馬鹿は風邪をひかないという謂れが本当なら、少なくとも幸村は馬鹿ではなかったということになる。
どういうことかというと、その言葉通り、幸村は昨夜から風邪をこじらせて寝込んでいたのだった。


「幸村、お粥は食べられるかい?」
盆を持って部屋に入ってきた兄・信幸の声で、うとうとしていた幸村の意識は覚醒した。
「ありがとうございます、兄上」
起き抜けだからか、熱の所為か、おそらくはその両方なのであろう、くらくらする頭を押さえながら信幸に礼を言うと
「いや、それより調子はどうだ?」
信幸は幸村の枕元で膳の支度をはじめた。


少量ずつではあるが、粥を口に運ぶ弟を見て安心したのか信幸が言う。
「幸村はあまり体調を崩さないからなあ。他に何か食べたいものはないかい?」
「いえ、まださほど食欲も戻っていませんので」
「まあせめて粥くらいはしっかり食べて。体力をつけて早く治さねばね」
はい、と頷きかけた幸村だが、信幸の口から飛び出した思わぬ人物の名に思わず飲み込みかけていた粥を噴出した。
「伊達のところの、ええと政宗君だっけ?彼の為にも」


咳き込む幸村の背を擦り、飯粒を拭い終えた(勿論その間幸村は恐縮しながらも赤くなったり青くなったり忙しかった)信幸が面白そうに話してくれたことには、時間にして二時間ほど前、幸村がまだぐっすり寝ていた頃、彼に訪問客があったというのだ。
当然、その訪問客とは、政宗に他ならない。


メールをするくらいであれば電話を、電話を掛けるならばそれより会いに行く。そう豪語する政宗は、前もって予定を聞かずふと幸村の家を訪れることも多い。
勿論幸村と行き違いになることだって無い訳ではない。しかし怒るわけでもなく、むしろ嬉しそうに「留守なら留守でまた会いに来るか、それこそその時点で電話でもすれば良いじゃろう」などと悪びれもせずに言うものだから、幸村も言い返せずにいるのである。
幸いなことに、というべきか、幸村の父親は仕事で留守がちであったし、兄の信幸も大学の研究が忙しく、休日ならともかく平日は深夜まで帰宅しないことが多い。
自然、真田家を突然訪問する政宗を迎えるのは幸村ということになるのだ。


しかし今日は勝手が違った。
幸村が扉を開けるとばかり思っていた政宗は、まず普段会わない信幸が出てきたことに驚き、更には幸村が風邪であることに再び驚かされる羽目になった。
幸村と約束でもしていたのかい?と済まなそうに尋ねてくる信幸に慌てて首を振り、幸村の病状を聞いて、見舞いを述べ(確かに顔を見れないのは少々寂しくもあったが、ここでどうしても会いたいなどと言って信幸を困らせ、幸村の風邪を更に悪化させる趣味は政宗には無い)真田家を後にしようとした時。
ふとポケットの中にのど飴が入っていることを思い出した。
政宗はほぼ反射的にその飴を掴むと、信幸に押し付けるようにして真田家を出てきたのだった。


「これがその飴だ。ここに置いておくから後で頂くといい」
普段はそれこそ不遜を絵に描いたような態度を見せる(信幸自身はそれを余り不快に感じたことはないが)政宗のささやかなお見舞いが余程面白かったのか、信幸は笑いながら件ののど飴を幸村の枕元に置いた。
「さあ、もう少し眠りなさい」
信幸が部屋を出て行ってしまうと、幸村は手を伸ばして飴を掴んだ。
熱で身体の痛覚が鈍って、飴のパッケージの角が掌にちくちく当たるのが気持ちいい。
いつしか幸村は、飴を握ったままゆるりと、眠りに落ちていった。


次に目が覚めると部屋の中は真っ暗で、周りからは物音一つ聞こえなかった。口の中が乾いてはいたが、先程に比べると身体は大分軽い。
身体を起こしかけた幸村の手の中から、かさ、と音が響いて飴玉が転がり落ちた。
「まさむねどの」
飴を握っていた手を見ながらこっそり呟いた筈なのに、それは思いの外幸村の耳に大きく届き、彼自身を慌てさせた。
携帯を取り出し時間を確認する。十時三十七分。
まだ起きてはいるだろうが、そう易々と電話を掛けて良い時間帯でもない。住所録に記された恋人の名前をなぞりながら考える。
小さな画面に映る只の漢字の羅列。それでもそれが彼の人の名前を示すものだと思うと、そんなものすら愛おしい。
…でも、ご迷惑になったらいけませんし。
そう理由をつけ、名前を眺めるだけで満足しようと、そう決心を固めかけた時。
「!」
携帯が大きく震えて着信を知らせる。
着信に驚き、更にはその相手に驚き。ああどうしようどうしようとうろたえたのは一瞬のこと。
二度目のコールが止まぬ内に、幸村は気付いたら携帯を耳に押し当てていた。
「もしもし」
「…早いわ。起きておったのか?」
呼び出し音が碌にしないうちに相手が出たのだ。さすがに政宗の声にも驚きが含まれている。
「丁度携帯を手に取っていたところでしたので」
「何じゃ、大方儂のことでも考えておったのだろう」
電話の向こうでにやにや笑う政宗の顔が目に浮かぶようだ。
違います!と言い掛けた幸村だったが、ふと笑みを浮かべるとこう切り替えした。
偶には。偶には私から思い切り甘えても良いですよね?
「ええ。せめて声が聞きたくて。ずっとあなたのことを考えておりました」
政宗にしては珍しく、長めの沈黙が下りた。
「…馬鹿め。しかしいつになく素直な幸村も愛いのう」
今度は幸村が絶句する番だった。


飴を握って眠った時には、まるで政宗と手を繋いでいるかのようで。
けれども目覚めて、やはりそれは錯覚だったのだと気付くと今度は無性に声が聞きたいと焦がれるようになり。
もう少し、もう少しだけ声を聞かせてください。
段々エスカレートしてくる自分の要求にひっそりと苦笑いしながら、電話を耳に押し当てる。
政宗は素知らぬ振りでとりとめもない話をするが、幸村のそんな気持ちを分かっているのかいないのか。用件が終われば普段はさっさと電話を切る彼が、今日は切ろうともしない。
「幸村、少し起き上がれるか?」
大分体調は良くなりました、と答える幸村に、政宗は月が綺麗じゃぞ、と返す。
窓に近付いてカーテンを開けた幸村は、月を見上げそのまま何気なく視線を下に移して思わず叫び声を上げた。
「政宗どの!」
自宅の塀の横に立ってこちらを見上げているのは、自分が今電話で話している筈の政宗ではないか。
「ななな何をなさっておいでですか!」
声が聞けたら、今度は姿が見たくて仕方がなくなってしまうのでしょうか。
そんな幸村の取るに足らない(でも幸村にとっては重要だ、この上なく)不安さえ消し飛ばすように、政宗は鮮やかに笑ってみせた。
「そう叫ぶな。顔が見たくなったから来ただけだ。もう帰るわ。今夜はちゃんと休めよ」
一目見れればもう満足、といった具合にあっさりきびすを反す政宗の後姿を呆然と見送って、幸村は力なくその場に腰を下ろした。
受話器から未だ聞こえる政宗の声に、訳も分からず返事をし、また明日と囁く声に伝わる筈はなかろうにこくこくと首を縦に振る。
「おやすみなさい、ませ」
これ以上熱が上がったらどうしてくれるんですか。もう繋がっていない携帯を握り締めそうひとりごちる。
頭も咽喉も、もう何処も痛くはないのに、だって声だけがまだこんなに熱っぽい。


結局次の日、幸村の体調は概ね快癒したのであるが
「おお!心配したぞ、幸村!何しろ私は未だ嘗て風邪というものをひいた事がなくてな!」
必要以上に元気な友人に風邪とは何かをしつこく聞かれ困っているのを彼の人に笑われ。
その笑顔に昨夜の熱を思い出し、ついしどろもどろになってしまったのを今度は不審がられるのは、また別のお話。




まさかの直江オチ(全然まさかじゃない)。
兄登場!一応信「幸」にしてみました。どっちでもいいんですけど。
お兄ちゃんは真田家における唯一の良心です。今のところ(ボソ)
幸が随分ヲトメなのは、まぁ風邪だしね。うん。あはは。

…しかし、「その粥は食用ですか?それともかける用ですか?」と幸村に言わせたくてうずうずしましたが、我慢しました。
真田と言えば粥。
(08/05/13)