[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 

 

 

神無月の足音が聞こえ出した早秋の奥州を早馬が駆けた。
 
「殿、関ヶ原よりの馬が戻りまして」
 
傍らの男がそう耳打ちするのを最後まで聞かず、陣屋の最奥に腰掛けていた隻眼の男が立ち上がる。
 
「付かなんだか」
 
陣を張っているとは言え敵の姿は周囲には見えず。それもその筈、ここは最上と上杉が相争っている山形城より数里も離れたところなのだ。それでも人の出入りは慌しく、風に乗って流れてくるのは硝煙の香。
殿、と呼ばれた男を中心に控えていた家臣らが一斉に振り返る。そこには馬から転がり落ちるように降りた斥候が平伏していた。
 
「片は、付かなんだのであろう?」
 
斥候が大きく一つ頷くのを確かめ、男は――奥州王・伊達政宗は膝を打って叫んだ。
 
「撤退じゃ!急ぎ上杉に使者を送る。いよいよ天がこの儂の下に転がり込むのだ!」

 

 

一、関ヶ原

 

 

僅かに時は遡って、慶長五年九月十四日深夜。
 
石田三成率いる西軍は、大坂入りをちらつかせ行軍する東軍を追うように大垣城を出立した。両軍とも激しい雨の中での進軍であった。
 
しかし大坂入りは、大垣城から三成を引き摺り出す為の家康の陽動である。
 
両軍は、そのまま関ヶ原に布陣。
東軍の先鋒を任された福島正則は、変わらず三成にあからさまな憎悪を抱き、それを単純にも己の士気に変えている。小早川秀秋らへの内応の手筈も整った。秀忠率いる本隊の到着が遅れてはいるが、今正に時が動いていると家康は判断を下す。
 
決して楽に勝てる戦ではないだろうが、ここまでは彼が練り上げた計画と比べて大過なく、万に一つも負けなどあろう筈もない。
いや、唯一つ家康の心に憂いを落としているものが、雨である。少量であれば良い。だがこれで幾日も足止めされることになれば、戦況はどう転ぶか分からぬ。
 
野戦の天才と呼ばれた彼も所詮は人に過ぎぬ。天候など操れよう筈もない。
家康は、厚い雲の向こうに上るであろう陽を拝むかのように空を見上げた。
 
 
 
 
 
家康の願いは届かなかった。つまり、雨は止まなかったのである。
 
止まないだけであればまだ幾らでも方法はあったろう。だが、頼みの綱であった火縄がほぼ使えぬ状態であったことは、東軍にとって、そして西軍にも決定的な攻撃手段が断たれたこととと同義であった。
それでも福島正則・井伊直政両隊は、前方の宇喜多秀家の備えへの攻撃を繰り返したが、視界も足場も悪い豪雨の中とあっては小競り合いにならざるを得ず、一進一退を繰り返すのみ。
このままでは埒が明かぬと判断した家康が、陣を前に出し味方を鼓舞しようとしたその矢先、思いもかけぬことが起こった。更に雨脚が強まったのである。
天が抜けたかと思われる程の雨量は、更に視界を塞ぎ、馬の、人の足をも止めることになった。
 
 
 
関ヶ原の役、開始から僅か二刻弱。東軍と西軍の天下分け目の戦は、こうして昼を待たずして終わったのである。
 
 
 
 
 
勿論、明くる日も陣は解かれることなく、関ヶ原には人が蠢いていた。その緩慢な人々の動きは、前夜に夜襲等が全く無かったことを物語っており、事実、止まぬ雨の所為で夜襲はおろか小競り合いすら不可能な状況となっていた。
 
こうなってしまっては為すべき事は一つ、守りに徹するのみである。
各々の陣は、その周囲に、より強固な柵を張り巡らし、内に篭っている。
 
寄せ集めと言っても過言ではない両軍にとって、長丁場での睨み合いは自滅の原因にもなりかねない。
一旦防御に傾きかけた場の流れは、最早簡単に覆ることはないだろう。戦で叩き上げた剛の者とは決して言えぬ三成ではあったが、彼が少なくとも石田隊をきっちり纏め上げていることは予測済みだったし、その傍らには軍略家として名を馳せた島左近が控えている。そして、故太閤に「百万の大軍を指揮させてみたい」とまで言わしめた大谷吉継は、此方の内応の手筈を心得ているかのような場所に陣を張ったまま動かぬ。一方、己が江戸から呼び寄せた本隊は、未だ到着していないのだ。
 
それでもこの雨が夕刻までに上がれば。
 
かつて織田と組んでいた同盟は名ばかりのもので、それは隷属に過ぎなかった。信長はそれでも礼を尽くしてはくれたが、家康にとっては今川が織田に替わっただけのことだった。
長い時をかけてやっと天の存在が分かり始めた時には、既に秀吉という才が居た。ああも鮮やかに天を戴く人物が居るのだと感心しながらも己の分を弁え、長い間そうやって耐えてきたのだ。
 
それを雨如きで。いや違う。
雨如き、そう軽んじられるものが常に様々なものを決定してきたことを家康は知っている。
 
豪雨はやがて身をさすような秋霖に変わり、三日三晩関ヶ原の地に静かに降り注いだ。
関ヶ原に陣を構えて四日目の朝。兜から滴り落ちる雨粒を一睨みすると、家康は陣を畳み赤坂まで撤退することを告げた。
 
 
 
 
 
「家康が動いただと?」
 
端正な眉を吊り上げて、まず不機嫌そうに聞き返したのは石田三成だった。
 
「ま、読み通りですな。味方と言えど腹の中は読めない連中と組んでるんだ、遅かったくらいですよ」
 
神経質そうな指先で落ち着きなく鉄扇を弄ぶ主の頭の中は、左近には手に取るように分かる。恐らく三成は、家康の持つ展望の半分も分かってはいまい。天下分け目の大勝負ですごすご引き返す家康に単純な怒りを燃やしているのだろう。
 
「戦機は去った、ということだ。石田治部」
 
静かに呟く大谷吉継の声に、三成ははっとしたように顔を上げた。
 
三成は決して武将ではないと左近は思っている。戦の流れを読み、半ば本能に近い判断で命の捨て所を決める。これが出来ぬ主だと。
だがそれで良いではないか。軍略は己が幾らでも披露しよう。
 
「左近、家康が完全に撤退するのはいつだと思う?そして何処まで引くか。三河か遠江か、あるいは江戸か。仮に明日徳川本隊が到着したら奴はどう出る?」
 
三成の最終目的は家康と戦うことではない。あくまで豊臣の世を守ること、である。背を見せた家康に対する怒りは既に三成の中から消えている。
今豊臣に必要なのは正しい戦の収束の仕方で、それは恐らく武将でも軍略家でもない、政を司る治部としての石田三成にしか出来ぬ。それを彼はきちんと自覚しているのだ。
 
禄の多寡ではない。だから俺はこの人に仕えようと思ったんですよ。
 
左近に出来ることは、三成にとって最高の形でこの戦を終わらせることのみだ。

 

 

 

説明、難しいです…。
でも関ヶ原の短期合戦は、各地の大名達にとって計算外のことでしょうから、ね。

(09/04/07)