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微かに聞こえてくるシャワーの音を確認すると、幸村はおそるおそるといった風に片目を薄く開け、それからごろんと寝返りを打った。ぐちゃぐちゃに丸められたシーツを身体に巻くと政宗の香りがする。もしもこの布団が、地球の何処かに捨てられてしまったとしても、匂いだけで在処を探り当て再び拾ってこれる。そんな馬鹿げた喩えを本気で想像するほど、幸村はいつの間にかすっかりこの匂いに馴染んでしまった。
主のいない寝室で、二人分の汗を含んで湿ったシーツ、そんなものに包まれるだなんて。こんな居心地の悪い場所はちょっと他にないだろうに、そう思いながら幸村は腕を伸ばして枕を抱き寄せる。政宗の家に当たり前のように置かれた、自分の、枕。
「これを使え」そう事も無げに放られて、それ以来、政宗の枕の脇が定位置になった幸村の、枕。でも知らぬうちに用意されたそれこそが、幸村がここにいることを許してくれているような気もするのだ。枕の好みなんて言った覚えはない。だが政宗が用意したのは幸村が普段家で使っているのと同じ蕎麦殻の、少し固めの、簡単に言えば幸村の大好きな枕だった。
枕だけではない、と幸村は思い返すように目を瞑る。政宗の作る朝食の目玉焼きはほっくりぽくぽくで、どろりと黄身が垂れることは決してない(政宗は半熟が好きだというのに)。新発売だと買ってくるお菓子も、面白いぞと貸してくれる漫画も、一緒に出掛ける場所も、手の繋ぎ方もキスのタイミングも、最近の政宗は一度も間違ったことがない。何だかんだで完璧だ。
それなのに自分ときたら。昼の時刻に限りなく近い朝、仕事とか学校とか、世間ではそんな日常に大忙しだというのに、幸村の頭はまだ政宗のことで大わらわなのだ。それが嫌になる。
一体いつから幸村が政宗に恋心を抱くようになったのか、三成辺りにもさんざん聞かれた気がするのだが、自分自身にも既にはっきりしない。「気がついたらこんなことになっておりました」そう答えた時、三成はその整った眉を吊り上げて政宗に詰め寄ったし、兼続は「所謂刷り込みか!」と何が可笑しいのか結構本気で大笑いしていた。
その後幸村は一人で反省したのだ。自分のあの言い草では、三成が「何も知らぬ幸村に貴様はなんという不埒なことを!」と怒ったのも無理はあるまい。三成が言うところの不埒な行為くらい、政宗に教えて貰わずとも幸村だって普通に知っていたし、そもそも自分では刷り込みされたなどと露にも思っていないのに。
なのに政宗の答え方はあっけないものだった。「簡単に刷り込まれるほど、お主は儂のことばかり見ておったのだな」余りに堂々と言われたので思わず頷いてしまい、三成を絶句させた後、自分の肯首の意味に気付いて大いに慌てたものだ。
しかし刷り込みだと言われても何故かもう嫌ではなかったし、政宗の言ったことは強ち間違ってもいないし、それに。幸村はばふばふと枕に顔を埋めてみる。
あの時、政宗は幸村を見てそれは嬉しそうに笑ったのだった。自分がそうさせたのだ。そう思ったら、彼のその笑顔はとても綺麗なものに見えた、少なくとも幸村にとっては。
三成にも兼続にも、ましてや政宗にも言ったことはないのだが、恋に落ちる瞬間、いやもう少し正確に言うのなら、恋に落ちていると実感する瞬間というのはどうしたって、ある。
こんなに大好きなのに。こんなに好きにさせた癖に。
政宗への思いを自覚した時、幸村はずっとそんなことを思っていた。こっちを見てください、近くへ来てくださいそうしてその手を――。今でこそ、それはそれで自然な感情かもしれないと思うのだが、その欲求の先にあるものに思い至って、幸村は間抜けながら自分に吃驚したのだった。こんなに好きになっているなんて思わなかった。政宗どのが悪いのです。私の気持ちをごっそり持っていってしまったのです。
こんなに大好きなのに。こんなに好きにさせた癖に。
結局感情は堂々巡りで、幸村は、こういうのを恋というのでしょうか、と熱の篭った頭でヒトゴトのようにぼんやり考えた。
だから政宗が、自分のことを見て笑ってくれるのは凄く嬉しかった。
あれは手を繋いだ時。政宗は、幸村の顔を覗き込んで「そんな泣きそうな顔をするでない」と笑った。それでも顔を上げられずにいたら思い切り引っ張られ、バランスを崩したところを髪にキスされた。暫くは何が起こったのか理解できずにいた幸村だったが、我に返って髪の毛に残る感触に気付き、混乱して何故か逃げ出そうとしたところを政宗の腕に捕らえられた。どんな顔をして良いか分からず、情けない表情を作る幸村を見て政宗は意地悪そうに笑っていたのだ。
恥ずかしいとは思ったが、それでも幸村は満足だった。この方は、自分を見てくれる。政宗の笑顔如きでこんなにも嬉しくなる自分は、なんて政宗に惚れているんだろう、そう思うのはとても面映いことだったが、楽しいことでもあった。
それが微妙に変化したのはいつからだったか。自分の好きの方がずっとずっと大きいと思っていたのに。
「ゆきむら」
政宗の両手で頬を挟まれて額を触れ合わせて。眸を閉じる一瞬、政宗の指が震えたように感じた。長い口づけの後、政宗が笑う。
でももう彼はこういう時に軽口を叩くような真似はしない。屈託なく声を上げて笑い、幸村を揶揄うようなことはなくなった。代わりにそっと幸村の名を呼ぶ。舌の先でその名を転がすように。飴玉を噛まずに舐めきれば、ご褒美を貰えると信じている子供のように。
ご褒美を与えるのは貴方の役目でしたのに。
政宗から一方的に安心を与えられるという特権を失ってしまったことを幸村は知る。政宗どのも思っていらっしゃるのですね。こんなに大好きなのに、こんなに好きにさせた癖に、と。私の方がずっとずっとあなたのことが好きです。そのようなこと、もう間違っても口に出すことは出来ないのだ。
自分の好きと相手の好きが同じくらいでぴったり釣り合うこと。いつか無邪気に望んだことは、こんなにも切なく痛いことだったなんて。
政宗は少なくとも自分のことに関しては完璧だ。幸村はそう実感する度に怖くなる。自分の好きがあっという間に政宗に抜かされてしまった気がする。
半熟ぎりぎりの目玉焼き、美味しいお菓子。それらは底抜けの幸福の象徴などではなかったのだ。
今でもこんなに胸は痛くて苦しいのに、これ以上の愛情をもしも政宗が抱えているのだとしたら、それはどういうことなんだろう。ちゃんと自分に返せるのだろうか。何より、自分にそれだけの価値があるのだろうか。
このシーツに沁み込んだ政宗の香り、これが今自分を柔らかく包んでくれているように、私がそれだけの何かをあなたに与えてあげられていれば、いいのですけど。
風呂から上がった政宗は、濡れた髪を拭きながら寝室を覗き込んだ。ぐちゃぐちゃに丸められたシーツに包まって、枕を抱きかかえて眠る幸村はなんというか、すごい、と思う。
枕元に腰掛けると、沈んだスプリングの動きで幸村が僅かに目を開けた。「まさむねどの?」腕を伸ばして、まだ目覚めきっていないあどけない笑顔で自分を呼ぶ幸村はすごい、完璧だ。
「まだ寝ておれ」
そう瞼に口づけると、それはもう、うっとり、という言葉の見本のような表情を覗かせて笑う。こんなに穏やかな幸村の顔、自分以外は誰も見たことがないのだ。それを惜しげもなく曝け出す幸村が愛おしくもあるが、それに見合ったものをきちんと自分は返せているか不安にもなる。
昔は自分の方が惚れていると堂々と言えた。それが今ではもう分からない。情けないが時々本気で思う、幸村はこんな儂の一体何処が好きなのじゃ。
せめて、幸村が眠るまで手を握っていよう。それから美味しい飯を作るのだ。幸村が目を覚ましてしまわないうちに、そっと。幸村が自分にくれる愛情に見合うだけのもの、お主の思いと、繋ぐ手や飯如きが釣り合うなんて儂は更々思ってはおらぬ。
だがいつかきちんと見つけるから。どうかそれまで待っていてくれ、幸村。
自分の愛情(笑)がだだ漏れなのに気付かない阿呆二人。
私がめっさ眠いのが前面にでておりまするなあ。
(08/07/04)