床を踏み鳴らす音に続いて、がちゃん、と何かが盛大に落ちる音が響いた。「殿!」そう叫んでいるのは小十郎殿だろう、本当に彼の苦労には頭が下がる。何人かが慌しく走り回る音に雑じって聞こえるのは、ぱたぱたという軽快な足音。
そろそろか。
そう見当を付けた幸村は、読み止しの書物を片付け縁に出た。京の屋敷ではこれが日常。
足音はそのまま隣の伊達屋敷の中を走り回り、外に飛び出して今度は徐々に近付いて来る。近所の悪餓鬼が暴れ回っている様でつい顔を綻ばせてしまうが、その悪餓鬼こそが独眼竜・伊達政宗であることは、幸村にとっても真田屋敷の者にとっても、既に疑いようの無い事実である。
「幸村!」
足音の主が庭からぬっと現れた。
着衣に乱れはないが、髪に数枚付いている薄紫の花弁は庭先の栴檀であろう。一体何処から屋敷に入り込んで来たのか、両手に持った棒刀(さすがに追い縋る家臣相手に手酷い事は出来ないとみえ、それは戦場で見るより幾分か小振りのものであったが)を放り投げて此方に駆け寄った政宗の髪を、幸村はそっと整えてやる。
「小十郎殿が困っておいででしょう?」
彼にそんな諫言は何の意味も無いと分かっているのだが、つい小言が口を吐いた。
「馬鹿め!為すべき事は終わらせてあるわ。それでお主に会いに来て何が悪いか!」
でも屋敷内をあのように走り回って。それで壊れたものを片付けるのは小十郎殿ですよ?そう言えば、政宗はぐっと言葉に詰まる。
その表情を間近で見られる後ろ暗い喜び。すみません、政宗どの、言い訳に使われてしまう小十郎殿も。
諫めたいのは政宗ではない、流されそうな自分自身だ。政宗の、まるで体当たりしてくるかのような想いを正面きって受け止めるのは、正直、怖い。
「…あのくらいは押し付けても構わぬ。小十郎も仕事がなければ暇じゃろう」
ああ言えばこう言う。本当にこのお方は。
「そのようなことどうでも良いであろう?儂はお主に会いに来たのだぞ!」
渋面を作ってみせると今度は庭先で声高にそう宣言された。はいはい、とそれを受け流し幸村は茶の支度を始める。背を向けたのは顔を見られたくないからだ。
…大丈夫、大丈夫だとは思うが、万一にでも頬が緩んだり、ましてや赤面してしまっては困る。
「幸村、お主は四年前の自分を覚えておるか」
背後から声を掛けられた。政宗の言葉はいつも唐突で、胸を抉るように響く。
四年。
それは自分と政宗の間に横たわる時間。政宗は確か齢十四で、自分ももうすぐ十八になる。
「…儂はそなたが思うほど子供でもないぞ」
幸村には、聞こえなかった振りをすることしか出来ぬ。
縁に腰掛けて茶を啜りながら庭を眺める。先程の騒動が嘘のような静かで穏やかな時間。
随分ぼんやりとしていたらしい、ふと気付くと腕に寄り掛かる様にして政宗が寝息を立てていた。目の前でふわふわ揺れる栗色の髪。余程お疲れなのでしょうか。
会いに来てくれるのは嬉しいが、その時間を作る為に無理をしているのではないだろうか、そう思うと身が竦みそうになる。私は何も返せない、何も。
せめて彼に応えるべきなのだろうか、とも思う。そう思い続けて随分長い時間が経ったが未だ口に出せず仕舞いである。
「四年前の自分」政宗はそう言った。
四年前、自分は随分と幼かったし、勿論まだ政宗とも出会っていなかった。只々、お館様の下で働くことを夢見て無邪気に槍の鍛錬に明け暮れた日々。今でも己は未熟だと思うが、四年の歳月は長い。既に私は幼い子供等ではなくなった。だが。
この方は、あの頃の自分と同じだけしか年を重ねてはいないのだ。
同時にそんなものは言い訳にもならぬと心の裡で騒ぐ声がする。十四だった自分と、今の政宗を比べることに何の意味も無い。しかしあなたはやはり、まだ子供なのですよ。あなたが私に追い着こうと躍起になっていらっしゃるのは分かります。
実際、政宗は幸村の為に必死だった。この年若い少年王は、大人顔負けの、いやそれ以上の手腕をもって奥州を平定したかと思えば、嫌味な程に賢しいその頭脳で難無く政務をこなしていた。
その癖今日の様に気軽に会いに来る。
まるで政の為の時間以外は全てを幸村の為に使うのが当然、とでも言うように。
幸村には、それが痛い。会いに来るなとも会いたいとも言えず。魅かれている、それは分かっている。
無造作に手土産の菓子を渡したり、まるで女に会いに来るかのように花を摘んできたり、かと思えば自分にはまるで分からない珍しい書物を手に入れたと嬉しそうに報告することもある。そうしてゆったりと幸村を口説くのが彼の日課だ。「そろそろ惚れたか」と意地悪そうに笑うその顔も、「どうしたら儂のものになる?」軽い口調とは裏腹に切なげに訴える眼差しも。出逢ったばかりはそんなもの見られなかったのに。
彼はあっという間に淡い思慕を激しい恋情に変え、それをそのまま幸村に差し出す決意を固めてしまった。その速さといったら!政宗は自分より四年分も子供だと思っていたのに。自分は四年先で彼を待てば良いと。
あなたはその距離を埋める為必死で走ってくる。けど、待たされる側の怖さは分かりますか?私を抜かした先で次にあなたが見つけるものは何ですか?
そんな速さで追い着かれ、そしていずれ抜き去られたら、あなたは私を振り返ってはくれますまい。
そう考えて幸村は自嘲めいた笑みを浮かべた。彼のことを子供だといいながら私は、一人にされる恐怖をこの方にに拭って貰おうとしているではないか。
政宗が僅かに身動いで、思案に暮れていた幸村が我に返った。何か羽織るものを。そう腰を上げかけたが、政宗が思いの外強い力で裾を握っているので、立つことも出来ぬ。
「政宗どの」
小さく呼び掛けてみるが、勿論反応は無い。
無理に身体を折って覗き込んでみると、随分幸せそうな年相応の顔で寝ていることにほっとする。と、政宗が自分の名を口にしたように見えて幸村は一瞬動きを止めた。
「…ゆ、きむら」
気のせいではない。寝ている政宗の口から洩れる自分の名前。あなたは、あなたって人は。先程まで感じていたどろどろとした澱が甘い痛みに変わった気がして、慌てて息を大きく吸い込んだ。政宗の香りが鼻をくすぐる。あどけなく眠る政宗の寝言は、どんな睦言より耳に優しい。
ねえ、私は間違っているのでしょうか。待ち侘びながら追い着かれたくないと願わずには居れぬ私は。
「ゆきむら」
もうそれでもいいや、素直にそう思った。間違っているかそうでないかは、私やあなたが決めることではない。あなたがそうやって私の名を口にするのであれば、私も共に歩む覚悟を決めましょう。
政宗の髪にそっと顔を寄せて。
唇に触れた髪は思っていたより固かった。先程指先で触った時にはもっともっと柔らかいと感じたのですけど。大丈夫、どちらが先を歩もうと、私があなたを見失うことはありません。だって彼がこんな私の名前を。
「幸村」
政宗どの。あなたは、ああ、
―――なんて嬉しそうに私を呼んでくださるのでしょう。
気持ち良さそうに眠っていた政宗が飛び起きたのはそれから半刻も経ってからのこと。寝てしまったのは勿体無かったが、何だか良い夢が見れたとはしゃぐ政宗を幸村は眩しそうに見詰める。
「どのような夢でございましたか?」
「お主といちゃいちゃする夢じゃ」
…真面目に尋ねた自分が馬鹿だった。だが政宗はそんな幸村に全く頓着せず。
「儂にとってはいい夢だぞ。正夢にしてみぬか、幸村?」
そう言いながら幸村の顎を摘んでさも愉快そうに笑う。先程のあどけない寝顔とは比べ物にならない。半分本気で半分冗談ないつものじゃれあい。常であれば、そろそろ幸村が機嫌を損ねるか、徹底的に無視するか、場合によっては叩かれたり殴られたり。
それが今日は。
「…そうですね、それも吝かではございません」
小首を傾げ微笑みながら小さな声で答えた幸村に、完全に見惚れてしまった政宗は肝心の幸村の台詞をうっかり聞き流してしまい。
いやいや、ちょっと待て。今物凄いことを幸村から言われたような気がするのだが。
「も、もう一回!もう一回言うてくれ、幸村!」
「いいえ、一度しか申しませぬ」
「頼む!この通りじゃ、幸村!本当に聞こえなかったのじゃ!」
その声は隣の伊達屋敷で、政宗が走り回った後始末に追われていた小十郎の耳に届き。うちの殿がまた何か悪さを!(主に幸村殿に!)と慌てて駆けつけてきた忠実な家臣が止めに入るまで、二人の押し問答は続いたのだった。
年齢差は無印で、伊達は1のつもりですけどどっちでもいいです…幸は2のような気もします…。
絆されたと気付いた後、踏み込む決意を固める幸と、知らぬ間に幸を陥落させた政宗様。さすがというか何と言うか。
膝枕させたい!という欲望の侭に書かれた話ですが、その膝枕を入れられなかったという罠。今度、今度こそ!
(08/06/11)