十、竜の掌
「天を握ればその広さが分かると儂は思うておった」
天守の手摺に身を預けて政宗は愉快そうに笑う。天に焦がれた竜は、今、静かに地を見下ろしている。
「お主の為に天を取ったのだと、共に天に昇れたのだと」
その天から共に見下ろす地はどれほど美しいだろうと。
だがあの時、仮に徳川に上田諸共幸村を攻め潰されていたら、昌幸が伊達に降ることを決めねば。仮令幸村が佐和山に篭る三成の許に駆けつけたとしても。
「それでも儂は天を目指した。幸村。お前の為などではなかった。儂は儂の野望の為にしか生きられぬ」
そう思い至って尚、人が作りし天守から臨む地上は、余りに限りなく、美しい。
伊達の力及ばぬ九州には未だ不穏な噂は尽きぬ。太閤の死以降、二転三転する天の性質を知ってしまった者も多い。乱世を生き抜き、いや未だ戦国の世を生きる雄達に、征夷大将軍の肩書きが一体何になろう。
「儂は竜などではない」
傍らで畏まったまま己の言葉に耳を傾ける幸村の掌を、政宗は、眼下の景色から目を逸らすことなく静かに取った。
右手に握った武器は、己と愛しいものたちを守る為。杷が、引き金がこの手にしっくり馴染むことこそ政宗の誇りだ。だが実際、片手に武器を取ってしまえば、もう片方の手では幸村を守ることすら出来ぬ。
せいぜいがこうして互いの存在を確かめ合い、体温を分かち合うくらいだ。
「昇るべき場所は天ではのうて、そして儂は唯の人であった。それだけのことじゃ」
そう言って口の端を歪めた政宗を一度だけ見遣って、それから幸村は政宗の視線の先を追うように振り返る。
政宗はいつも幸村なんかには想像も付かない難しいことを考え、それを噛み砕いて幸村に示してみせる。その政宗が、まるで今は幼子のようだと思った。
私達は片手間に守り守られるような存在にはなり得なかった、ただそれだけ。
自分達以外誰も与り知らぬあの誓いは、決して破られることはないのだろう。
「存じ上げておりました。政宗様がこの手を取ってくださったその時から」
遠くに見える海が光を反射し、目に痛いほど煌いている。
この地で生まれた竜は、竜にはあらざる人の足でやはりこの地に立ち続けるのだろう。
豊臣も徳川も、かつての武田、戦いの果てに滅んでいった家々、そして軽々しく思い出すにはまだ懐かしすぎる人達。
死んでしまったら何も残せない、それは真実だ。だが彼らが確かに生きていたという記憶を持ち続けられる自分を誇ることは出来る。そうやって思い続けていくのは至極困難なことだろうけど、彼らの肉と思いが溶け合った地上で、政宗がこの手を取ってくれるのだとしたら。
今は伊達に膝を屈したかつての徳川の家臣らにも、旧主を未だ慕う佐和山の民達にも、天下人となった政宗に相変わらず突っかかってくる兼続にも、そして自分の敬愛する父にも兄にも。
己の誇りを守ることを教えてくれる手がきっと無数にあったのだ――それは恐らく、三成にだって。
「だからこそ愛おしいと思うのです」
そう思える自分が、数多の者が支えてくれるこの身体が、その為に武器を取るこの手が、そして何よりあなたが。
「そうか。儂の取った天をお主に呉れてやるだとか、そんな格好良いことも言ってやろうかと思ったがのう」
「そのようなもの頂いても困ります」
「そう言うじゃろうと思うたわ。儂もそんな気は更々ないしな。変わりに儂を呉れてやる」
いつだったか、悲壮な覚悟を秘めながらそんな話を二人でした。あの時は互いに弓引くことまで考え、本気で彼のことは忘れまいと思ったのだが、今なら分かる。
共に生きることを願う方がずっと、覚悟という言葉に相応しい。
「天下人でも竜でもない政宗は、そのままお主のものじゃ」
それでも――天守から見下ろす地上の果てにきらきらと光る波は、まるで海を泳ぐ竜の鱗のように見えるのだ。
名残を惜しむようにそこから視線を外し、幸村は隣に立つ政宗の横顔をそっと見詰めた。それには気付いているであろうに、政宗はじっと前を見据えたまま動かない。
だが自分の手を握る政宗の指先に僅かに力が篭められたように思えて、幸村は静かに微笑むと政宗の掌を両手でそっと包んだ。
(完)
終わりました…!もー!もー戦はしばらく書かねえ!
最後だけ辛うじて滑り込みダテサナ。もう何が何だか。
(09/07/16)