政宗にはどうしても頭が上がらない人物がいる。
「はあ?あの男にそんな者がいるだと?…ああ、幸村か」
長年友人をやっている(互いに付き合いがあること自体が不本意なので決して友と呼ぶことはないが、まあ友人と言って差し支えなかろう)三成辺りに聞けばそんな返事が返ってくるだろう。
確かにそれは正しい。
ただ、真田家にはもう一人、政宗がどうしても敵わない人物がいるのだ。
それは今よりずっと前。
まだ梵天丸と呼ばれていた政宗が毎朝弁丸の手をひいて小学校に通っていた頃の話である。
その日梵天丸は(見た目には大変分かりにくかったが)浮かれていた。
何しろ連休を利用して弁丸の家に初お泊りである。
夜になっても明日になっても弁丸と一緒にいられる。
一緒に夕ご飯を食べ、並べて敷いて貰った布団に潜り込んでも梵天丸はうきうきしていたし、弁丸も始終楽しそうに見えた。
学校や宿題の話、友達の噂話。普段と同じことを話してはいるのだが、こうして布団に潜って暗がりの中で話すと少しだけ違って聞こえるから不思議だ。
とその時、襖が開いて弁丸の父・昌幸が顔を出した。
「何じゃ、まだ起きておったのか」
そう言いながらも昌幸は決して咎める訳でもなく、二人の枕元に腰を下ろす。
「早う眠らぬと明日起きれぬぞ」
弁丸と梵天丸の頭を交互に撫でる。弁丸は嬉しそうに肩を竦めた後、昌幸に向かってこう言った。
「ちちうえ、またおはなしをしてくださいませ!」
「そうじゃのう。では一つ、話でもさせて貰おうかのう。梵天丸殿、宜しいですかな?」
梵天丸もそれに異論などあろう筈もない。首元まで布団を引っ張り上げた梵天丸に向かって笑みを浮かべると昌幸はゆっくり話し始めた。
何じゃ、あの話は。
昌幸の話が終わり、彼がそのまま部屋を下がった後、梵天丸は布団を頭まで持ち上げた。
それはもう、昌幸の話は半端なかった。半端ないほど怖かった。
普通、泊まりに来た息子の友達にするか?そういう話を?!
更に解せないのは、それですやすや眠っている弁丸。
顔を覗き込んだわけではないが、明らかに昌幸の話の途中、それも極端に怖くなり梵天丸が布団を我知らず握り締めた辺りから、弁丸の呼吸が寝息に変わった気がするのだ。
馬鹿な!何故あの話を聞きながら眠れるのじゃ!それもこんなに健やかに。
弁丸への理不尽な怒りに己の恐怖心も相まって、いっそ弁丸を叩き起こしてやろうかと思う。
ただ、怖い。
布団から手足を出すことすら怖いのだ。頭も出したくない。出したら絶対何かいる気がする。
何かって何だ!そんなものはおらぬわ、馬鹿め!
布団の中から出ないように、何とか少しずつ弁丸の方へ身体をずらす。恐怖で関節が固まっている気がするが、そんなこと言っていられない。いっそ布団伝いに移動して弁丸を叩き起こすなり何なりしようという魂胆だ。
「ぼんてんまるどの、あそこに」
突然、寝ている筈の弁丸から声が洩れて梵天丸は飛び上がらんばかりに驚いた。
あそこに、ってあそこがどうしたというのだ!
暫くじっとしていた(というより動けなかった)が弁丸はやはり寝息を立てている。
寝言か?寝言なら寝言らしい内容を言え。というかむにゃむにゃとか言え!はっきり喋るな!
半泣き状態で尚もずりずり動く梵天丸の耳に、今度は気味の悪い笑い声が響く。
「…えへへ」
いや、声は弁丸なのだが。絶対寝言なのだが。それでも寝ながら笑われるのは非常に気持ち悪いし不気味なのだ。
寝言だからちゃんと言えてないけど、きっと弁丸のことだから「あそこに美味しそうなお菓子があります。嬉しいです。えへへ」とかに違いない。そうだ、絶対そうだ。
一心不乱に自分に言い聞かせるのだが、一度頭にこびりついた恐怖はそう易々とは消えぬ。
更に悪いことに今度はトイレに行きたくなってきた。
ばばば馬鹿め!何故このような時に便所にいかねばならんのじゃ!儂はそんなにお約束なキャラか?!
脳内で自ら罵倒してみても、状況は一向に良くならぬ。
梵天丸は、ぎしぎし鳴りそうな固まった身体をどうにか起こす(それでもこれだけで凄い時間がかかった)と、あまり視線を移動させぬよう細心の注意を払って、びくびくしながらトイレへ向かうのだった。
「…如何致しましたかな?梵天丸殿」
「ぎゃああああああ!」
トイレからの帰り道、膝を盛大に笑わせつつ歩いていた梵天丸は急に声をかけられて悲鳴を上げた。
梵天丸の背後に立っているのは昌幸。何故わざわざ気配を消して近付くのじゃ?!というか電気ぐらい点けてうろつけ!
悲鳴は上げてしまったが泣き出さなかった自分を誉めてあげたい。もうこれは世界中から讃えられてしかるべき偉業だと思う。
「梵天丸殿はまだお休みになられないご様子。儂で宜しければ慰みにお話でも致しましょうか?」
蛇に睨まれた蛙の気持ちがよく分かる。梵天丸に出来ることはただぶるぶると首を振ることだけだった。
「そうですか。それではごゆっくり」
来た時と同じように音もなく去っていく昌幸の後姿を見ながら、弁丸の将来を本気で案ずる梵天丸だったが。
「つまらんのう。そんな奴には弁丸はやれんわい」
そんな言葉が暗闇の中から聞こえてきたような気がして、梵天丸は慌てて周りを見回したが、昌幸の姿はもう何処にもなかった。
「何じゃ。友人が来ておったのか」
今日も今日とて四人揃って幸村の家で騒いでいたら、いつの間にか昌幸が帰ってきていたらしい。幸村の部屋のドアを開けるなりそう言いながら人好きのする笑顔を見せた。
「…お邪魔しております」
「これは!お父上であらせられるか!私は直江兼続!幸村君とは学友でありながら共に義の道を追求する同志として…!」
兼続の挨拶を軽く交わすと、昌幸は何気なく部屋を見回した。当然、政宗とも目が合う。
「何じゃ。政宗殿も来ておられたのか」
「…はっ。ご挨拶が遅くなりまして誠相済みませぬ」
急に姿勢を改め、姿勢どころか態度までまるでいつもと違う政宗に目を丸くする面々。
「まあそんな固い挨拶はよいわい。それより、あれじゃ。幸村の寝言はもう平気になったのか?」
あの時、怖がっているのは当然気付かれただろうが、何故幸村の寝言のことまで知っておるのじゃ。
というかこの親父め、一体何処まで握っておるのか。
「…お蔭様で。それに昔の話にございますれば」
それもそうじゃ、と呵呵と笑う昌幸。さすがの兼続も黙って事の成り行きを見守っている。
「政宗殿、頼んだぞ」
何が、とは言わなかったが。政宗は黙って頭を下げる。
昌幸が扉を閉めた後も、政宗はしばらくそのままの姿勢をとり続けた。
間も無く投げつけられるであろう友人達の疑問の数々にどうやって対処しようか考えながら。
真田パパは最凶のお茶目さん、というのと、花嫁の父ネタを組み合わせたら混沌に。
兼続が幸を君付けで呼ぶとものっそ違和感がありますね。まあ、親の前だしね…。
4〜5月の拍手でした。