、臨終を看取ってもくれぬ情の薄い娘婿。我々は父にとって何と酷い娘夫婦であったろうと思ったのだ。
父の遺言は果たされなかった。
具足の代わりに死に装束を身につけた父は、柳川に背を向け立花山城に帰還を果たした。
沿道の女子供はすすり泣き、父の棺を背負った兵は、一言も口を聞かなかった。遠くで、島津の将達が、名将と呼ばれた父の最期に頭を垂れ、それは正に野辺の送りという言葉に相応しい光景だった。
だがこの情景を作り上げたのは、夫だ。
父の遺言を口にした私に、彼ははっきりとした声で言った。帰すのだ、義父上を。立花山に。
私は茫然としたまま頷くことしか出来なかった。
半年間島津の猛攻に晒された岩屋城は、再三の降伏勧告にも応じず、紹運殿をはじめ、全ての将兵は討ち死を遂げた。
この報告の意味するところは分かっていた。
島津の矛先はいよいよこの立花山城に向かう。岩屋城が落ちた今、立花山城が最後の砦だった。本当に太閤殿下は来てくれるのか、もし来てくれるとしてもその前にここを落とされたら終わりなのだ、大友も、無論、私の命も。
一刻を争うそんな事態だと言うのに、私は人払いを命じる。
それは差し迫った戦支度よりも大切なこと。
怪訝な顔で家臣が出て行き、夫と二人だけになった部屋の中で、なるべく振り返らずに私は言う。
「紹運殿に相応しい最期だった」
お前は見たのか、と茶化す夫の声は、きちんと、泣き声だった。
私は紹運殿を助けになど行けなかった。
私は鬼道雪の娘だ。
私は父を尊敬していたし、恐らくは誰より愛していた。
だが、最後に私をきちんと道雪の娘にしてくれたのは、夫だ。父の亡骸の横で泣かせてくれたのは、夫だけだった。
「これが最後の機会だ、貴様が紹運殿の息子でいられる」
これだけ言えば充分だった。紹運殿は私にとっても義父かもしれぬが、今だけは譲るべきなのだ、夫に。
足早に去ろうとする私の背を押すように夫の呻くような声がした。規則正しく歩くのには細心の注意が要った。やけに敏くなった耳にぱたりと水の落ちる音が届いた。私は濡れて重くなった瞼を必死で押し上げる。背後からぱたり、ぱたりと聞こえる音に気を遣らぬよう。あの水が、畳に染み込む音すら響きそうな静寂を破るのに適切な言葉を、私は持たないのだ。
「ァ千代」
振り返る訳にはいかない。今この瞬間だけでも、夫が実の父君を思って泣けるように。
「偉大な父親達に翻弄され続けるというのは大変だ」
その偉大な父達が守りたかったもの。床に額を擦りつけ太閤殿下に出兵を乞わねば滅んでしまいかねない大友家の行く末、それと同じくらい情けない我が子達。
互いに陣幕を隔てなければ、背を向けなければ、私達は父の死に涙することすら出来ない。
今頃父上は呆れていることだろう。お可哀想な父上達。
でも彼らはもしかしたら知らないだけかもしれない、とも思うのだ。
「大変だ、というのは、満更でもない、という意味だ」
嗚咽交じりで夫が語る、そんなことに。
そして私だけは、そのことを言われずとも承知している。
私の父が死んだ時にも、夫は、人知れず泣いたのだろう、という確信。
例えば私は、昨夜あの男が見た夢の内容など知らないが、私の父が死んだ時の彼が恐らくは必死で声を噛み殺して泣いたであろうことを知っている。この男は昨夜の私が魘されていたことなどは思いもよらないだろうが、今私が黙って背を向けたまま涙を流していることは知っている。
私達は比翼の鳥などではないから、嘴ではない唇をきつく噛んで嗚咽を殺すことだって出来る。
だから私達は、夫の、妻の嗚咽が口に出せぬ誇りとなり、それがどれだけ互いを縛ってくれるのかを知ることが出来るし、父の亡骸を敵陣に置いたまま陣を退くことをせずにすむのだ。
やがて夫は柳川を安堵され、私の父が最期まで落とせなかった柳川城に入った。
「ァ千代は帰れ」
何処に、とは聞かずとも分かった。
彼は父が欲した地を、私は父が守った地を。
私達はそういう夫婦だ。間違ってもおしどり夫婦などとは呼ばれず、男女の情の儚さなど説かれない、そんな。
私は時折、立花山から柳川の方向を仰ぎ見て、二人の父の死に涙を流した男のことを考える。それから大友の最後を、最愛の父と敬愛する義父のことを。そしてもう一度、思い出す。
恐らくは二度と会わぬであろう、今生でただ一人の私の夫。
それでも私達の間には父すら知らない秘密めいた何かが確かにあって、例えばそれは朝日の中で彼の面差しを思い起こしながら、さようなら、と一人口にしたり、月の灯りの下、愛していたと呟いてみたりすることに酷く似ている、そういう話だ。
一度は書きたい大友ネタ。でへへ。
この裏で、宗麟は紹運の最期に涙しながら、そしてもしも今も道雪が生きていたらと思いながら国崩しをぶっぱなしてるんですね!好きです!(告白)
ギンちゃんはパパ大好きであってほしいけど、道雪は生涯「戸次道雪」、ギンちゃんは「立花ァ千代」で
それ故に無双のギンちゃんは「立花」の名に執着するのかとか、妄想尽きぬ立花家、いえ大友家であります。
全てが終わり、時代が移って、柳川を安堵された宗茂に対して
ギンちゃんの消息は案外分かってないことも多いのですけど、
立花山を離れることはなかった、という逸話がそのままずっとその通りだったら、
もしかしたらそこには、二人にしか分からぬ何かがあったのかもしれない、だと、いいな。
(11/04/01)