乱世の終わりまで。
そう口にした氏康のダンナがどんな顔をしてたか、あたしにはもう、知る術はない。隣の熊みたいな姫が何を思っていたのかも。
乱世の終わり。
あたしの頭は、呪いのように染み込んだ言葉を咄嗟に書き換える。
乱世の終わりは世界の果て、それは、あたしと幸村様の。
あたしが幸村様にはじめて会ったのは、五年前の冬の日だった。
あたしはその光景を今でも思い出すことが出来る。寸分の狂いなく。
差し込んでいた光の色、幸村様が微かに揺らす空気、あたしは床の小さな傷ばかり見ていた。腰に忍ばせた忍び道具は、まだ新米だったあたしに余所余所しく、あたしはこっそり三度、小さく身を捩った。
忍のお仕事というのは、つまり、主に全てを差し出すことなのだ。
それは命をも捧げる忠義というのとはちょっと違う。
最短で敵を殺める技を持つ腕を、あたしは幸村様に捧げている、ということ。あたしの聞いたものは何一つ取りこぼすことなく幸村様に報告されるということ。目の端に一瞬写った敵の密書の内容を、あたしの頭はあますところなく記憶するということ。
忍というのは、そういう生き物なのだ。
忍び込んだ屋敷の床下で、息せき切って夜道を走りながら、敵と切り結んでいる最中、あたしはずっと想像し続ける。今、この瞬間、幸村様であれば何と命じるだろう。その考えに己の腕を支配させ、記憶すら寄り添わせる。
忍とはそうあるべきとあたしは教育されてきたし、その考えには何らおかしなところはないと思う。実際あたしは優秀な忍だった。厳しかった師匠が昌幸様に言ったのだから間違いない。あの子は、天賦の才という言葉すら及ばぬ程に、忍そのものだ、と。
だからこれは間違ったことで、そして――恋なのだと思った。あたしが、幸村様に初めて会った五年前の冬の日の光景を、今でも思い出すことが出来ることを。寸分の狂いもなく。
本来あますところなく幸村様に捧げるべき頭の中のちょこっとの部分、それをあたしは自分自身の恋心の為に使っている。
葉を落としそうな木々の匂いを嗅ぎながら、あたしは少しだけ、冬の訪れを待つ。
わくわくも、する。
もうじき六年になるのね。
そんな風にひとりごちながら主に捧げた筈の指を、あたしは、あたしの為だけにそっと折る。それはまるで、春の訪れを待つ娘のように。馬鹿馬鹿しいよね、春なんかよりもっとずっと待つべき季節があるのに。
誰も知らないあたしだけの大事な季節をひっそりと持つこと、そーゆーのが恋なのだ。
そこまで考えて珍しくもうっかり苦無を掌から取りこぼしそうになり、あたしは指先に傷を作った。ちっちゃなちっちゃなかすり傷。ああ、こんなの久しぶりに見た。
ねえ、指先の傷ですら恋のなせる技だとあたしは本気で信じていたの。
だから、幸村様を振り返りながら言った言葉には、本当は何の意味もない筈だった。大好きな冬が終わりかけたちょっとした寂寥感の他には。
「幸村様、ほら。あの辺」
幸村様の視線は、山の中腹、群生する桜を指したあたしの指を素直に追う。
あたしは優秀な忍だった。
幸村様が戦のことしか考えられない武士であるように。
醜い腹の探り合いも、目の前の美味しそうなご飯も、遠くの山で密かに綻びようとしている桜の蕾さえ、幸村様にとっては同じことだった。そのくらい純然たる武士な主に、忍のあたしは色々なことを教えてあげなくてはいけなかった、筈だったのに。
「咲くのはもう少し先だろうに。ああ、確かにぼんやり薄桃に見えるな」
笑顔っていうのは、本当に凍りつくものなんだ、とあたしは知った。
「彼の地の蕾もまだまだ、固いのだろうか」
奇妙な笑顔のままで、あたしはあたしの立場を心の底から憎んだ。幸村様の言葉をいつだって聞ける位置にいるべき忍。
あたしに独り言を聞かせることに慣れている幸村様は、こっちも見ないで続ける。
幸村様の声に馴染ませ過ぎたあたしの耳は、その声が少し浮き立っているのが分かる。
いつから?言われてみれば兆候は確かにあった。でも、いつから?一体どうして?優秀すぎる忍と、どうやっても武士らしい生き方しか出来ない武士。ねえ、あたしたちはそんな風に過ごしていくべきじゃなかったの?
「蕾が綻ぶ直前の桜の木は薄桃に見えると言っていた。枝を煮出した水は、布を見事な桃色に染めるのだと」
いつか来る乱世の終わりまで。
「そう、政宗殿からの書状に」
――ああ、五月蝿い。
「畜生!って叫んで、いつもの十倍素振りする」
傷心、という言葉が可愛く聞こえる程にボロボロのあたしが必死の思いで失恋から立ち直る方法を聞いたと言うのに、相模が誇る熊姫は相も変わらず脳筋丸出し発言を打ち返してくる。
「はー。いいよね、熊は。いつも元気でさ」
「でもそろそろ冬眠から覚める支度に忙しくって…って違うわ!」
「…ねえ、氏康のダンナは何であんなこと言ったのかにゃ〜」
「お屋形様?何て?」
大丈夫だよ、ダンナの可愛い熊姫ちゃんは乱世の終わりのその先までもきゃあきゃあ言って笑ってられるよ。
乱世の終わりは世界の果て。少なくともあたしと幸村様にとっては。
呪いのように染み込んだ言葉はいつだって優しい最期を想像させる。幸村様の為だけに生きたあたしの手の中には苦無。戦に全てを捧げた幸村様は槍を握ってて、あたし達は折り重なって倒れているの。どっちがどっちを庇ったのかももう分からない、それくらい。
「あのさ、あんたホントに失恋したの?」
「うわ、ド直球。もうちょっと空気読もうよ」
「…失恋じゃなかったんじゃない?」
「いいよ、もう諦めるもん、直接振られてなくても諦めたら失恋だよ」
「そういうことじゃなくて!」
甲斐姫が床に叩きつけた掌から良い音がした。彼女の手は真っ赤で、あたしはそれが無性に悲しくなる。
「あたしは幸村様が好きよ。だってあの人多分、二万どころか十万の兵に城を囲まれても絶対に槍を離さないもの。あたし、分かるから、そういう気持ち。一緒に死んでくれる人なんて要らないわ。あんた、幸村様のこと何だと思ってんの?」
あたしだって死にたい訳じゃないよ、という呟きは酷く嘘っぽく聞こえた。あたしを無視して溜息を吐いた甲斐姫の横顔を見て思う。
もしかして、あの時もそんな顔してたのかな。
「お屋形様は、乱世の果てだなんて考えてなかったわよ」
あたしはあの時、実際に隣に立ってる甲斐姫がどんな風だったのかさえも見てなかった。あたしと幸村様が折り重なって死んでいるのを想像する前に見るべきものはもっとたくさんあったのに。
「乱世の終わりには、乱世の次の時代が来るのよ。そんなの、あんた以外誰だって知ってる」
この乱世、武士は数多居れど、戦のことのみを考えて生きられる人なんて何処にもいない。主に全てを捧げきった忍などいないように。
失恋を、したのだ、と思った。
それが恋だろうが何だろうが、あたしは恐らく、今ここで白旗を揚げなければ救われない。
誰が連絡したものやら(多分、おせっかいで優しいあの熊ちゃんに違いない)、小田原くんだりまで駆け付けてきた幸村様は、迷子の馬が見つかったようなほっとした顔であたしを見た。
その顔にあたしは少しだけときめいたのだけど、ホントのことを言ってしまうと少しだけ心が揺れたのだけど、同時にとっても冷静に考えられたのだった。
あー、あたし、迷子の馬なんだ。生まれたての犬とか猫じゃなくて、つまりそう簡単に野垂れ死ぬものじゃなくて、時期が来たら帰ってくるような、そんな。
もしかしたらずっとこうだったのかもしれなかった。幸村様は本当のことだけを言ってて、でもあたしも決して嘘を吐いてたんじゃなくて。
「憑き物が落ちたって感じ?目からうろこ?生まれ変わったみたいな?どうしていいか分からないけど」
「ま、先は長いんだからさ。ゆっくり考えればいいじゃない、ね?」
そして相模が誇るべき熊姫だって、本当のことしか言わないのだ。
「ねえ、幸村様は何で迎えに来てくれたんですか?」
「私にとって大事な忍だからな」
「…うん」
「本当だぞ」
「うん、分かってますって!」
幸村様ってセイジツだな、って、あたしは、はじめて思った。
お久しぶりの上田城、すっかり桜は満開で、あたしはいつぞやの師匠の言葉を思い出す。
優秀な忍のままでいられる自信はあるからさ、忍そのものじゃなくなっちゃっても、いいよね。お仕事以外の、ううん、幸村様以外の色んなこと、ちゃんと覚えててもいいよね。
そこまで考えて、うっかり苦無を掌から取りこぼしそうになって、あたしの指先にはちっちゃな傷が出来た。途端に視界がぼやけて、地面には瞬く間に二、三滴の雫が落ちて、あたしは突然思い付く。
あたしは、あたしだけの苦無の握り方を考えなくちゃ。
だって、いつか、それを誰かに伝えたいと思うこと、そーゆーのが恋でしょう?
遠くで幸村様が呼ぶ声が聞こえる。
お仕事お仕事、と立ち上がるあたしは、幸村様の声の感じでどんなことを命じられるのかを予想する。きっとそんなに難しいお仕事じゃない、でも勿論まだ内容は分からない。そんな当たり前のことが無性に嬉しいって思う。
指先のちっちゃな傷は赤い筋を残しただけで、もう、乾き始めている。
(13/08/03)