※死ネタです。

 

 

 

それから二人の間に何があったのかは、孫市は知らない。
知っているのは些細なことだけだ。
 
例えば、俯く幸村の手を何処か怒ったような表情で強く握ったまま、廊下をどすどす歩く政宗の姿とか(おいおい、ここはお前の城じゃないんだぜとは思ったが)、庭の片隅で仔猫のようにじゃれあっている二人とか、そういうことだ。
 
上田城を去る時には、幸村がわざわざ自ら馬を曳いて見送りに出た。
先導する自分の後ろで黙りこくったままの二人は、それでも別れを間近にした深刻さの欠片などちっとも見せず、孫市ははらはらした方が良いのか、それともあの短期間によくぞここまで心を通い合わせたものだと感心すれば良いのか迷ったものだ。
「それではここで」
気を利かせ、姿を消そうとした孫市より先に、幸村は何の感慨も篭らぬ口調でそう笑むと、背を向け馬を促した。
見送り、大義であったと横柄に頷く政宗も似たようなもので、我が事のように慌ててみせる孫市を横目で睨むと、貴様急にどうした?忘れ物か?と尋ねたのだ。
 
「いや、あれだけご執心だった割には、随分あっさりした別れだなと思ってな」
「手に手を取って涙を流し、抱き合って別れの切なさに身悶えた方が良かったか?」
「そこまでされたら俺の方が困るけどよ」
「安心せい、そんなこと昨夜の内にさっさと済ませたわ」
 
冗談とも本気とも図りかねる政宗の言葉に、まだそう遠くまで行っていなかった幸村が振り返った。
拗ねたように怒ったように、けど目だけは笑いを滲ませてそっと頭を下げる仕草を満足気に見詰める。
 
それは完璧な別れの光景で、完璧過ぎると不安になるのは人の性なのだろうか。
 
「本当に、いいのかよ」
「良いも糞もあるか。攫っていく訳にもいかんじゃろう」
 
孫市の押し殺した声につられるように、政宗も小声で答えたから、再び背を向けた幸村にはきっと聞こえていない筈だ。
 
「攫いはせぬが書状は出す。儂は案外筆まめじゃぞ?あれはどう見ても筆不精じゃがな。いざとなったら馬が、いや、この足さえあれば駆け付けられるわ」
 
それでも――こんな世の中だ、何が起こるかなんて分からないだろう?
不吉な言葉を避けるように孫市は言う。
 
「遠距離上等ってか。面倒じゃねえか?」
 
訳が分からぬと言った顔で政宗は吐き捨てるように返した。
 
「だから貴様は女に次々に振られるのじゃ。己の伴侶に向かって面倒などと、口が裂けても誰が申すか」
 
 
 
 
 
あの時、不吉な言葉を一瞬でも思い浮かべた自分が悪かったのだろうか。
政宗の陣の片隅で、手に馴染んだ得物を弄りながら、孫市は思う。
 
確かに政宗は筆まめだった。筆どころか、幸村に関する全てのことに、マメだった。孫市が知っているだけでも彼らが交わした書状も逢瀬も数え切れない。
 
なあ、馬が、足さえあれば駆け付けられるって言ったのは、お前だろ?
それが何でこんな大軍引き連れて、大坂城なんて囲んでんだよ。
 
頭を抱える孫市など居らぬかのように、政宗は、篝火の先に潜んでいるであろう赤備えから目を離さない。
 
昼間、伊達勢と派手にやりあったのは他でもない、幸村率いる隊で、彼が退いていく姿を遠目から認めた孫市は、ああ、これで幸村の命が一日延びた、とぼんやり思った。たった一日、だ。
堀を埋められ裸にされた大坂城を捨て、幸村は明日にでも家康の本陣へ特攻しようとしている。それ以外に手はない。そのくらい、孫市にだって分かる。
 
真田ってのは皆、揃いも揃って馬鹿なのかよ、余りある軍略の才を持ち、戦の駆け引きも充分に知ってる癖に、最後の最後で引く道だってあるんだって、何で誰も幸村に教えなかったんだよ。糞、それを言うなら、俺だってそうだ。
 
「畜生!」
 
そう叫んだら急に、上田城で笑い合った馬鹿共の顔が浮かんできた。
死地へようこそと告げた幸村、徳川に気炎上げる兼続、幸村の後姿をじっと見詰める政宗。こんな時にそんなことを思い出すなんて、人の頭はなんて残酷に出来ているのだろう。
慶次に、最近一目惚れをしていないと漏らしたことも。
 
浮かれて泣いて笑って落ち込んで、確かにそういう風に心を動かす恋などする年ではないし、そもそもそれほど身軽でもない。そう言ってしまえばそれまでだが、つまりはそういう言い訳にかこつけて、自分は感情を動かすことを、随分億劫なものに変えてしまったのだ、とも思う。
お前らは、俺みたいにはならなかったじゃねえか。
政宗はいつだって幸村を懸命に口説いて、おろおろして、掻き抱いて、幸村だってそうだっただろ。
 
覗き見るつもりなんてなかったが、一度だけ、見た。
泰平という耳障りの良い言葉で誤魔化してきた化けの皮が一枚一枚剥がされて、きな臭い戦の臭気が漂ってきそうな世の中で、それでもお前ら、あんなに全力だったじゃねえか。
政宗の背中に回された幸村の腕には、傍目から見ても結構な力が篭っているように見えて、政宗の背骨の頑丈さに呑気に驚いたのだ。真昼間からこんなところで抱き合うなよ、全く、いつまで経っても飽きないのかねえ、なんて突っ込めないからそれを苦笑に変えて踵を返したら、後ろから幸村の、ぶはーと盛大に息を吐く音と、やけに明るい笑い声がした。
息が苦しいのです。
それを聞いた政宗も笑っていて、おいおい恋人ってのはもっと優しく抱き締めるものだぜ、なんて自分は思ったりして。
 
嘘こけ。
優しく抱き締めるものなんて、そこらのどうでもいい女で充分だ。
 
ああ、俺、こんな戦場のど真ん中で、しかも秀吉が作った世の幕引きだぜ?幸村が死のうとしてるんだぜ?なのに、何でこんなこと思い出してんだよ。
大体政宗も政宗だし、幸村も幸村だ。
他人ぶった顔ですまして床机に腰掛けてるんじゃねえっての。
 
「孫市」
 
そんなことを考えていた所為で、いつの間にか政宗が近くまで来ていたことにも気付かなかった。
顔を上げ、凄みながらも何だよと答えたつもりだったが、もしかしたら呻くような声が漏れただけだったのかもしれない。
 
篝火に照らされた政宗は、いつものように笑っていた。
孫市に幸村のことを散々惚気てみせた時のような顔で。
 
「儂は出る。本陣は任せたぞ」
 
余りに軽い言い方だった。「幸村に会いに上田に行ってくる、暫く城は任せたぞ」何度も聞いてきたそれを、思い起こさせる程の軽さだった。
 
「おい、待てよ政宗!どうするつもりだよ!幸村を止めるのかよ、だったら俺も」
「止める、とは言うとらん。儂は会いに行くだけじゃ」
「会うって、馬鹿!お前!こんな状況で」
「いざとなったらこの足さえあれば駆け付けられる、と言うたであろう」
 
そんなことも忘れるほど貴様は馬鹿か。
そう言ってさっさと陣を出て行く政宗を、孫市は追い掛けた。
止めるにせよ討つにせよ、もういっそ攫ってふん縛って、徳川からも戦からも離れた城の一室で囲っちまうにせよ、見届けなればならない、奇妙な義務感に孫市は足を速める。
 
完璧な恋の後には完璧な幸せがあるんじゃないのかよ。
それともやっぱり、完璧過ぎると不安になるのは人の性で、完璧なものは崩れてしまうのが世の常なんだろうか。
 
 
 
供も連れず(自分は後を追ってきたが、自分一人だけでは供とも言えまい)単騎でやってきた政宗が、何故ああもあっさり幸村の陣に通されたのか、未だに孫市には分からない。
もしかしたら幸村は分かっていて、それとなく兵に言い含めていたのかもしれないが、孫市には然したる問題ではなかった。
 
陣の入り口に立った政宗を認めた瞬間、幸村は目だけで笑うと小さく囁いた。
 
「政宗殿」
 
たったそれだけ。
何故ここに、とも、刹那の再会を喜ぶ言葉一つもなかった。さり気なく、ほっと息を吐きながら、たった一言彼の名を。
 
孫市は思わず天を仰ぎ首を振る。
それは死にゆく者を目の当たりにしているという感傷や、友の作り上げた世が、今正に終わりを迎えんとしている感慨ではなく、唯々、ごく普通の安堵から。
 
「ふわっとな」「心底ほっとしたように、じゃ」
本当だったんだな。政宗、お前、あの時自分にだけ都合良く解釈して言ってた訳じゃなかったんだな。
 
政宗は駆け寄るでもなく、一歩一歩大地を踏みしめる訳でもなく、ごく普通に幸村に近寄り、ごく自然に抱き締めた。
政宗の背中に回された幸村の腕は、あの時のように力が篭められていて、暫くそうしていた後顔を上げた幸村は、笑いながら言った。
 
「具足ですと、いつも以上に息が苦しいです」
 
それを聞いて政宗も笑う。
指を絡め合い、弾かれるような笑い声が、くすくすという艶めいたものに変わった頃、幸村が小声で言った。
 
「死地へ」
「ああ、行って来い」
 
 
 
 
 
徳川と豊臣がいよいよ決定的に手切れになる。
そんな風評に訳も分からず苛ついていた、一年以上前の自分を思い出した。落ち着き払った政宗に、正直むかついた。
幸村のことだ、大坂にでも組したらどうするんだよ!
そう叫んだ自分に政宗は何と言った?
 
「上田で幸村が最初に言うたことを覚えておるか?」
「死地へようこそ、だろ?今度こそあいつ、死地とやらに飛び込んでくかもしれないんだぞ、政宗!」
 
「もう駄目だと思うたことが、貴様にはあるか、孫市」
 
儂は何度もある。
くるりと煙管を回した彼は、彼自身の窮地より、死地へようこそと告げた幸村のことを思い出しているに違いなかった。
 
「本当に駄目だと思うた時、人は死地などという言葉は、決して使わぬ」
 
 
 
 
 
幸村は死ぬ為に徳川本陣に急襲を仕掛ける訳ではないし、政宗もそれを見取るつもりなどないのだろう。
阿吽の呼吸って奴かよ。お前ら、完璧だ。
完璧な伴侶ってやつの完璧な恋で、これは完璧な別れの光景だ。
 
 
 
それでも俺は、完璧な恋なんて知らないから、その先の完璧な幸せを願わずにはおれないんだ、と孫市は思う。
 
幸村の陣を後にし、数歩前を歩く政宗の背中に恐る恐る問いかける。
 
「もし、だぜ?もし家康の陣に突っ込んだ幸村が、取り返しの付かないことになったら」
 
今更取り返しのつくことなんてないだろう。政宗は幸村を止めようともしなかった。
酷いことを尋ねているとは分かっているし、言葉にするのは結構キツイ。
が、黙っているのはもっとキツかった。
 
「後悔、しないのか?」
「は?がんがんするに決まっておろうが!貴様は馬鹿か!あれは儂の伴侶じゃぞ。儂が生涯に唯一人と決めた者ぞ!」
「ちょ、分かったって!分かったから大声出すなよ!」
 
出すな、と言いながら孫市は思う。
いつものように些細なことで癇癪を起こしているかのような政宗の怒鳴り声が、ここからそう遠く離れていない幸村の陣まで届けば良いと、心から思う。
けどな、孫市。
政宗が急に真面目な声に戻って呟いた。
 
「いつか来る別れすら目に入らぬほど愛しておったと嘯くつもりはないが、別れる為だけに儂らは侭ならぬ想いを育んできたのではない。じゃが、戦であれ病であれ何であれ、いつかあれを失うた時無様に泣き喚けるように、儂は必死にあれのことを慕ってきた」
 
これは決して自分には言えぬ台詞だ。
恋人を優しく抱いたことはあれど、息も詰まるほどきつくきつく抱き締め、抱き締め返されたことのない自分には到底分からない類の。
 
「そしてあれも、そうしてくれた。きっと儂は、いや、もしかしたらあれも、最期は後悔するであろう。が、そんなことは然したる問題ではないのじゃ」
 
すげえ、幸せそうだな。
けど、とてもじゃないがこんな血腥い戦場の真っ只中で、そんな言葉、不自然すぎるから、孫市はどうして漏れるのか分からぬ溜息と共に「そうかもな」とだけ、呟く。
知った風な口を聞くなと怒鳴られるかと思ったが、政宗は何も言わなかった。
 
 
 
 
 
幸村の壮絶な戦いを耳にしても、政宗は顔色一つ変えなかった。
まるで見てきたように、しかも敵方であろうに、さも得意気に幸村の武勇を語る徳川の伝令の語り口に些か閉口している様子は覗かせたが、その様子はどう見ても「役目とは言え、つまらぬ戯言を聞き続けるのもうんざりじゃ」といった感じだった。
 
政宗が顔色を変えたのは、最後の一瞬だけ。
 
戦の収束を知らせる伝令に形ばかりの礼を告げると、すぐに人払いを命じる。
 
「内府が」
 
背を向けた孫市の耳に、政宗の震える声が届いた。孫市は僅かに足を速める。
政宗が一人で幸村を思って泣けるように、なるべく早く己の姿を彼の視界から消そうと努める。
涙を流す政宗を見れるのは、幸村だけだと思うので。
 
「あの狸親父が、よくも言うたわ。聞いたか幸村、日ノ本一の武士とやらに、そなたは、なったそうじゃぞ」
 
ああ、それでこそ、この竜の伴侶よ――政宗の呻くような、だが寄る辺ない陽気ささえも含んだ語りは、そこで止んだ。
 
 
 
身を切られるような悔恨と悲嘆の渦の中で、彼は幸村を誇ることが出来るのだ。
政宗の屈託無い笑顔も無様な泣き顔も、正面から見ることが出来るのは幸村だけの特権だとしたら、たった一人の敗将が、一夜のうちに英雄になり、泰平の礎になったことを、我が事のように誇らしく思えるのは、政宗だけの特権だ。
 
 
 
これまでも決して悪くはない主だったが。
孫市は、迷いなく槍を振るい敵を次々に薙ぐ幸村の姿をなるべく鮮明に思い出そうとする。
 
家康の首のみを望んだ彼は、それでも最期の瞬間、政宗の今後を憂い今生の別れに嘆き、後悔したに違いなかった。
息も出来ぬほど自分を抱き締め、見送った男を、誰よりも誇らしく思いながら。
 
きっと政宗はいい君主になるだろう。俺が保証するぜ。
 
自分に保証されたと知ったら政宗はたちまち癇癪を起こし、幸村はそんなこと孫市殿に言われなくても知ってますと眉を顰めるんだろうと思った。
それでも、そう言わずにはおられないのだ。
 
矜持と悔恨を胸に挑んできた者達を沈黙させてきた己の得物と、それを扱うこの右腕は、確かに誇りだ。
だが、そこにもう一人、愛しい者の誇りが上乗せされるということが、つまりどういうことなのか、孫市にはどう足掻いても分からぬので。
ただそれは、何より切なく、呼吸も侭ならぬほど愛おしいものであろうことも、想像だけなら出来るので。
 
友が作り上げた城が炎に包まれ崩れる音を聞きながら、孫市は、主が愛した偉大なる武士の為に、今宵のうちに銃を手放すことを心に決めた。

 

 

大坂の後は何度も書いたけど、大坂自体を書くの初めてじゃなかろうか…って書いてたらどうしよう!恥ずかしい!
言い訳はあとでこっそり色々するとして、
それでも、幸村が政宗の為に死にたくなかったと後悔することは、幸村の矜持を穢すものではないと私は思ってるのです。
(10/01/09)