たかだかこれっぽっちしか生きていない自分の人生にだって、既に取り返しのつかぬ事や、思い出すだけで後悔の念に嵌り込んでしまう出来事はある。むしろ、その出来事を思い出す時に、どんな感情を伴えば最適なのかが未だに分からないから後悔は引き摺られるのだろうし、これしきのことを人生の大失敗のように大仰に語ることこそが、後から思い返して居た堪れなくなる要因でもあるというのに、それを断ち切る術はない。
そもそも自分と政宗の関係は、そのはじまりからおかしかったのだから。
 
 
 
あからさまな好意を寄せてくる政宗を、素知らぬ顔で袖にした幸村が感じたのは、底意地の悪い愉悦で、無知でも羞恥でも戸惑いでもなかった。
幸村が困っているではないか、そう言って自分を庇うように政宗を睨みつけた三成のことを思い出す。
そうだ。自分の気持ちを量りかねて、躊躇と混乱を抱えて逃げ惑うなんてことは、三成のような純粋な人にこそ似合うもので、自分が幾らそのように振舞ったところで、ぎこちなさを完全に拭い去ることは出来ぬのだと思う。政宗が自分への思いを言葉にした時、自分は口元の笑みすら消さずに首を傾げてみせたのだから。
だからといってこれ以上踏み込むのは面倒臭い、勝手に良い様に解釈してくれないだろうか。というのが幸村の本音だった。そして、政宗のことを好ましく思っていたことは、少なくとも嘘ではなかった。
 
 
 
「いい加減にしろ、政宗。幸村をそんなに困らせたいのか」
 
「何を言う、困ってなどおるか。のう幸村?」
 
そう言って三成の脇をすり抜け幸村の顔を無遠慮に見上げた政宗の隻眼には、想い人に寄せる切ない恋情など何処にも宿っていなかった。只々挑発するような眼光を浮かべ、政宗は小声で囁く――時間なら、幾らでも遣ろう。
 
「ねじ伏せて切り刻んで、散々に試すが良い。そうした後もお主が儂から離れられねば、儂の勝ちじゃ」
 
恐らくは、恋に落ちたのはこの瞬間だった。
 
「お主がそうやって素知らぬ振りをし続けるなら、儂は言い続けてやるぞ」
 
仔犬か何かのようにいつもきゃんきゃん好きだと吠えながら後を付いて回っていた男は、実は無害でも無邪気でもなかったのだ。悔しいと思った。何食わぬ顔をして、だが実はそんな目で、じっと自分の背中を追っていたという訳か。しかもご丁寧に此方の手札が全然足りていないと御忠告までしてくださる。
腹の底から込み上げてきた身震いを押し隠して、幸村は丁重に微笑んでみせた。三成にはいつも通りの表情にしか映るまい――そう、その通り、まこと仰る通りにございます。どうぞお好きなように、私めを篭絡してみせてくださいませ――だが、政宗なら。幸村の宣戦布告を、政宗ならいとも容易く見抜くだろうと思った。
 
 
 
「政宗!」
 
見かねた三成が苛々を隠そうともせず叫ぶ。
 
「馬鹿め。貴様が何を思っているかは知らぬが、幸村がそんなタマか」
そんな盆暗をこの独眼竜が欲する訳がなかろう。
 
到底誉め言葉には聞こえないそれを、幸村はいたく光栄な心持ちで受け取った。誰も居らぬところでその言葉を聞いてみたかった、本当はそう思ってもいたのだが。
 
 
 
 
 
余人には与り知らぬであろうこんな出来事があったものの、だからといって表面上は何が変わった訳でもなく、実に平穏な日々が過ぎた。幸村の周りで睦言を繰り返す政宗と、何も知らぬ顔で通り過ぎたり困った笑みで曖昧に頷く幸村。
こうやって絆されていくのだろう。
己の心が一層解けて、いつしか夜毎、一目会う為だけに通ってくるようになった政宗を待ち侘びる様子すら他人事のように楽しんで、幸村はそう考えていた。絆されて、いつしか心の底から政宗を信じることになるのだろうか。なるのだろうか、も何も。
幸村の宣戦布告は端から政宗に破られる為だけに存在しており、それがあの瞬間自分の描いたシナリオの筈だった。
 
 
 
「幸村は愛いのう」
 
そう語る政宗に返す言葉を持たぬと気付いたのはいつ頃だったか。変わらず彼が寄越す睦言には、しかし、幸村の台詞が入る余地など何処にもなかった。
好きだ、愛している、ではお主はどうじゃ?そう聞かれるのを待って待って、それでも彼はそう尋ねてはくれなかった。無頓着に切られた髪を美しいと撫でてはくれるが、その掌が別のところに触れることはない。着物に焚かれた香の匂いも、指先に残る煙草の匂いにもすっかり慣れてしまったというのに、自分は政宗がこっそり纏っている彼自身の香りどころか体温さえ知らぬ。
離れられねば政宗の勝ちだと、そう言ったのは彼本人ではなかったか。離れぬどころか踏み込んでも来ぬ。いつになれば彼は自分を打ちのめしてくれるのか。
あんなこと、簡単に承知すべきではなかったのだ。
 
「ねじ伏せて切り刻んで、散々に試すが良い」
 
ずっと離れないで、いつまでも好きでいて。そんな言葉の頼りなさを自分は知っている。そして、そういった愚かな願いこそが人同士を繋ぎとめていることも。
確かに自分は政宗を試したのだ。それ程までに言うのであれば信じさせてくれ、と願った。取り返しのつかぬ事をしてしまった。自分が感じたのは悔しさなどではない。幸村の疑心を全て呑み込んでみせる為にあっさりと全身を捧げようとする政宗の態度に、心震わせただけであったのに。本当は、あの時掻き抱いてでも愛おしいと伝えるべきだった。
恐らく、政宗は本当に幸村にねじ伏せられ、切り刻まれることを望んでいるのだ。
 
政宗の指を髪に受けながら耐え切れず顔を覆ったら、声が上から降ってきた。
 
「お主が、望んだことじゃ」
 
その通り、政宗を支配することを望んだのは自分だ。ねじ伏せられながらも無邪気な振りをする政宗が見たいと望んだのは自分だ、でも、もう。
 
「そうやって涙に暮れる姿も美しいのう、幸村?」
 
何もかも見透かしているくせに、それでも幸村の前に跪く政宗の声は、大層優しいのだ。ああ、完敗だ。
腕を伸ばして政宗の裾を縋るように手にとった。顔を上げて政宗の眸をはじめて見上げてみたら、いつぞやは上手く隠した筈の剥き出しの恋情に混じって子供のような動揺が見て取れる。突如逆転したこの関係に政宗も戸惑っているのは明白で、それでも彼は果敢にも幸村の頬に手を伸ばすと、その涙を不器用に拭いながら小さく笑った。
きっと、この人は、そんな顔を自分に見せるのをずっと我慢していたのだろう。
 
 
 
幸村が政宗に抱かれても良いと思ったのは、この時だった。

 

 

 

支配する側とされる側で決定していたものが逆転するのは快感じゃないかなーと思ったんですが、自信ないです。
(08/12/09)