※幸村死後、数年〜十数年



そんなことすっかり忘れていた。真田の忍に手渡された書簡。真田。そんな単語を心の裡で思うことすら久方ぶりだ。
まるで他人事のようにそう思えるくらい、政宗にとって真田も大坂も大分昔のことだった。
「そろそろ、大丈夫かと思って」
あの時、真田に付き従っていた少女は、既に少女ではなかったが、政宗には一目でそれと分かった。そう言って少し怒ったように文を差し出す。
「あんたも!…幸村様を忘れちゃうのかと思った。でも許してあげる。あんたが忘れたのは別のものだったしね」

みんなどうせ忘れられちゃう、みんなみんな。それを覚えていればいいの。あたしはそれだけを覚えていれば、いいの。


幸村。
口の中で小さく呟いたら、たったそれだけのことで咽喉が締め付けられた。日常にかまけて儂はお主を忘れられる。それを悪いと思ったことは一度もない。もうどれだけ好きだったかも思い出せぬ。
それでも書簡の白さが一つしかない目には痛くて堪らないのだ。
「やっと、書き上げたのだな」
広げた書簡は、既に手紙ですらなかった。
ええ、やっと。お待たせいたしました。幸村がそう囁いた気がした。分かっている、幻聴だ。


政宗どの。会いたいです。ずっと。そういえば、二人で川に遊びに行ったのを覚えておいでですか。ねえ政宗どの。奥州の冬は寒う御座いましたね。上田にいらした時にも九度山でもあなたは。ああ、なのに酷く会いたいと思うのです。京に居た時分、私は隣の屋敷の木々すら愛おしかった。今は貴方の陣から流れてくる硝煙の匂いが好きです。貴方の髪を撫でたかと思うと、北から吹く風を閉じ込めてしまいたい。そして貴方と同じ陽を浴びることが出来ることすら嬉しい。愚かだと、お笑いになりますか。政宗どの。


書けるではないか。書き損じを儂が質に取らずとも、誰よりも美しい恋文を、お主は書けるではないか。
いつまでも忘れずに囚われていることが、思いの深さを象徴するものではないと政宗は思っている。それは丁度、文の数が思いの深さと同じではないように。


どうか、お元気で。長年遣ってきた言葉ですのに、もう私に書けるものはこれしか思い付かない。政宗どの。どうか、どうか、お元気で。我侭だとは承知致しておりますが、


手紙の最後は、途中からぐちゃぐちゃに塗り潰されていた。その子供っぽい所作に思わず口元を緩めつつ、消された内容を透かし見た時、政宗は泣いた。
上手く息が吸えぬ、この感覚には覚えがある。
いつだったかそなたが言うたのじゃ、息が苦しいと。慌てて身体を離そうとした政宗に、頭を振りながら幸村は訴えたのだ。助けて、抱いていてください、こうすることが息も出来ぬほど幸せだとは思わなかったのです、と。確かにそうだと思った。だがそれでも構わなかった。こういう言い方が許されるのであれば――空気よりも何よりも儂が欲したのは幸村だったのだ。
「全く…儂も、酷い男に惚れたものじゃ」
そうであれ、と幸村が望むなら、そうしてみせよう。幸せであろうと思う。
だが、深い水の中で互いを探り合うような、空気すら貪り合うような苦痛に似たあの感情は二度と味わえない。幸村、知っておるか。幸せと、それを思い出す不幸はこんなにも似ておるのだ。もうどちらか判らぬほどに。
儂は囚われはせぬ、だが忘れることもないだろう。忘れた振りができるだけだ。仮令、今儂が死んでも、もう二度と儂とそなたは。
その先は考えるな、儂はお主が居ったということを覚えていればそれで良い。
やっとの思いで書簡から目を上げると忍の姿は既になかった。部屋の隅の闇が静かに動いた気がしただけだ。それきり、女忍の姿は見ていない。


我侭だとは重々承知致しておりますが、政宗どの、どうぞ―――お幸せに。さようなら。幸村




実はこんな続きが!ぎゃぼん!
(08/08/11)