教室での幸村の席は、政宗の後ろだ。けど、真後ろではない。
前を向くと、視界の端に辛うじて彼の背中が見えるかな、ってくらいの場所だ。
そして幸村は、その席に大変満足している。
仮令、ぼんやりと外を眺めて暇潰しできる窓側じゃなくても。休み時間になった瞬間、教室から出られる廊下側の席じゃなくても。(昼休み突入直後はとても便利だが)
窓際の政宗の席には、いつも陽が当たっている。
はじめの頃はうんざりした顔でカーテンを閉めていたけど、航行の教室のカーテンなんてまるで唯の薄っぺらい布そのものだから、必要以上に風にはためいて、いつも彼は邪魔そうにしていた。その内、眩しいことには目を瞑ることにしたのだろう。彼が自分からカーテンを閉めているところは、見たことがない。
ノートとか教科書とか、日向で白いものを見るとくらくらするのに、と少しだけ心配になるが、幸村が知る限り政宗がそうなったことはないから、幸村は安心する。
くらくらならなくても眩しくないだろうかと、今度ははらはらするけど、彼がカーテンを閉めないようになったのは気温が上がりだした(つまり、窓を開ける機会が多くなった)春の終わりのことで、そんなこと知っているのは自分だけだと思うから、はらはらより、嬉しさの方が勝る。
自分より少しだけ色の薄い彼の髪の毛が、光を受けて綺麗な茶色に見えるので、それ以来、金色を少し含んだ茶色は、幸村の好きな色になった。(正確にはああいう色はなんて言うのか幸村は知らないので、茶色っぽいものは全部茶色で済ませてしまう)
お世辞にも真面目とは言えない政宗は、日当たりの良いその席でよく居眠りをする。
不自然に捻られた首に寝違えないかなと時々思うこともあるが、彼が身動ぎすると彼の影まで身動ぎするところも、好きだ。隣の席になりたいな、なんて思ったことはないけど、彼が影を落とす彼の机や隣の机が、少し羨ましい。(羨ましいのは、机、そのものなのだ)
授業の内容を聞き流しながら、幸村は一番好きな瞬間が今日も来るかな、と政宗の後姿をじっと見詰める。
もしも、あれ、をしてくれたら、今日もお昼にジュースを買おう。
昨日は、あれ、をしてくれなかったから、ジュースは買わなかった。
弁当を頬張りながら甘いものを飲むと、政宗は「米を食いながらよくそんなものが飲めるな」と顔を顰めるけど、政宗すら知らない政宗が関係する昼時の飲み物の法則は楽しくて、止める気にはなれない。
来るべき昼休みのことなんか考えながら、幸村はじっと政宗の後姿――昨日と一昨日は首の辺りにしたから、今日は頭の真ん中辺にしてみよう――を眺める。それこそ、穴が開くくらいに。いっそ穴が開いたら、彼も分かってくれるだろうに。
そんなことを考えながら、そのまま数分。
珍しく寝ていなかった政宗は、右手に持っていた(でも何を書いていたという訳でもなく、回していただけだ)シャーペンを放り出し、幸村が見詰めていた所、後頭部辺りを、こりこりと数回、軽く掻いた。
思わず幸村は、俯く。
やった、ジュースだ。
品揃えの決して良くはない校内の自販機で、何のジュースを買おうか、なんて幸村は唇を噛み締めながら思う。
今日は、賭けに勝ちました。
唇を痛いほど噛んだのは、つい笑ってしまうから。それでも漏れる笑みはもう押さえきれないので、欠伸でもするように顔を動かして両腕で顔を隠しながら、机にゆっくりと伏せる。
そこまで嬉しいのは、ジュースが飲めるからでも、心の中で勝手に執り行った賭けに勝ったからでもないことは、実は、ちゃんと分かっている。
きっと政宗は、何で自分が頭に手をやったのかなんて分からないに違いない。
政宗自身ですら分からない、ちょっとした違和感。
それを与えたのは他でもない自分だという、些細な楽しみ。
幸村の今、一番の楽しい遊びは、これだ。
本当に幸村は簡単だ。
自分と同学年の、しかも高校生男子にこの言葉は間違っているのかもしれないが、可愛い、と時折思う。
昼飯を食いながらカルピスなんて飲んでいたから、わざと顔を顰めながら「お主、米を食いながらよくそんなものが飲めるな」と言ってやった。それだけで幸村は、心外だ、という顔をする。
が、その直後、ストローを咥えながら、よくもまあ、紙パックのカルピス一個ばかしでそんな顔が出来るものだと思うくらいに、嬉しそうな顔に戻るのだ。
鼻歌でも歌いそうな顔で「あげませんよ」と言うから「誰がいるか」と返してやった。
弁当のおかずをじっと見ていたので、一つ摘んで幸村の弁当の蓋に乗せてやったら、これまた心底嬉しそうな顔をする。けど幸村が、儂の弁当を羨ましそうに見詰めるのも、ついつい一つ恵んでやってしまうのも、いつものことだ。
一度面白がって箸で摘んで口許まで持っていき、「食うか?」と押し付けてみたのだが(よくは覚えてないが、唐揚げのようなものだったと思う)そこまでされると気分を害するらしい。頑なに口を噤んで、最後には顔まで背けおった。
そっぽを向いた先に兼続がいて、「では私の義のおかずは如何かな?!」と然して美味そうでもないおかずを一品、差し出したが、それはあっさり兼続の箸から直接食いやがる。
儂が食わせるのは嫌で、兼続なら良いのかと本気ではない文句を言ってやるつもりだったが、食の細い三成が「俺のも食ってくれ」と弁当箱ごと幸村に差し出したから、儂のささやかな(多分に揶揄いも含んだ)抗議は、宙ぶらりんのまま仕舞いになった。
勿論そんなことで本気で傷付く訳ではない。
幸村には幸村なりの、人間関係の決まりがある。それだけだ。
兼続には素直に甘えるし、三成の話は甚く真面目な顔で聞くし、儂には子供のようにふざけてみせる。口許まで持ってこられた食べ物を素直に飲み込むか、顔を背けるかは、ただそれだけの違いに過ぎぬ。
「米と一緒に飲むカルピスの味は、政宗殿には分からないのです」そんな憎まれ口を儂に向かってのみ、叩くことも。
だが自分の弁当を平らげ、三成のそれも綺麗に腹に収め(三成の残した分を幸村が食うのは、恒例になっている)それだけでは飽き足らず、パンやおにぎりを数個食い、そうしてやっと儂がくれてやったおかずを最後に頬張る姿は、言葉としては間違っているかもしれぬが、可愛いものではないかと思う。
はじめの頃は、なかなか口にしようとしなかったので要らぬのかとやきもきしていたが、実はそうではないらしい。
「要らないんだったら寄越せ」と取り戻しにかかったのだが(もともと儂のものだ)「何をなさるのですか!好きなものは最後と決まっております!」と噛み付くように主張された。
何でも美味しそうに食う幸村に食べ物の好みがあったことは初耳だったが(なにせ、好きな食べ物を聞かれ、肉と即答した奴だ。肉は食材であってメニューではないじゃろう)何を与えても、儂のおかずはいつだって最後に口に運ばれる。
基本的な味付けが好みなのか、儂があげるものが偶々いつも好物なのかまでは考えたことはないが、悪い気はしない。
端的に言えば甘え上手、ということになるのかもしれぬが、それも含めての自分達の友人関係であるからして、やっぱり、そういう幸村は可愛い、と思う。それは仔犬や仔猫を可愛いと思うのに似ているだろうが、不自然だとは思わない。
少々馬鹿馬鹿しいとも思うが、昼飯を共に食うことと、何となく照らし合わせたように共に下校することが友人の条件の中で比較的大きな比重を占めていることは、致し方ない。
登校時が揃わないのは、無駄に早く来る兼続と(何時に来ているのかは知らん)、始業三十分前にきっかり教室に現れる三成と、気分によって登校時間がまちまちの儂と、朝から自転車を全力で漕いで駆け込んでくる幸村だから、仕様がない。(低血圧という話は聞いたことがないし、どう見てもそうは思えないのに、何故いつもぎりぎりに来るのかは分からぬ。一度尋ねたが、早く来ると負けたような気がすると言うておった。毎朝記録にチャレンジしているんだそうだ。それは何となく、分かる気がする)
それはさておき、儂らも例に漏れず、何もない日は何となく、共に教室を後にする。
一時間もすれば内容すら忘れてしまうような他愛ない話をして別れることもあるし、誰ぞやの希望で――兼続が本屋に寄りたいだとか、幸村が腹が減った、とかだ――だらだらと共に過ごすこともある。
そこはまあ、付き合いというか、早く帰ってもすることなどないから、たった一人の都合の為にぞろぞろと四人揃って何処ぞに寄る訳だが、個人的には本屋によるのが一番面白いから、兼続の提案も吝かではない。
そこまでべったりな訳ではないから、本屋に入れば突如自由行動開始だ。それぞれの興味の対象の棚にまっすぐ歩いていく。
兼続の欲しい本など知らぬし、知りたくもないから、兼続は野放しだ。
三成だって似たようなものだが、一度育児コーナーの「偏食のこども対策あれこれ」の雑誌を難しい顔で立ち読みしていて、噴出しそうになった。貴様が一番偏食持ちじゃろうと思ったのだが、恐らくは自分でも気にしてるのか、それとも、好まぬ野菜や魚を左近があの手この手で無理矢理食べさせようとすることについての解決の糸口(つまり敵はどんな手段を使ってくるのか)を調べようとしたのであろう。案の定、「ペースト状とは何だ」と聞くからわざわざ説明してやったら、「糞、左近はもしかしたら俺のおかずに、どろどろにしたピーマンを入れている可能性があるということか」と憤慨していた。
話が反れた、三成のことはどうでもいい。
幸村は、一番本屋に縁遠い奴だから、幸村の動きが一番面白い。
雑誌のところでぱらぱらと立ち読みし、漫画コーナーをぶらぶらする。とは言っても目当てのものがあるわけでもないから、あっさり手持ち無沙汰になると、此方に向かって小走りに走ってくる。
そんな幸村の行動には慣れているから、立ち読みしていた本から顔を上げて、目だけでどうした?と聞いてやる。
途端何とも言えぬ嬉しそうな顔で笑うのだ。
昔飼っていた犬そっくりで、此方の手元を覗き込もうとして揺れる髪を、思わずぐりぐりしたくなる。(一度やったら大袈裟なくらい飛び退り、棚にぶつかり、派手に本を落としたことがあるので、もうしないようにしているが)
「これはな」と、本の中身を説明しだす儂を真剣に見詰めながら、分かってもおらぬだろうに、ふんふん、と何度も頷く。が、もともと興味などないからすぐに飽きて、儂の説明も無視して、目の前の平積みされた本を一冊とってはぱらぱらと捲るのだ。
それを何度か繰り返し、更にやることがなくなって、店員でもないのに目の前の本棚の整理を始める頃、三成と合流した兼続が此方に来るから、儂は本を閉じる。本を作者別に整頓することに躍起になっている幸村を促して、外に出るのだ。
何故か、手持ち無沙汰になった幸村が、自分から三成や兼続のところに行くことなどない。
兼続は一緒にいたら五月蝿いし、三成は立ち読みだろうが何だろうが、目を通した本の感想を聞いてくるので、面倒臭いのだろう。
やっぱり悪い気はしない儂は、黙って幸村を傍に置く。
傍に置く、などと言うと随分偉そうだが、幸村が儂の傍に来るのは事実だし、儂が場所を移動すると棚の整理を中断してついてくるので、この言い方で概ね間違いはない気がする。
「行くぞ」を声を掛け、幸村に背を向けつつも後ろをついてくる奴の足音を聞きながら考える。
まるで所有物みたいじゃ。
儂の物言いが偉そうなのは生まれつきだし、直す気もないが、一度三成が幸村に「そろそろ店を出て良いか」といった内容を伝え話しているのを聞いて、成程と思った。
普通はああやって提案するものであろう。
儂の言い方は明らかに横暴な親や飼い主や、或いは従順な女に掛ける男のそれであって、なのに幸村は微塵たりとも文句を言わない。気にしていないのか、流されるのが好きなのか。
気を悪くした風はなかったが、つい気になって振り返る。
幸村は変な顔で含み笑いをしていた。「偉そうですね」なんて言うから「偉いのじゃ」と返すと、幸村の含み笑いは普通の笑みに変わる。小声で「気に障ったか?」と尋ねれば、「ちっとも」なんて至極嬉しそうに笑うから、少しだけほっとした。
そのまま暫く、幸村を所有しているという感覚を心の中でゆっくり転がしながら、楽しむ。
だがいくら自他共に認める偉そうな儂でも、これは友人という関係において褒められた感情ではないと思うので、あくまで一人で、心の中で、の話だ。
かと言って、幸村が始終儂に付き纏っている訳ではない。
いつだったか随分難しそうな顔で、兼続とこそこそ話をしていた。
音量調節機能がついているのか何なのか、そういう時の兼続の声は案外聞こえないから(普段からその機能を充分に活用して欲しいものじゃ)内容までは聞こえなかった。その内、何ごとか兼続が耳打ちして、幸村が青くなったり赤くなったりし出したので、正直多少面白くなかった。
儂のものなのに、いや、それはいかん。
幸村と一番仲が良い友人は誰なのかという出もせぬ答えで己を問い詰めるのも馬鹿馬鹿しいし、そもそも適切ではない。とは思うのだが、通りがかった三成まで会話に加わり、幸村が一層慌てだしたので、儂は自分でも機嫌が急降下していくのを、今度こそ自覚せざるを得なかった。
成程な、ウチの子(犬猫のようなもんだ)なのに仲良くしやがって、というやきもちは、案外制御が難しい上胸糞悪い、と思いながら、儂は幸村を見る。いつもだったらこの辺りでそろそろ声が掛かるだろうし、儂を呼ぶのはいつだって幸村だ。
物欲しげにじっと睨みつけているのも嫌で、目を逸らそうとした瞬間、当の幸村と目が合った。(ついでに兼続と三成とも合ったが、それはさておく)
呼ばれるか、手招きでもしてくれるか、と腰を浮かしかけたのだが、幸村はそのまま静かに目を伏せ、正直儂は呆気にとられた。
呆気にとられたのは、肩透かしを食らった気分になったのと――幸村が少し笑っていたから。
それはおかずを分けてやった時や、本屋で此方を見るときのような笑みではなくて、随分嬉しそうに、僅かだが頬まで上気させて、だが何処か痛々しくて、それに気付いたのだろう。三成が労わるように、ついでに少しだけうんざりした顔で幸村の顔を覗き込み、兼続が兄貴面して幸村の頭まで撫でおった。
幸村にも色々大変なことはあるのだろう。
というのは、後になってから及ぶ考えであって、その時は兎に角面白くなかった。
普段の数倍は優しげな三成の声も(儂には聞こえなかったのでそれは想像の域を出ないが)、全てを知っているかのような兼続の表情も、何より兼続に頭を撫でられて飛び退らなかった幸村に、腹を立てた。
包み隠さずに言うと、儂の方がもっと上手く笑わせてやれる。そんな風にさえ思っていた。
その時はむかっ腹が立った余り、己の心情まで省みる余裕はなかったが。
もしもこの時、気付いておったら、儂らはどうなっていたのだろうと、今でも時々思う。
この時だけではない。
例えば、弁当のおかずを食わそうとした幸村が、何故顔を背けたのか。儂の分けるおかずは、本当にいつもいつも幸村の好物だったのか。手持ち無沙汰な顔に本心を隠して、一体どんな気分で近付いてきていたのか。横柄な儂の言い草に返されたあの笑顔。
丁寧に取り出して考えれば、儂が気づけるだけの材料など疾うに揃っていたであろうに。
今となっては思い切り掻き抱いてやりたいほどの一つ一つの幸村の表情を、儂は随分無造作に打ち捨ててきたのだと思うと、勿体無いような気もする。その一方で、あのタイミングが最適だったのだろうと、自負もしている。
ゆっくり育てられる幸村の切なさと、儂の自覚は、恐らく何にもまして必要なものだったのだろう。
会いたいと身悶えする夜更けや、抱き合う前の甘い香り、ケンカした後のバツの悪さ。
その度に思い出されるそれらのこと――行き場さえなくなりかけ、持て余し気味だった幸村の恋心や、いつまで経っても幸村の想いに気付けぬ儂がそれでも感じていた居心地の良さだとか――は、友人という括りを捨ててしまった儂らに、足場と、限りない現実感を与え続けてくれる。
中途半端ですが続きます。珍しく伊達←真田な、幸村の片思いの話ですな。
頑張って思い出してみたけど、高校生が寄るところ=本屋かマックしか思いつかなかったです。
しっかし、何で高校生の男子ってあんなにものを食うんだろうね!
(10/05/17)