夕暮れ、と呼ぶにはまだ早い。太陽は西に傾きながらもまだまだ元気だと主張すべく、まるで親の敵か何かを照らすようにじりじりと肌を焦がす。買い物袋を提げて普段よりややとぼとぼと歩く幸村の耳に、群れる女の子特有の甲高い笑い声が聞こえた。見れば色とりどりの浴衣を身に付けた数名の少女の姿。いつもより少し覚束ない下駄の足元すら誇らしげに歩く姿を見て、やっと気付く。今日は花火大会だ。
「政宗どの、只今戻りました」
宿題を理由に泊まりに来た伊達家の玄関をくぐって、箱アイスの残りを冷凍庫にしまって、幸村は政宗の部屋に急ぐ。扉を開けると、ひんやりとした空気と机の上に広げられたままの宿題が幸村を迎えた。
「幸村、儂、いちご。いちごが良い」
じゃんけんに勝利し、炎天下での買出しを免れた政宗は、既にベッドに寝転がりながら手をひらひらさせて、幸村がアイスを渡しに来るのを待っている。
「せめて身体を起こして食べたら如何です?」
んーとやる気のない返事を返し転がったまま、政宗はクーラーの設定温度を更に下げた。
「外、まだ凄い暑いですね。そういえば」
今日、花火大会だったんですね。その言葉を何故か幸村は喉元で押し留め、甘いアイスで流し込んだ。
浴衣を着て歩いている子達を見ましたよ、一緒に行きませんか。そう言って誘うだけなのに。怖いのだ。幸村に対する普段の政宗の言動を考えれば、万に一つもあり得ないと思うのだが「そんなこと面倒臭い」とばっさり斬られたら。それならば笑って、そうですね、と返すことも出来よう。
幸村が本当に恐れているのは、断られることではない。多分誘えば政宗はひょいひょい付いてくる、いや、実際に付いていくのは自分の方だ。うだるような暑さと、人混みの中で、政宗は嫌な顔一つ見せず幸村に花火を見せようと頑張ってくれる。立ち並ぶ夜店で冷たい氷を買って、足場の悪いところでは「転ぶなよ」と声を掛けて、誰にも気付かれぬように指の先だけをそうっと繋いで、そうしてくたくたになって帰ってくるのだ。なんてマメな恋人。
だが政宗と一緒に花火大会に行くというのはそういうことだ。ただ共に過ごしたいという己の我侭の為に、半端ない労力を政宗に消費させるということだ。
それを当たり前に受け入れられる程の自信も、同じだけのものを返せる程の技量も、自分にはない。そう考えると結局幸村は口を閉ざすしかなく。
「そういえば…クーラー、温度下げ過ぎじゃないですか?」
「………」
政宗がアイスから口を離し、こちらを見た。その目は明らかに「言いたいことがあるならはっきり言え、馬鹿め」と語っており、居た堪れず幸村は逃げるように目を背ける。
たったあれだけの言い澱みが分かってしまう政宗だ。「一緒に出掛けたい」という他愛無い願望の裏にある、もっと大きい自分の我侭を知られる訳にはいかない。
「…もうすぐ出掛けるからな。外は暑いのだろう、今のうちに涼んでおくのじゃ」
出掛ける?幸村は首を傾げる。だって今日は前々から泊まりに来いって政宗どのが仰っていたのですよ。そう聞き返したかったが、幸村の口をついて出たのは「はあ、そうですか」という何とも間抜けな相槌だった。
「何を他人事のように。お主も行くのじゃぞ」
今日は花火大会じゃ。忘れておったのか?そう言って政宗はアイスの棒をゴミ箱に向かって投げた。
浴衣でも着るか?早めに行って場所取りでもするか、それともぶらぶら夜店を見て回るか。政宗の投げたアイスの棒がゴミ箱にことりと落ちる軌道をぼんやり見詰める幸村にそれを聞くのは何故か無神経な気がして、政宗は口を噤んだ。
幸村といると時折そんな気分になる。切り傷に湿布を貼るような間違いを犯しているような。じゃあ傷は何処にあるのかと聞かれると全然分からない。自分の腕かもしれぬし、幸村の足かもしれぬ。
「ここから、見ましょう?」
幸村がおずおずと囁いた。
人混みは大変だし、今日は只でさえいつもよりずっと暑いのだから。
幸村の表情から察するに、多分そんな言い訳をしようとしているのだと思う。やんわりと断りながら、それでいて政宗の提案を丸つぶれにしない方法を幸村は選ぶ。
なあ、暑さとか人混みとか、そうでなくても面倒臭さとか。それを嫌がっておるのは誰じゃ?そう問い詰めたくなるのを政宗は必死に抑えた。お主はそれが嫌だなどと思ってはおらぬじゃろう?儂にとっても勿論そんなものは二の足を踏む理由にすらならぬのに。躊躇する本当の理由は何なのだ、幸村。
それでも幸村の言ったことなら叶えてやりたい。そりゃ何処かに連れて行ってだとか、何かが欲しいだとか、そういう我侭の方が良いに決まっている。だがしかし、会場ではなく此処から花火を見たいというのが幸村の表向きの願いなのだとしたら、それすら叶えてやりたいではないか。自分に出来ることは、それがあたかも幸村の本当の望みであるかのように騙されてやることだけだ。
「そうじゃな、家からの方が二人きりで見れるのう」
一瞬遅れた政宗の返答に、今度は幸村が言葉に詰まる。
ああ、まただ。怒らせたのとは少し違う。現に政宗は此方を見て笑ってはいるし、窓辺に移動しながら自分を手招いているのだけど。間違いなく今自分が感じているのは。
「私は…何故、政宗どのに罪悪感を感じているのでしょうか?」
窓辺に陣取った政宗の横に腰を下ろし、まるで子供のように膝を抱えて。ぽつり呟いた幸村の台詞に、政宗は目を見張った。罪悪感。そうだ、自分が幸村にずっと感じていたのは、それに違いない。
幸村が見当違いの遠慮をしているのを分かっていて、正すでも怒るでもなくそれを無視し続けた自分は。
「嘘を吐かないことが誠実であるということではないからじゃ」
怒らないことと優しさは当然違うし、相手の事情を考えないことと我侭を言うことは全く違う。それを言うなら、信頼していないことと、嫌われるかもと不安に思うことだって全然違うのだ。
「儂はお主にもっと我侭を言って欲しい。儂にどうして欲しいのかちゃんと教えて欲しい。だが本当は」
自分の話になると決まって口を閉ざしてしまう幸村にとって、唯一の人になりたいだけだ。幸村が、我侭すら笑って話せる、そんな立場の。
恋人だからって何もかも把握したいと思うのは間違っている。少なくとも可能なことではない。そう心から思っている筈なのに。
政宗は胡坐を掻いていた足を組み替えると、横にしゃがみこんでいる幸村に身体ごと向き直った。それなのに幸村は、まだ花火が上がるどころか日が沈んですらいない景色から目を離そうともしないのだ。幸村の望みを全て叶えてやったら、此方を向いてくれるのではないか。政宗はずっとずっと長い間そんな風に勝手に思っていた、幸村が何故自分に望みを語ってくれないのかにはあえて目を瞑ったままで。
「でも私は、我侭を言って嫌われたくない。歯止めが利かなくなるのが怖いのです。たとえ政宗どのがどんなにそうして欲しいと仰られても」
一緒に何処かへ行けば、今度は共に何かをしたくなるでしょう?同じ場所に帰りたくなる。離れれば声が聞きたくなるし、止め処なく会いたいと願う。政宗どのが笑って叶えてくれる我侭は何処までですか?
「その境界が私には分からない。ならば、そんな望みはなかったことにすればいい。万が一にでも私のことが負担になったり嫌われたりするのは耐えられないのです」
だから我侭は言いたくありません――我侭かもしれませんが。
そう言い切った後で幸村はふと動きを止めた。「あれ?何だか」おかしいですね、言い掛けた幸村を思わず抱き締める。
「お主は我侭じゃのう」
飛び付かれて抗議の声を上げる幸村が、政宗のその一言で大人しくなった。本当に一番言われたくない言葉なのだろう、我侭という評価はそのまま足枷に変わり得ると無邪気に信じている幸村にとっては。
店先で駄々をこねる子供の我侭とは違うのだと教える為に、政宗は幸村の髪に顔を埋めて何度も繰り返す。幸村は、本当に我侭じゃ。
「自分が嫌われないことが最優先で、儂がお主と何かしたいと望むことなぞ二の次なのだな」
あまりに理不尽で酷い幸村の言い分に何故か込み上げてきた笑いを堪えてそう問えば、おそるおそる幸村が頷く。
ああ、まだ分かっていないのかこの馬鹿は。簡単に叶えられる望みなど我侭なんぞに入るまい。幸村が会いたいと望めば飛んで行くのに。会いたいけどそんな願いは口にせぬと言われたら、もう叶える術はないではないか。儂がどれだけ願ったところで。
そうやってゆっくりと言い含めてやると、ようやく自分が口にしたことの理不尽さに気付いたらしい。幸村が慌てて首を振る。すみません、すみませんと俯いて繰り返す数だけ、嫌われたくないと心から願っていたのだろうと思うと、安心させてやりたいような、いやいっそこのまま泣かせてやろうかとか。だが、やはり嫌われると思われるのは不本意だ、仮定の話であったとしても。
「お主が我侭を言うたら、昌幸殿は叱るじゃろう?」
こくりと小さく頷く幸村を確かめてから聞く。三成や兼続はどうすると思う?分かりません。でも多分怒るのではないでしょうか?
「怒らぬわ。むしろ三成あたりは喜んで叶えてくれるぞ。兼続も余程のことを言わなければ操れるな。ちょろいもんじゃ。でも奴らはお主の望みが分からねばどうすることも出来ぬ」
――では。では、政宗どのはどうなさるのですか?幸村が縋るような目で見上げた。大丈夫じゃ。叶えることよりずっとずっと大事なことを教えてやろう。
「お主が望みを口にせぬことも、叶えさせてくれぬことも、なのに嫌われとうないと我侭を申すことも、儂は全部許してやる」
政宗の台詞を一生懸命に噛み砕いて、それでも幸村が眉を寄せながらそっと尋ねた。
「…私は結構酷いことを申し上げたのですね」
「ああ、酷いな。しかも儂に言われるまで気付かぬなんて更に酷いな」
そこまでしておいて今更嫌いも糞もあるものか。そう言うと幸村の身体がびくりと震え、その後やっと力が抜けた。この手のことには極めて鈍感な馬鹿者に、あと一体どれだけのことを教えてやれば儂は報われるのじゃ。心の裡で独り言ちてはみたが、それが案外嫌な気分ではなかったのは、これぞ幸村と共にいる醍醐味だと思ったからか、それとも単に惚れた弱みか。
政宗の家からは、庭に出ても碌に花火は見れなかった。そよとも吹かない風は、花火の煙を何処にも押し流してはくれず、家々の屋根の隙間から辛うじて覗ける花火は白く霞んでいた。
少し開けた所まで歩けば綺麗に見えたのかもしれない。それでも政宗がその場に座ったままだったのは、じっとり重い空気に動くのが億劫だったし、何より汗だくになりながらも固く繋いだ手を離したくはなかったからだ。
来年は、花火大会、行こうな。そう言おうとしたら幸村に先を越された。
「来年も、此処で花火が見たいです」
夜店で氷が買えなくても、屋根で花火が隠れてしまっても。
二人で、その、一緒に。ええと手も。今日みたいに、手も繋いでくださいますか?じゃなくて、繋ぎたいです。
顔を真っ赤にしてぱくぱくと口を動かす幸村に、一瞬金魚すくいの金魚を思い出し噴出しかけた政宗、いやいやと首を振る。笑っている場合ではなくて。
随分熱心に花火を見ているなと思ってはいたが、まさかそんなことを考えておったとは。ずっと言うタイミングを計っていたのだろう。幸村の手がいつもより汗でべたべたなのも、それと無関係ではあるまい。
「来年じゃなくて、ずっと、くらいは言えぬのか?」
そう考えると急に面映くなり、つい意地悪な質問をしてしまう。でもそれで、ずっと一緒に、と言って貰えれば儲けものだ。
「本当にお願いしたいことは、もっと上手く我侭が言えるようになってから、にします」
…やはりこの馬鹿は自分の口にした言葉の意味の半分も分かっていないに違いない。
幸村から視線を逸らし、空いている手で口を押さえて俯く政宗の横で、やっと言えたと深く息を吐く幸村が、にこにこ笑って花火を見上げていた。
幸村のおねだり下手は結構政宗には切ないだろうなと思ったのですが、幸せそうで良かったです(他人事)
あと、幸は無意識でカチンとくる物言いをしそうだなとも思うのですが、頑張っているみたいで良かったです(完全に他人事)
(08/07/26)