新居への道順を知っているのは政宗と幸村だけだったから、二台の車は仲良さげに前後に連なっての出発となった。
急発進に急加速、更には急停止まで容赦なく執り行う兼続に、覚悟は出来たと大口を叩いたものの、すっかり生きた心地がしない三成。
目的地はそう遠くない場所とは聞いているし、高々車で十分少々だ、と己を鼓舞していたものの、そんな甘い思惑が通用する兼続ではなかった。
 
「山犬の後ろを走るのはどうも性に合わんな!ふむ!義が私にこちらに進めと命じる!」
 
そんな自分勝手な主張を叫ぶと、兼続は全く予期せぬ横道に向かって勢い良くハンドルを切ってしまったのである。バックミラーで兼続の車を万感込めて確認しつつ前方を走っていた幸村と政宗も驚いたが、同乗していた三成はもっと驚いた。(左近は、荷物と無理な姿勢の所為で外が見れないから、自分の置かれた状況すら一瞬分からなかった)
 
「ばっ!馬鹿!馬鹿か貴様!道も分からぬのに自分から迷う奴が居るか!」
「案ずるな!私の義に遍く照らせば、進むべき道など自ずと知れようというもの!」
「いいか、それは妄想だ!そうでなかったら義が命じる声など幻聴だ!幻聴が聞こえたら運転はするなと言われただろう!」
「殿ー、そんなこと言ってる場合じゃないですよ」
 
こうして罵り合っていても兼続がハンドルを握っている事態は変わらないのだし、車は快適なスピードで住宅街の路地を元気に走行中である。
「こちらから義の臭いがするぞ!」目暗滅法にハンドルを切る兼続に、悔しいが左近の言うことにも一理あると三成は思い直す。
どうせ何を言っても聞かないのだ、せめて迷うことだけは避けようと、三成は口を噤み、その聡明な頭でもって道順を覚えることに全エネルギーを投入し始めた。
 
「ん?この道は行き止まりだったか!全く不義だな!このような道が町内にあることに私は遺憾の意を禁じ得ない!」
 
だが、完全に路地に迷い込み、兼続が物凄いスピードで車をバックさせたところから三成の記憶は曖昧になり出した。
 
「塀の上を我が物顔で通行途中のそこの猫殿!塀の上は結構だが、道路に飛び出すなどと言う愚を犯すなよ?!猫といえど交通法規は守られてしかるべきである!」
 
車の窓をわざわざ開け放して猫にまで義を説く兼続に、ついに三成が「さっきは右に曲がったのだったか?いや、道なりか?」とぼやき出す。
 
「このような狭い道に車を駐車しておくなど、不義の所業!あの駐車禁止の標識が見えぬとみえる!さあ皆であの車を笑ってやろう!」
 
何事かある毎に逐一止まって一言感想を述べずにはいられない兼続こそが、こんな狭い道で渋滞を引き起こしている不義の徒なのであるが、後方から鳴らされるクラクションについつい頭を下げていた三成の記憶は、遂にここで音を上げた。
 
 
 
結局、三成の必死の抵抗も空しく、車はそのまま一時間強も迷い続け走り続け、やっとこそ目的地に到着したのである。
携帯があってこんなに良かったと思ったことはないと青い顔でぼやく三成に、幸村は、ぐったりした左近を後部座席から引き摺り出しながら生還を喜ぶ意を伝えることしか出来なかった。
さすがの政宗も「本当に無事で何よりじゃったわ…」と心底ほっとした顔を見せる。政宗が三成に優しい言葉をかけたのは、後にも先にもこの時だけだ。
 
 
 
 
 
勿論、話がそれで終わればいい笑い話にもなるのだが(これしきのこと笑い話に出来なければ兼続と付き合ってなどいられない)、その後もっと激しい混沌がぽっかりと口を開けて待っていた。
 
兼続のやや自由に過ぎる運転に、三成は精神的にも肉体的にも限界だったのだろう。新居の真新しいトイレは早速彼によって長い間占拠され続けた。
「とのーだいじょぶですかー」と一応声を掛ける左近ですら、そのトイレの前で転がったまま動けなかったのだから、兼続の運転の凄まじさ、推して知るべし、である。
せっせと荷物を運び込む幸村にとってはこれ以上ないくらい邪魔な主従ではあったが、自分が見捨てたも同然の彼らにこれ以上厳しいことも言えず、搬入には予想以上の時間がかかってしまったのだ。そればかりではない。
「この軟弱者め!」と涼しい顔で三成を責めていた兼続が、目を離した隙に姿を消してしまったのである。
 
「ば兼続は何処じゃ」
「さあ、先程まで引越し前の準備運動だと仰って、トイレの前でラジオ体操第二などを歌付きでなさっておりましたが」
 
何を血迷ったか兼続は、政宗と幸村の新居の隣人を訪ねていた。
色々とごたつく前にと幸村が既に済ませていた引越しの挨拶を、改めてする気満々である。保護者気取りもここまでくれば心底いい迷惑だ。
 
 
 
「これより御宅の隣に、私の友人と不義の山犬が入居することと相成った!」
 
可哀想なのはドアをぶち破らんばかりに叩かれ、外に引き摺り出された隣人である。
何かのセールスにしては様子が変だし、引越しの挨拶にしては勢いがあり過ぎる。訝しげに生返事をしていたものの、一向に退散する気配すらない。声高に幸村のことを頼むと叫んだ後は政宗の不義を罵り始め、遂に玄関先で土下座まで持ち出してきた。
 
「私の義に免じて山犬の不義は許してやってくれ!この通りだ!」
「ここはペット禁止なのですが、犬ですか?」
「そう、正に奴は不義の山犬!山犬の王だ!」
 
兼続の怒号を辿って政宗が駆けつけたのは、憐れな隣人にとっても政宗にとっても幸いだった。
実に常識ある隣人は、兼続が叫び散らすところの山犬が、此度隣に引越してきた政宗の渾名のようなものであるとおぼろげながらも理解を示し、政宗もそんな隣人に曖昧な笑みを浮かべながら兼続の首根っこを引っ掴んで退散した。
「もうご挨拶には伺ったのですけど…明日辺りまた菓子折りでも持ってお詫びに行かなければいけませんなあ」段ボールから荷物を取り出しながら幸村が大きな溜息を吐いた。
 
 
 
そんな事件を経てやっと三成が復活し、時同じくしてようやく立ち上がることが出来るようになった左近も交えて未だ荷物運びをしていた幸村だったが(一応、政宗だって働いてはいた)、兼続程でないにしろ、三成も余り使い物にならなかった。
 
段ボールには「台所用品」「衣類」などと覚書がしてあったのだが、家のことなど何もしたことがないであろう三成であるから、段ボールを抱えた左近の後を追って右往左往するばかり。結局幸村は「台所用品は台所に運んでください」「テレビは重いですから気をつけてくださいね」と丁寧に過ぎる、また基本的な指示をいちいち三成に出さねばならなかった。
隣人への挨拶から連れ戻されて少しは大人しくなることを期待されていた兼続だが、車の脇で段ボールを一つずつ開け「このようなもの新生活には不要であろう、不義!」と勝手な選別作業を繰り返している。
 
「ほほう、この書物は私も読みたいと思っていたのだ!山犬には過ぎたもの故、これは私が頂いていくぞ!」
 
そんなことを繰り返す兼続の鞄はもうぱんぱんだ。こっそり幸村が「良いのですか?」と尋ねたが、政宗は渋面を作ったまま「あれで大人しくなるなら安いものよ」と何処か寂しげに呟いただけだった。
 
 
 
 
 
が、残念ながら政宗がそんな犠牲を払っても兼続の暴走は止まらない。
 
何処で聞き齧ってきたのか、引越しには蕎麦が必需品であると喚き、段ボールの中から小麦粉を取り出して台所のシンクにばら撒いたのだ。蕎麦は粉から作られるらしいという兼続の半端な知識が招いた悲劇を、政宗は半ば泣きながら片付ける。
蕎麦は蕎麦粉から出来るもので、小麦粉からはうどんしか出来ぬぞと突っ込む元気がある者はもう居らず、「砂糖だったら蟻が来て大変になるから小麦粉で良かったと思え」という三成の的を得ない慰めが空しく響く。
 
左近はと言えば、本棚に本を仕舞っている内にうっかり中を開いて読み耽ってしまうという引越しには有りがちな罠にすっかり嵌ってしまい、こちらも三成にしこたま殴られていただけだった。とは言え、三成も数個の段ボールと荷物を運んだだけで、後は兼続に文句を言ったり左近を殴ったりしていただけである。
 
これなら二人でやった方が余程早かったし疲れなかった。
さすがの幸村も、未だカーテンも掛けられぬ窓から差し込みだした西日に目を細めながら、そんな思いを巡らせざるを得なかった。
 
好いたものと一緒に住む。
結婚にしろ同棲にしろ、それは人生の一大事の筈で、おおごとかもしれないけど自らの生活を新しく作り上げていくというのは、もっとわくわくするような、心地良い疲れの中の出来事だと思っていたのに。
心地良いどころか口を開けば溜息が止め処なく漏れそうだ。
 
 
 
それとも――引越しなんてこんなものなんだろうか。共に暮らすのは甘いものではない、と思い知るための最初の儀式。
だとしたら本当にこんなことが必要なんだろうか。
だがしかし、一先ず今晩ここで寝る為の支度だけは整えておかなければ。
 
そこまで考えて幸村は再びはたと動きを止めた。
 
そうだ、今晩からはここで寝るのだ。酷い喧嘩をして、ぷいと家を出て行っても帰る所はもう此処しかない。
喧嘩どころか、もしも互いのことが許せなくなっても、離れることになっても、その為には今と同じくらい大変な手順を踏まなければいけないし、それまではこの狭い部屋の中でそれでも一緒に居るってことだ。
大丈夫だろうか。
明日からの幸せである筈の毎日を思い描けない上に、嫌な可能性ばかりに目を向けて。だがそれは、二人で暮らすってこと以上に現実味を帯びて自分に圧し掛かってくるのだ。
こんなことを考えているのだと知ったら政宗は何と思うのだろう。何よりそんな自分に、これから先、彼と四六時中一緒に居ることなんて出来るんだろうか。
 
 
 
「さて、我々はこれで退散しよう!二人の愛の巣を思い切り堪能するがいい!」
 
陽もとっぷりと暮れてしまって、使えない助っ人三人は意気揚々と(意気揚々としていたのは一人だけだが)帰って行ったが、未だ未開封の段ボールがうず高く詰まれた愛の巣とやらで、政宗と、少しだけ元気がない幸村がまずしたことは、その段ボールを漁って小さな鍋で湯を沸かし、カップラーメンを空きっ腹に収めたことだった。
 
やっぱり――何を自分は期待していたのだと幸村は自嘲気味にラーメンを啜る。
本当に、本当にこんなものかもしれない。
 
 
 
 
 
目を瞑っていても感じる、疲れた身体には暴力的なまでに眩しい朝の光に寝返りを打つと、隣に政宗が眠っている気配がする。
まだ彼の寝息まで聞こえそうな状態なのに、明る過ぎる部屋の中は何なのだろう、布団がいつもより何だか重くて――そこまで考えて幸村は目を開けた。昨夜はとりあえずシャワーを浴びてそのまま布団に入ったら、あっという間に眠ってしまったのだっけ。
 
段ボールだらけの部屋、カーテンの掛かっていない窓、そうだ、引越しをしたのだった。
そう気付いて幸村は勢い良く跳ね起きた。
 
今日一日の休みでこの惨状を何とかしなければいけない。
けど、幸村には昨日から続く不安を意識の外に押しやることがどうしても出来ないのだ。恋人と一緒に暮らし始めた第一日目の目覚め。誰か、その正解を教えてくれ、と思う。
実感は湧かない、やることだけが無尽蔵に湧く現実。
例えばまめまめしく朝ご飯を作って優しく(そんなこと未だ嘗てしたことはないのだが、まあ仮にの話だ)政宗を起こして、「これからはずっと一緒ですね」とか感慨深げに囁いて、そんな幸村を政宗が嬉しそうに引き寄せて――無理だ。絶対無理に決まってる。(外からなんて見えないと思うけど)カーテンも掛かってない部屋でいちゃいちゃなど出来るわけもないし、そもそも自分はそんなこと口が裂けても言いたくなどない。
我に返って寝こけている政宗を叩き起こしたら、寝ぼけ眼で彼も不平を口にした。
 
「記念すべき一日目の朝じゃぞ。もっとそれらしくせぬか。起こし方一つにも、ほれ、何と言うか」
 
ステレオタイプな、でも決して自分達の間には有り得ない新婚カップルを思い描いてどうするんですか。
そう言い掛けたが、先にそれを妄想したのは自分の方である。
 
もしかしたら自分は、唯不安がっているんじゃなくて、想像以上に浮かれているだけなのではないかと幸村は考えた。
ああ、実感が湧かないとぼやいている癖に、よりにもよって新婚なんて言葉を思い浮かべてしまうなんて。
 
 
 
 
 
家具をあるべき場所に収め(それすら満足に出来なかったなんて全く昨日の助っ人には驚かされる)一通りのものを揃えたら、一気に部屋には生活感が備わったようだった。
まだ自分の匂いも政宗の香りもついていない部屋。
何かを取り出すことが無意識に出来、真暗闇の中手探りなどせずとも電気のスイッチを探し当てられるようになったら、こんな暮らしにも慣れるんだろうか。
 
どこか余所余所しい、だが僅かに親近感を覗かせ始めた部屋の中央に座ってぼんやりしていたら、政宗が後ろから幸村を抱きすくめた。
 
「疲れておるとは思うのじゃが」
 
身体の向きを変えて、珍しく言い訳をしようとする政宗を正面から抱きとめ、笑みを零す。
 
新しい部屋で所在無さ気に佇むこの人も、きっとまだ実感など感じていないのだ。政宗が一緒の部屋にいたということにやっと気付いたように、幸村はほっとする。
 
もしかしたら、自分達のこの選択は間違ってなかったんじゃないかとようやく思えた気がした。
 
 
 
 
 
結局、休日は全て引越しに使ってしまった。
居場所だけが違ういつも通りの朝。少しだけ政宗の方が家を出る時間が早いから、幸村はどうしたって政宗を送り出すことになる。
疲れの残る少しだけ重い身体で朝食を作って、一応玄関まで見送りに出たら、政宗が何気なく言った。
 
「では、行って来る」
「はい。行ってらっしゃいませ」
 
それは何遍も繰り返された他愛の無い挨拶のように響いたのだけど、もしかしたらそんな言葉を交し合ったのは初めてではないだろうか。
今まで一緒に朝を迎えても、それはあくまでも政宗の家に泊まっていた幸村、という図式になる訳で。幸村を残して政宗が外出することだってあったのだけど、別れの言葉は大概が「それでは、また」だった。
 
これからはこうやって彼を送り出すのだ。飽きもせず毎日毎日。もしかしたら、それは死ぬまで。
 
喧嘩をしても、それがこじれて暫く口すら利かなくなっても、帰る所はもう此処しかないのだ。
昨日と全く同じことを、今度は随分穏やかに想像できたことに何の疑問も抱かなかった。
 
あんなにも拘っていた実感とは即ちそういうことで、つまりこれからはずっと一緒に居られるのだという証拠が欲しくて、でもそれは、こんな簡単な遣り取りであっさり手に入ってしまうものだったのだ。
 
 
 
何気なさを装って手を振った幸村は、政宗の姿が見えなくなると途端にその場にしゃがみ込む。「早く帰る」とも言わなければ、行ってらっしゃいのキスなんてない(当たり前だ。玄関先でそんなこっ恥ずかしいこと出来るかと思う)。
けど、そんなもの比べ物にならない程甘い、ごくごく普通の挨拶。
 
口の端に込み上げてくるものを抑えきれずに、ついでに、ああ好きだなあ、なんて滅多に思わないことをこっそり呟いてみたら一層居た堪れなくなって、思わず誰もいない筈の辺りを窺うようにきょろきょろしてしまう。
つい今しがたの自分の不用意な発言を記憶から消そうと腕時計を見たら、出勤時間は疾うに過ぎていた。いや、そんなことは百も承知なのだけど、先ずは指先まで溜まったこの愛おしさみたいなものを搾り出さなくては立つことも出来ないと、幸村は小さく溜息を吐く。
でもそれは、政宗に抱きすくめられている時に漏れる息よりずっと切なくて、それにすら驚いてしまった幸村は、暫くそのままで固まっていなければいけなかったのだ。

 

 

だから、「行ってらっしゃい」をする幸村が書きたかっただけなんだよう…!
なのに…なのに兼続め!
何度も途中で「これ、本当に終わるんだろうな」って自分でも不安になりました。
(09/08/17)