ちょっとしたわくわくと共に幕を開けたものの、結局はその長さと暑さにうんざりしていた夏休みがようやく終わった新学期。幸村が持ってきた宿題を見て政宗は息を呑んだ。まあ、毎年のことなのだけど。
幸村はそこそこに真面目な部類に入ると思う。授業中の態度を見ても、明らかにやる気がなかったり、いっそ堂々と居眠りしている政宗なんかとは比べ物にならない(時々かくかくと舟を漕いでいることもあるが)。普段は宿題を忘れることは殆どないし、試験前は一生懸命勉強だってしているのだ、当たり前のことだが。
そんな幸村ではあるが、何故か夏休みの宿題だけは絶対にしないのである。いや、この言い方は語弊がある。何故か素直にやらないのである、と言ったほうが良いか。
「でも父が夏休みの宿題は正に先生方との謀略戦であると」幼い頃からそう教えられてきたのだろう。そういえば政宗が始めて幸村に夏休みの宿題を写させたのは、小学校一年生の時。幸村は人生において一度も夏休みの宿題を自力でやったことがないと言える。
梵天丸の答えだけを丸写しにして(計算の途中経過すら写していなかった)満足げにこちらを振り返る弁丸に、梵天丸は正直呆れたものだった。
答えだけ写してそれで教師にばれないとでも思っておるのか、馬鹿め。夏休みに入ってから一度も開かれたことのない問題集は新品同様であるし、大体非常に言い難いことではあるが弁丸の頭の出来で全問正解は有り得ぬじゃろう(自分の答えが間違っているなんてそれこそ有り得ないのだし)。
だが「なつやすみのしゅくだいですのに、さんじかんでおわりました!たいしたことないです!」と嬉しそうに叫ぶ弁丸にそうも言えず、担任教師にバレたらバレたで、その時は弁丸に宿題を写させたという罰で儂も一緒に叱られてやればいいかと思った梵天丸である。
しかし翌日の新学期。弁丸の宿題は無事受理され、かつ数日の後に「よくできました」のシールと共に返却されてきた。いやいや、いくら何でもそれはなしじゃろう。あの教師め、ちゃんとチェックしたのか?
「べんまるの『よくできましたしーる』はうさぎさんでした!ぼんてんまるどのはなんでしたか?」
だが、そう駆け寄ってくる弁丸の胸に抱えられた宿題の問題集を一目見て梵天丸は仰天した。
「…弁丸、その宿題、いつそんなに汚れたのだ?」
どう見てもおかしい。数日前は新品と見まごうばかりの綺麗さだったのだ。それはもう、うっかりすると指を切ってしまいそうな程。
「べんまるはよごしてなどおりませぬ!」と怒る弁丸の腕から問題集を取り上げ、ぱらぱらと中を捲る。
弁丸の筆跡そのままに加えられた計算式、程よい確率で間違えた答え。ページの隅に小さくなされた落書きは、宿題に飽きてちょっと手慰みに描いてみました感たっぷりである。ご丁寧に本の隙間に挟まった小さなお菓子の欠片。しかし儂の宿題を写した時にはお主は菓子など食っておらんかったではないか!
「弁丸、これは一体どういうことじゃ?」
「ちちうえが、やってくださいました!べんまるのしゅくだいを、もっとかっこよくしてくれるとおっしゃって!」
普通は息子が宿題を丸写ししたことを怒るべきであって、いかに真面目に取り組んだかの偽装に手を貸す親が何処に居る。いや、だがここにしっかりいるのである。恐らくは「こんなのではすぐばれてしまうわい。弁丸ちょっとわしに貸してみろ」とか何とか言って、いそいそと弁丸の宿題に手を加えたのだろう。
昌幸の会心の笑みが頭に浮かび、思わず大きく首を振る梵天丸である。
弁丸の人生初の夏休みの宿題はそんな感じで執り行われ、それは今でも変わらない。
あれは高校受験を控えた中三の夏。さすがに今年くらいは自力で宿題をしたらどうだ?とさり気無く忠告した政宗に幸村はこう答えた。
「ええ、私もそう思いましたが、父が既に八月末に有休をとったとはしゃいでいて…」
もう聞かずとも分かる。昌幸のその有休は惜しげもなく幸村の偽装工作に費やされるのである。「兄上はご自分で宿題をなさるので父は少々拗ねているのです」だから私の宿題で遊ばせてあげなくては。
幸村が心からそう思っているのか、それとも変わり者の父を持ってこの時ばかりは運が良いと思っているのかは誰にも分からない。
それはそれとしても、昌幸の宿題の偽装の腕は確かである。どのくらいかというと、色々マニアな政宗の心を鷲掴みにするくらいだ。だから政宗は新学期に幸村の宿題にお目にかかれるのを実はすごく楽しみにもしている。
堅実な正誤率は言わずもがな、わざと間違えたことなど見る人が見れば分かってしまうのであるが、さすがに昌幸に抜かりはない。幸村の成績をしっかり把握している政宗ですら思わず一本取られたと言いたくなるような出来で、担任教師の目を欺くなど朝飯前である。昌幸がやったと分かっていても「ほら、また引っ掛かりおって。前の試験の時にあれだけ教えただろう?」と間違えた箇所を指差して幸村のミスを指摘したくなるようなリアリティに溢れているのだ。問題集へのウェザリングもお手の物。
政宗同様多趣味な上に色々こだわる兼続などは、夏休み明けの新学期に、ここ数年はデジカメ持参である。
「山犬!今年も幸村の、いや昌幸殿の作品を見させて貰うぞ!」
そう言って二人で膝を突き合わせて昌幸の技術に心震わせるのだ。
「兼続、ここを見よ!この紙のふやけた感じじゃ!」
「おお!これは暑さが一層厳しかった夏休みの半ば、紙が汗によりふやけた様を表現したのだな!」
「こちらと比べてみるのじゃ。ここは撮影ポイントだぞ、兼続」
「むう。これは…私には違いが分からぬのだが…」
「貴様の目は節穴か!こちらは汗、こちらはうっかり冷たい飲み物の雫を垂らしてしまった跡じゃ!」
そう叫ぶとおもむろに宿題を覗き込む二人。息を詰めて丹念に眺め回すと次の瞬間には「さすが昌幸殿!」「神!」と叫びながら見たこともないような笑顔で何故か握手を交わしている。
「昌幸殿の技術はさておき、宿題は自分の力で…」
やるものだぞ、と続けようとした三成に、政宗兼続双方から罵声が飛んだ。
「黙れ三成!この昌幸のゴッドハンドの前に今更そのような正論など無意味よ!」
「そうだぞ、三成!そなたにはこの幸村の宿題の素晴らしさが分からんのだ、この不義の狐め!」
ちょっと口出ししてしまったばかりに心ない言葉を友から投げつけられ、心底落ち込む三成を尻目に「筆圧が強くて芯が折れてしまったことを巧みに表現しているこの箇所はどうだ」だの「問題集の右上に施されたページが折れ曲がっている跡は年々リアルになっていく」だの馬鹿げた評論が交わされ、間断なくフラッシュが焚かれるのである。
「頼む、山犬!その宿題を今年こそ私に譲ってくれ!」
「断る!幸村の宿題は儂のものじゃ!写真に撮らせてやっているだけでも有難く思え!」
返却された幸村の宿題を毎年譲り受けている政宗。いつもならここで目も当てられない罵詈雑言の応酬が始まるが、今日はそれどころではないらしい。
「ん?ここの角は机から落とした様を再現したものか?」「なんと素晴らしい!幸村の宿題は何度見ても新しい発見があるな、山犬!」「そうじゃな、兼続!」醜く言い争うにしても、いっそ気持ち悪いくらい意気投合するにしても、甚だしくやかましいことに変わりはないのだが。
「あの、そろそろ宿題を提出したいのですが」幸村が遠慮がちに声をかけると二人はあっさり宿題を手放した。
「やはり宿題の本分は提出されることにあるのでな!さあ幸村、胸を張って宿題を出しに行け!」
「うむ、お主の父親の技術、今こそ天下に示せ!」
言われなくても普通に出しますよ、と心の中でこっそり呟きながら幸村は宿題を提出しに行く。
毎年の恒例行事、だがこの光景を見ると幸村はいつも自分の家の押入れの片隅に眠っているプラモを思い出す。昌幸が手塩にかけて制作したプラモは、もしかしたらかなりの値でこの二人に売れるのではないかとこっそり思うのだが、未だ試したことはない。
一方幸村がそんな黒いことを考えているなんて露にも思っていない政宗と兼続は、もう来年の宿題談義に花を咲かせている。
「もう儂、来年が待ち遠しくて堪らぬわ。昌幸は一体どんな技で我らを魅せてくれるかのう」
「私も全く同感だ、山犬。夏休みの宿題が年に五回くらいあれば良いのだがな」
あー、帰りにプラモでも買って帰るかな、と嬉しそうに話す二人を見ながら「来年は順調に行けば高校を卒業しているだろうが、お前らは一体いつまで夏休みの宿題をやり続けるつもりだ」と突っ込んで良いかどうか、真剣に頭を抱える三成だった。
プラモを作らせたら昌幸パパの腕前はすごい筈!ならば宿題の偽装工作も一流だ!と思っただけで、もうダテサナなのか何なのか。
へぇ、こいつらこんなに阿呆なのにもう高校卒業なんだと思った次第。
ウェザリングとは、わざと表面を汚した塗装をしてリアルに見せる技術のことで…こんなことを真顔で説明している自分にしょんぼりだ。
(08/09/01)