なんてことを思うようになったのは随分先の話で、いつまで経っても儂らはそんな感じだった。
儂は幸村を愛でつつも、時折自分のもののように気侭に扱い、幸村は嬉しそうな顔と切なげな表情をきちんと使い分け、儂の傍に居続けた。
別の言い方をすれば、無神経な儂は幸村を友人として大いに構い、幸村は恐らく仄かな期待を必死に押し隠しながら、それに応え続けた。
何かが変わった日、というのは他人から見たらすこぶる瑣末で、しかし本人からすれば天地が引っ繰り返るほどの大ごとであるから、儂も(きっと幸村も)よく覚えている。
出来事としては、簡単だ。
儂が何処かにタオルを忘れ、自分でもそれに気付かぬうちに幸村が拾って持ってきた。言葉にすればたったそれだけのことだ。
儂は全くもって普段の調子で礼を言い、何の気なしに疑問をぶつけた。
「儂のだと、よく分かったな」
名前もなければ特徴もない、唯のタオルであるから、儂の疑問も当然だった。が、口に出したのは明確な疑問を感じていたからではなく、唯の世間話の延長で、そこに意味があるなど思いもしなかった。
もしも幸村が普段通りの顔で「違いましたか?」だとか「こんなタオル持ってましたよね」とか言えば、それで終わってしまうくらいの出来事だった。
今でも思い出す度に、じくじくと身体が痛む。
いつもの調子、素知らぬ顔で取り繕うことも出来なかったのだろう。幸村は、明らかに一瞬うろたえ、珍しく蚊の鳴くような声でこう言った。
「政宗殿のだと、分かりましたので」
答えになっていない。
何処かに置き忘れてきたなど一言も告げてないじゃろう?そもそも思いがけないところに置いてあったら、それが自分のものだと判断することも難しいくらいだ。
そう問い詰めてやることは出来たが、言ってはいけないような気がした。
ありとあらゆる儂の言動――それは言動だけではなく、持ち物までも――に気を配っていたのか、と儂は呆然としたままで思う。
何の為に、と考える必要などなかった。
わざわざ拾って持ってきたのは幸村の親切心からであろう。そこまでは良く分かっている。
想像の中の幸村が、何処かに落ちているタオルをふと、手に取る。政宗殿のだ。瞬時にそう思い、分かった自分に吃驚し、また苦笑もしながらそっと拾い上げる。
見ていた訳ではないのに、その想像には間違いがないような気がした。
汚れを払って静かにそれを畳み、いそいそと持って来たのだ、幸村は。儂は、その光景を思い描くたびに、何だか泣きそうになる。
何で、何でこんなに一緒にいて気付かなかったのだろう。
溢れそうな自責の念は、あっという間に苛立ちに変わった。貴様はもっと簡単で素直で可愛い奴だと思うておったのに。
いつからだ、いつからそんな顔をするようになったのだ、と胸倉掴んで怒鳴りつけたい気持ちを必死に抑えながら打った相槌は、自分でも酷いと思うくらいの素っ気無さに満ちていた。
そんな自分の声の冷たさで我に返り、己の怒りが、知らぬ内に好意を抱かれていたという面映さと満更でもない覚えたての感情に端を発していることに気付き我に返り、目の前の幸村があからさまに「しまった」という顔をしたから、一層我に返った。
幸村は、必死で、全力をもってして隠していたのに。引き金を引いてしまった上、その事実に立ち竦んでしまったのは、儂の方だ。
だが、いくら儂らでも、そこまで幼い子供ではないから、そんな瑣末な、しかし既に引き返せぬほどの決定的な事件の後でも表面上は実に普通の体を装う。
幸村は相変わらず次の日も、その次の日も同じ顔で笑いかけるから、儂は内心どうしたら良いか分からないもやもやを押し隠し、いつも通りに奴の話を聞く。心の中でどんなことを考えていようが、やってみれば案外色々なことは上手くこなせるもので、儂らの変化に誰も、三成も兼続ですら気付かず、このままなかったことになるのだろうかと考えてはみるが、やはりどうするべきかが分からない。
昼飯時は「よく食うな」と呆れながらも、おかずを一つ、分けてやる。
が、ふざけようが何だろうが、二度と食い物を幸村の口許に持っていくことは出来ぬのだ。
休日四人で遊びに行ったついでに飯を食うことは、出来る。
「美味いか?」と聞けば、以前と全く変わらぬ顔で笑う。兼続は相変わらず、口から飯粒を散らしながらもギーギー叫んでいるし、好き嫌いの多い三成はなかなかメニューを手放さない。
なのに、もう、こういう時に幸村が儂の隣に座ることはない。
間抜けなくせに抜け目ない幸村は、いつだって素早く四人がけのテーブルの内、三成か兼続の隣に腰を下ろす。
はじめの頃は、出所のわからぬ違和感に戸惑った。その挙句、ずっと幸村は、こういう時必ず儂の隣に座っていたのだと気がついた。
兼続の隣は五月蝿くて敵わんし、三成の隣は落ち着かぬ。
とでも言ってやれたら、どんなに楽になるのだろう。
幸村もきっと何度もそんなことを考えたのだろうと思った。
言ってしまえば決着が付いて楽になるのに。或いはすっぱり諦めてしまえば。あの時、余りに無防備に胸の裡を晒してしまった己を呪いながら、もう付けられぬ決着について思いを馳せるんだろうか。
それは今の儂以上の悔恨をもって。
兼続が本屋に行きたいと駄々を捏ねたので、儂らは揃ってぞろぞろと付いていく。
兼続や三成が何処の本棚の前で何の本を物色しているかなんて、前以上にどうでも良い。
以前よりずっと手持ち無沙汰な調子でうろうろしている幸村を見ながら、もうあんな顔で近寄ってくることはないのだと儂は内心覚悟をしていた。雑誌を立ち読みし、漫画の棚の前でぼうっとしている幸村と目が合ったから、少しだけ笑みを浮かべては見た(が、多分それは非常にぎこちなく、含みがありまくりのものだったのだろうと思う)。目を逸らされることも考えていたというのに、幸村はとことこ、近付いて来る。前と全く変わらぬ顔で。政宗殿、なんて言う。全てを押し殺した、けどちっともそうは思えぬ声で。「何をご覧になっているのですか」と手元を覗き込む。
掌に浮かびかけた汗が、立ち読みしていた本に移ってしまわぬように、何よりも幸村にそれを気付かれぬように、さり気なく本を持ち直し「これはな」と説明しかけた時、まだ手元を覗き込んでいた幸村が小声で言った。
「ごめんなさい」
気付かぬ振りをした儂の目の前で、幸村の髪が揺れる。
もう二度と、頭を、髪を撫でることは出来ぬのだ。
幸村の謝罪など聞く必要なく、奴の想いを受け止められる儂の知らぬ誰かは、いつか幸村の髪を撫で、当たり前の顔をして隣に座り、同じものを見ながら同じものを食うことが出来るのに、もう儂には、そんなことすら、二度と出来ぬのだ。
自らしないことを選択するのと、出来ないのとは大違いだと、間抜けなことにその時の儂はようやく気付く。
幸村が切羽詰った声を出したのは、謝罪を口にした一言だけで、儂は、儂も幸村もその場で泣き出さなかったことについて心から安堵し、少しばかりの決意を固めた。
幸村の気の長さに感心しつつ、自らの性急さに苦笑しながら(決意を固めてしまえば色々吹っ切れるものだ)儂はその日の弁当箱を、幸村が好みそうなおかずで満たし(ちょっと蓋を閉めるのに難儀した)素知らぬ顔で昼飯時、幸村の前でそれを開けた。
相変わらず簡単で素直だが、隠すことも器用な幸村は、顔を輝かせる。美味しそうですね、といつもの台詞を口にする。
食い意地が張っている奴のことだ、その表情の何割かは本気だろうけど(なんせ幸村が食い物を前にして顔を輝かせなかったことなどない。どんな辛い時もだ)、奴の楽しい気分の何割かはまだ、自分が此処に存在していることで構成されているのだと思い知らされる。
なのにあんな風に謝った幸村に胸を痛め、また勝手な儂は胸を撫で下ろす。あれが諦めを宣言する謝罪ではなく、全く意味のない、言うなれば好きになってすまない、といった類のそれであることを確信するが故に。
いつものようにおかずを一つ摘んでくれてやる、などしなかった。
必死で恋情を隠している相手の背中を無理矢理押して一緒に落ちてしまいたいから、とは言え、我ながら意地が悪い遣り方だと思った。
「食うか?好きなだけ取っていって良いぞ」
「でもそれは政宗殿のお弁当ですし」
何を今更、と思ったが、ここまでは計算の上だ。どうしても幸村に念を押しておきたいことは、他にある。
「今日はお主の好きそうなものばかり詰めてきてやったのじゃぞ?」
ギーギー言っていた兼続が一瞬黙り、探りを入れるように此方を見る。その後再び何事もなかったかのようにギーギー騒ぎ始めたのには、いけ好かないながらも感心した(感心しつつ、儂は人が近寄ると急に静かになった後再び鳴き出す草むらの虫を思い出した)。三成は如何にも気鬱そうな溜息を吐く。好奇心と物見高さを押し殺したような溜息だった。
成程、二人共、事情はとっくに知っておったという訳か。
幸村は居た堪れなさそうに目を伏せて逡巡している。
どうやったら無邪気で自然な態度を取ることが出来るか、幸村はずっとずっと考えて、一番適切だと思った行動を取り続けてきたであろうに。そして今でも、頭をフル回転させているのだろう。
それを見逃さぬように、儂はじっと奴を見詰めた。痛いほどの幸村の懸命さをしっかり目に焼き付けなければいけないのは、他の誰でもない、自分だと思うので。
もういい、と言ってやりたくなるのを、ぐっと堪える。
幸村の逡巡する様にまで目を凝らす儂には、奴が必死に隠している満足感まで手に取るように分かる。弁当を詰める儂が、幸村のことを考えていた、という事実。
先程の儂の言葉は裏を返せばそういうことで、それをあっさり感じ取った幸村の頭を撫でてやりたかった。
たったそれっぽっちのことで、しかも一旦は恋心を抱いたことすら謝罪した相手にさえこんなにも嬉しそうな顔を見せる幸村に、心の底から、もういい、と言ってやりたかった。
だが、そう伝えたら幸村はどうするのか、さっぱり分からない。もういい、儂も貴様のことを憎からず想うておる。儂がそれを言ってしまったら、ずっとずっと押し殺してきた幸村の感情は何処に行ってしまうのだろう。それが分からない。
分かるのは、いくら儂の気が短いとはいえ、此方から言ってしまったら台無しになってしまうことを、儂自身が一番恐れていることと――自分がくれてやったおかずは、大好物だろうが何だろうが、幸村は最後に口に運ぶと決まっていること、大事そうに。
可愛いじゃろう?
簡単そうに見えるが、案外隠し事は上手で、だが予期せぬことを取り繕うのは下手で、相応しくない言葉だろうが不自然だろうが、可愛いものじゃろう?
儂にとって世の中で一番面倒臭くて健気で可愛い生き物は、満足そうな顔で儂のくれてやったおかずを、もちもちと咀嚼する。
午後の授業の間、そんなことを思い出していたら、頭の辺りがこそばゆくなった。
軽く掻こうとして、何となく振り返ったら、頬杖を付いた幸村と目が合った。
幸村はじっと此方を見たまま。目を逸らそうともしない。
一見すれば至って普通の表情に見えるのに、何だか随分と所在なさ気で、昔飼っていた犬なんかよりずっと憐れな目でぼんやりと儂を見る。
席を立って駆け寄るわけにはいかなかったから(そんなこと思う時点で儂の負けだと思う)、せめて小さく手を振った。
実際は肩越しに、そうと分かるくらいに手を上げただけだったが、幸村は急にはっとして、それから今度ばかりは随分嬉しそうな、泣き出しそうな顔を隠しもせず、やっぱり小さく手を振り返し、そのまま机に突っ伏した。
きっと、幸村は切なさに打ち震えながらこっそり笑ってるんだろうと思った。
儂が――いつか思ったのは、本当だった――兼続なんかより、三成なんかより、こんな複雑な状態になってすら、儂が一番上手く笑わせてやれる、幸村を。
全く世の中都合よく事が運ぶもので、その日は珍しく、何となく一緒に帰ることが難しい日だった。
つまり何らかの会合やら部活やらがあって、儂と幸村(と三成と兼続)が別行動せざるを得ない放課後であるということだ。
儂は三成や兼続の隙をついて、幸村に耳打ちした。用事があるから付き合え、遅くなるが待っててくれ。
幸村は無邪気な眸を此方に向けて頷いただけだった。
隠し事が上手い幸村は、不安も期待も覗かせない。いや、上手いんじゃない。咄嗟にその反応が最適だと奴が判断しただけのことで、幸村をそんなことに長じさせたのは自分だという罪悪感と、それに勝るほどの喜び。
儂も幸村に倣って、殊更普通の顔で一旦別れる。
別にさぼっても構わぬ部活だが、今日は最後の片付けまでしていこうと思った。(普段は出ないし、偶に出席しても片付けまでせぬ)
不安も期待も隠し切れなくなるくらい、待たせてやろうと思った。
遠くから時折聞こえる悲鳴のような歓声と、野球部辺りの掛け声が聞こえるだけで、誰もいない教室は静かだった。
そっと扉を開けると、机に突っ伏して、まるで蹲っているような人影が見える。待ちくたびれて眠ってしまったのだろうと、儂はこっそりほくそ笑んだ。
細心の注意を払って扉を閉め、足音を忍ばせて近付く。見事なまでに顔を机に押し付けている幸村の表情は、見えない。
押し付けられた額は赤くなっておるのだろうな、と儂は少しだけ幸村が凭れる机を羨ましく思いながら、小さな寝息すら漏らさぬように、そろそろと幸村の首に後ろから腕を回す。
「…幸村」
まだ返事はない。遅くなったな、すまぬ。心にもないことを口に出したが、やはり返答はなかった。
あんなに切なそうな顔は出来るくせに熟睡しおって。
恋に落ちると食欲もなくなるし、眠れなくなるなんてのは、嘘だ。そんな非日常の恋がしたい訳でも欲しい訳でもない。
幸村はいつだって腹一杯(力いっぱいと言った方が正しい気がするほど)ものを食うし、寝不足の顔なんかここ最近、見たことない。それで良いと思う。焦がれるほどの想いを殊更劇的なものにするでもなく、終わりのなさそうな想いにとりわけ打ちひしがれるでもない。
それこそが幸村の(儂が自分で言うのも何だが)長い長い恋を雄弁に語ってくれる。奴は折り合いをつける方法をそうやって学んだのだ。三日間程飯が喉を通らず、一週間も碌に寝ていない。そんな一過性の想いに何の意味がある?幸村は自分の恋を一瞬のものとするのを良しとせず、いつかそれが終わるまで――どんな結末になろうとも、だ――とことん付き合う覚悟を決め、現実との折り合いをつけることに成功したのだ。
それを健気だと思えぬ人間などこの世にいるとは思えない。(本当にいたらいたで、むかつくと思うが)
そんな小難しい理屈は抜きしても、幸村からすれば起きている間中、儂のことを考えておるのだ。そりゃ腹も減るし、疲れて眠くもなるだろう。
なんて思いつつ、心の中で冗談めかして、この期に及んで寝ている図太さについて考えてもみたが、さんざん待たせたのは自分であるし、その図太さも可愛らしく見えて仕様がない。
が、狸寝入りかも知れぬから油断ならない。油断ならないところも、好きだ。
「幸村?」
息が掛かるくらい耳元で名を呼んだが、ちっとも反応はなかった。
狸寝入りであれば、さすがにここまですれば飛び起きるだろうが、身動ぎ一つしないのだから、きっと本気で寝入っているのだろう。
教室どころか校舎の中には、人の気配すらないような気がする。夢すら見ない程ぐっすり眠っていればいい。もしも夢を見ているのであれば、自分が登場していればいい、自分よりずっと暖かい幸村の体温を感じながら、そんなことを思う。
目が覚めたらそう言ってやろうかと思ったが、きちんと話を聞くのが先だと思った。
儂が気付けぬずっとずっと昔からのことを、ちゃんと吐き出させてやるのだ。そう考えていた矢先、幸村が小さく身動ぎする。
「ゆきむ」
「うわっ!」
格好良く決めようと思ったのだが、急に身体を起こした幸村の後頭部が顎を直撃し、幸村は折角起こした身体を机に沈め、儂は強かに唇を噛んだ。
が、回した腕は離さなかった(我ながら頑張った)。
「え?ま、まさむねどの?!なんで?」
待ち合わせをしていたのだから、「何で」というのはおかしい。どちらかと言えば、何で自分が寝てるんだ、というのが正しいが、寝惚けているのだろう。
後頭部を擦ろうとした幸村は、腕が上手く動かせないことに首を傾げ、それが儂の所為であることにやっと気付き、急に暴れ出した。
「どういうことですか?!ちょ、ちょっと、離してください!」
「どうもこうもあるか!いいから落ち着け!」
そんな遣り取りを数回繰り返し、やっと幸村は暴れるのを止める。だが未だ往生際悪く、顔を背けて「離してください」なんて言う。冗談に紛れて「どういうルールの遊びですか?」なんて笑って話すことすら出来ないのであろう、そのことに儂は心から満足する。
幸村の反応は、どう考えても言い逃れできぬ類のものだから。
「離しても良いのか?」
何とか自由になる掌だけで、幸村が顔を覆った。幸村の髪が頬に当たる。
同時に幸村も身体を強張らせたから、きっと自分の髪か、或いは息が奴の首筋にでも当たったのだと思う。
「もう隠さずとも良いから、全部言うてしまえ」
冗談でしょう?知りませんよ?何考えておられるんですか?離してください。本当に言いますからね。言える訳ないでしょう?
段々か細くなっていく幸村の言葉は、全て宙に浮かんだまま。ありとあらゆる疑問と、遠慮がち過ぎて拒絶にもならぬ拒絶を口にして、なのに儂は何も返さず腕も解かない。ようやく、幸村が長く息を吐き出す。顔を覆った手は、まだ、そのまま。
震える指の隙間から、鼓舞するように息を吸い込む音が聞こえ、近いうちにそっと漏らされるであろう告白を聞き逃さないように、儂は両腕に必死で力を込めた。
長い間想い続けて、もう今更泣いたり手放しで切なくなったりすることなんか滅多にないんだけど、
それでも何処かで期待しちゃったり、ちょびっと憂鬱になってしまうくらいの恋が叶うのは、わりと好きです。
(10/05/21)