鼻歌交じりに冷凍庫を開けた幸村は、中を覗き込んで顔を強張らせた。
鼻歌なんかとっくに止まっている。タッパーを掻き分け、製氷皿を傾け、ついでにいつのものかもう見当も付かない凍りついた肉の下も覗いてみたのだが、お目当てのものは見つからなかった。
「父上!父上ってば!ちーちーうーえー!」
片手に持ったスプーンを振り回しながらばたばたと家中を走る。
昌幸は自分の部屋で机に向かって何かをしていた。つかつかと歩み寄り覗きこんだ幸村の目に、アイスの蓋が映る。
「あー!それ、私のアイスですよ!何普通に食べておられるんですか!」
昌幸の傍にはアイスのカップが二つ。一つは今日買ってきた新品で、もう一つは昨日の食べ残し。
どっちも楽しみに取っておいたのに、昌幸は無情にも最後の一口を口に運んでいるところだった。
「ちゃんと蓋に名前を書いてあったでしょう?!」
「お、そうか?『ゆき』としか書いておらんかったので、昌幸の『ゆき』かと思うたんじゃがのう」
ぐ、と幸村は言葉に詰まる。確かに今日買ったアイスを冷凍庫に入れる時に、少しだけ急いでいたので幸村の村を書かなかった。
けど誰がわざわざ昌幸の下の一字を取って記名するというのだ。
「でももう一個にはちゃんと、ゆきむら、って書いてありました!」
「それは気付かなんだ。年を取ると目が不自由になっていかんのう」
嘘を言うな。
先日宵闇に紛れて十二連発の手持ち花火を道行く家康に正確に当てていた(危険なので良い子も悪い子も真似してはいけないと幸村は思う)視力を持つ昌幸が、アイスの蓋に油性マジックででかでかと書かれた自分の名前が読めない筈がない。
「父上!ほら!ちゃんとここに!」
机の上に散乱している諸々の中からアイスの蓋を掴み取り、昌幸の目の前に差し出す。しかし昌幸は怯むことなく
「そうは言ってももう食ってしまったものは仕様がないのう」
そう言って小憎たらしい笑みを浮かべただけだった。
父はいつもそうだ。
お中元に貰ったジュースだって、家族三人の壮絶な死闘の挙句取り分をしっかり決めたのに、幸村の大好きなぶどうジュースは真っ先に昌幸に飲まれた(兄も被害に遭っていた)。兼続がくれたお土産も、珍しく手を出さないな、とにこにこしながら箱を開けたら、残っていたのはお菓子の包み紙だけだった。しかもそれが貰った時と寸分の狂いもなく綺麗に並んでいたものだから余計に腹が立った。政宗に貰ったケーキなんて上半分が綺麗に食べられていて、土台のスポンジだけが見事に半分残っていた。
それならいっそ全部食べてしまえばいいのに、もうこれは悪戯というレベルではありませぬ!と幸村は思う。わざわざ此方の気分を逆撫でしているとしか思えないのだ。
しかも、全部にきちんと名前を書いていたのに、だ。
その時も「父上の目は節穴ですか!」と怒鳴ったが「実の父にその言い草はなんじゃ!」と横取りした菓子をもふもふと咀嚼しながら逆に怒られた。あの時も三日間口を利かなかったのに、昌幸には反省の色がちっとも見えない。
「もういいです!父上なんて知りません!家出してやります!」
昌幸はアイスの最後の一口を呑み込み、更に名残惜しげにスプーンを咥えながらいとも簡単に手を振った。
「そうかそうか。伊達の小倅に宜しく言っておいてくれ」
「分かりました!父上もどうぞお達者で!」
勢いよく襖を閉めた幸村は、これで父上も反省するかな、と襖に耳をつけて中の様子を窺ったのだが、「さて、幸村のアイスはなくなってしもうたし…これから誰のを横取りしてやろうかのう。家康の家にでも忍びこむか」という昌幸の一人ごとを聞いて家出の決意をこれでもかと固めたのだった。
「だってちゃんと名前書いてあったんですよ!」
「お土産だってケーキだって、私のものでしたのに!」
「大体名前を書かぬと食ってしまうと言ったのは父上なのに、自分がそのルールを破って…政宗殿、聞いておられますか?!」
珍しく怒りを露わにした表情のまま伊達家に乗り込んできた幸村は、まるで自分の家のように上がり込み、クーラーの設定温度を下げ、冷凍庫を漁って取り出したアイスに齧り付きながらそう言った。
「…聞いておるが…儂にはさっぱり意味が分からんのじゃが」
「ですから!私のアイスを無断で食べて反省もしないのです!あの父上には本当に心底呆れます!暇潰しの嫌がらせながら家康にすればいいのに!」
お主が食っとるそのアイスは、儂が風呂上がりに食おうと思うて楽しみにしてた奴じゃがな。あと昌幸の家康への嫌がらせを推奨するのも家族としてどうかと思うのだが。いや、家族だからか?
血は争えない、という言葉を政宗はそっと封印した。
「全く父上はひょうりひきょう過ぎます!」
そうじゃな、とは如何な政宗とて、答え難い。
「ですから家出をしてきたのです!政宗殿の家の子にしてください!」
「…は?家出?この年でか?」
「そうです!もう今日から私は真田の子ではありません!伊達幸村です!」
「………ちょっと待て」
伊達幸村かー、語呂が良いなー、いつか結婚したらそんな名前になるんじゃなーと政宗は一瞬現実逃避をしかけたが、今はそんな場合ではない。
何よりこの親子の喧嘩に巻き込まれるなど幸村への愛が無尽蔵な政宗とて真っ平御免だ。
「あのな、昌幸とて心配くらいはすると思うぞ?アイス食ったら帰れ、な?」
「心配などしませぬ!そういえば政宗殿に宜しくって父上が言っておられました!」
それは行き先まですっかりばれている、ということではないか。政宗は頭を抱えた。
これが唯のお泊りであれば何ら問題ないが、割と本気で幸村と添い遂げたいと願っている政宗にとって、昌幸はいずれ最大の関門になる筈だし、今ここで昌幸の自分に対する心証を悪くしたくないのが人情である。今更悪いも何もないのかもしれないが。
政宗のそんな複雑な気持ちなど知らぬ幸村は、政宗殿の家の子になるのが駄目だったら、三成殿のところに行きます!と息巻いている。石田幸村になります!とか言われたらショックだ。
意味合いは政宗が妄想しているのとは大分違っても。語呂も悪い気がするしな。
そんな訳で結局政宗が折れることになるのだ。これが惚れた弱みなのか何なのか、政宗には分からない。
「………一晩だけ泊めてやる。頭が冷えたらちゃんと帰れよ」
「もう冷えてます!ですから一緒に暮らしてください!」
あーそれはいつか儂が言いたかった台詞じゃな、と政宗はほんのり、泣きそうになった。
翌日、政宗から衝撃の事実を突き付けられた三成は、眉間に盛大な皺を寄せた。
「はあ?家出?アイスでだと?…俺にはさっぱり意味が分からん」
「儂もじゃて!何であ奴らはああなのじゃ!昨日も夕飯を作ってくれてな?これからは私が毎日お好きなものを作ってあげます、だと。政宗殿、お風呂沸きましたよーと言われた時には、儂幸せの余り死ぬかと思うたわ」
「………」
三成の眉間の皺が一層深くなる。
「朝起きたら朝食に弁当まで出来ておるんじゃ!家庭って良いよな…結婚が人生の墓場だとか言うた奴の愚かさを笑うてやりたいわ!」
「政宗、幸村の家出をどうこう言う前に、そのだらしない顔を何とかしろ」
三成が突っ込むと、政宗は崩した相好を急に引き締めた。
「でな、そんなこんなで儂は凄く幸せなのじゃが、やはりこういうことはきちんとしたいじゃろう?家出からなし崩し的に同棲して結婚、というのも問題あるしな。やはり周囲から祝福されての結婚がな…」
それでも、同棲、結婚のところでへらへらとした笑いを浮かべたが。
「いつから幸村を娶る話になったか聞いても良いか?」
「話は最後まで聞け!残念じゃが今の儂らには結婚に踏み切る経済力も社会的地位もない!もう少し幸村には待って貰いたい故、今は実家に帰したいのじゃが」
まだ学生である政宗に(勿論幸村も、今は関係ないが三成も兼続も、だ)経済力云々も糞もない。が、実に自然に真田家のことを「実家」とか言ってしまう辺り、政宗の脳内では完全に二人の新婚生活が幕を開けているのだろうけど、頭に血が上って家を飛び出した幸村を一先ず家に帰らせる、という最終目的は同じだから突っ込む必要はないか、と三成は思う。何よりも普通に面倒だったのだ。
「さっさと帰れ、と告げれば良いだけの話ではないか」
「馬鹿め!」
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは」
「まだ幸村本人に帰る気はないのじゃ!儂が追い出せばきっと貴様の家に向かうじゃろうが!それが駄目でも兼続がおる!仮に儂が先に貴様らに根回ししておいてもな、武蔵のところにでも行ったらどうする?清正に頼むかもしれん。或いは正則か…案外幸村の交友関係は広いぞ?」
「ならば好きなだけ家に置いてやればいいではないか。どうせ貴様の両親は家にいないのだろう?」
政宗が再び、馬鹿!と叫ぶ。
左近にすら言われたことないのに貴様如きに二度も言われるとは。いや、思い出したが左近にも言われたことがあった、畜生左近め。帰ったらもう一度引っぱたいてやる。政宗に加え、左近への思い出し怒りでイラっときた三成のことなど何処吹く風、政宗は熱弁を揮う。
「恋人が家出してきたのをこれ幸いと自分の家に連れ込むようなだらしない男だと昌幸に思われたらどうする?!儂が父親ならそんな男に娘はやらんぞ!」
「幸村は男だが」
「そんな瑣末なこと問題にならぬ!問題は昌幸じゃ!幸村は宜しくと言っていたと笑っておったが、あの親父、腹の中では何考えておるか分からんぞ?」
そうなのだ。
戦乱も死合いも、どころか宿命のライバルなんて言葉すら遠くなりにしこの平和な法治国家たる現代社会においてすら、昌幸は気儘に振る舞い過ぎている。
なんせ趣味は罠作りと、ついでに敵を作ること。
三成も一度、道端で前を歩いていた家康が落とし穴に嵌められるのをこの目でばっちり見たのだ。幸村に告げたら「ああ、その後煮え滾った粥をかけようとしていたので、私と兄で止めました。ちょっと馬が合わないからって大人気ないですよね」とさらっと返された。何でも子供の頃からそんなことを繰り返しているらしく、差し出がましくも家康の命の心配を本気でしてしまう三成である。
怖いから心配するだけだけど。それは良いとして。
「政宗、心して聞け。俺は恐ろしいことを考えてしまった」
「な、何じゃ」
「いいか。相手は真田昌幸だぞ?可愛い息子が自分の意思で家出したからって、その暇潰し、もとい怒りが素直に幸村に向くとは限らないのだよ」
昌幸から一番遠いところにある言葉が素直である。
三成の言わんとしていることを汲み取った政宗は顔色を失った。
「これは心証を良くする、しない、の問題ではない。これまでは家の中に幸村と言う遊び相手がいたからまだ良かっただろう。しかし昌幸の暇潰しが何処に向くか俺にも分からん」
「…これまで以上に家康に向くか、或いは」
「そうだ。息子をかどわかしたと難癖つけて貴様を狙う可能性は残念ながらある、ということだ」
「わ、儂、また命の心配までせんといかんのか?!」
既に政宗の頭の中には落とし穴に嵌ってもがいている己の姿と、それに良い笑顔で粥をぶっかける昌幸の姿が浮かんでいる。極端な話ではない。「また」と政宗が口走ったのにも理由がある。
思い出したくもないが、幸村と想いを通じ合わせた次の日そんなことが本当にあった。
毒矢も飛んできたし(持ち前の反射神経で何とか避けた)自宅の玄関にはいつの間にか釣り天井が設置されていた(辛うじて緊急回避で何とかなった)。翌朝起きたら枕元に刀が抜き身で置いてあって、「いつでも殺れるぞ」というメッセージに怖気だったこともある。
最近はすっかり平和だったから忘れていた。少しは認めて貰えたのかな、くらいは自負していた。
が、それも昌幸に確かめた訳ではないのだ。
今は戦国乱世か。違う違う、現代パラレルの筈じゃ、つか乱世でもそんなことあり得ぬわ!しかし、昌幸の逆恨みの対象になり命を落とす可能性はゼロとは言えぬ。
「…とりあえず幸村を説得すれば良いのじゃろう?今から尻に敷かれてどうする!」
「そうだ、頑張れ政宗。俺は言葉だけで応援することにする。いいか?俺を巻き込むなよ?」
結構酷いことを言われてはいるが、三成にぽんと肩を叩かれ、政宗は緊張した面持ちで頷くしかなかった。
かといって、お主の親父が怖いから帰れとストレートな主張も出来ぬ政宗は、その日一日幸村の出方を必死で窺った、つもりだった。
「だって父上がカレーをよそうと、私と兄上の皿にはいっぱい人参やジャガイモを入れるのに、ご自分は肉ばっかりよそっているのですよ」
「…お主が食い過ぎないようにしておるのじゃて…」
食い物の恨みが恐ろしいかどうかに関しては人それぞれだと思うが、少なくとも幸村を激昂させるのは大概が食い物関係である(その証拠にさっきから幸村は食べ物のことしか話していない)。
そのことは重々分かっている政宗が、苦しい言い訳をしながら昌幸を弁護しているのに、幸村ときたら聞く耳持たないのだ。あまりしつこく言って幸村の機嫌を損ねるのも嫌だから、政宗は強く出られない。己の命の危機より幸村に嫌われる方が怖い。こんなことで嫌われなどしないだろうし、政宗自身もこの状況を何処か楽しんでいる、という自覚はあるので余計に。
難なく幸村は伊達家の門を今日もくぐる。
「ただいま帰りました!」
玄関を潜るとすぐ隣で幸村がそんな声を上げる。
たったそれだけで幸福感に酔いしれてしまう政宗に、勝ち目はない。
「ほら、政宗殿も!」
「は?」
「ただいまって仰らないと」
「あ、ああ、ただいま」
「おかえりなさいませ」
重い重い不治の病にかかっている政宗は、これだけで昌幸の恐ろしさを忘れた。
人の家の上がりかまちに当たり前のように足を掛けながら振り返って笑う恋人は可愛かった。しかも、
「今晩は何を召し上がりたいですか?」
「い、いや何でも良いが…」
「何でも良いだなんて一番困る答えですよ?」
妄想の中で何百回と繰り返した遣り取りが今現実に!
矢でも鉄砲でも真田丸でも持ってこいってなもんである。
昼間は三成の尤もらしい(無茶苦茶だとは思うが昌幸を少しでも知っている者からすれば、心の底から尤もらしいのだ)理屈に及び腰になってしまったが、何、儂には毒矢も釣り天井も回避した実績がある。今更壁から無数の刃物が突き出していようが、落とし穴の上から粥をぶっかけられようが、何とかなろうて。
そんなことより夫としては(勿論正確にはそのようなものではないのだが政宗の脳内で話は随分と進んでいる)実の父に怒りを燃やす妻の援護をしてやらねばならぬのではないかなどと考え出してしまった。
この時、少しだけ理性があったらその後の不幸を回避できたかもしれないのに、全く恋の病とは恐ろしい。
(人の家の、であるが、やっぱり当たり前のように)幸村が冷蔵庫を覗き込みながらもう一度「何が食べたいですか?」なんて少しだけ甘えた声で政宗に聞くから。それで有頂天になった政宗に、なけなしの理性を発動させろというのも無理な申し出かもしれないが。
「父上、幸村の姿が昨日から見えないのですけど」
「おお、幸村ならな、家出するとか言うて今はほれ、伊達の小倅のところにおるわい」
「…家出?あの子が何でまた?」
「アイスがどうとか言うとったわ」
流石に手玉に取れる程ではないが、この世で唯一昌幸に正論をもって食ってかかれる信幸が、父とそんな会話を繰り広げていたなんて、政宗は知る由もない。
結局、その日も、幸村は政宗の家から帰らなかった。
最近はめっきり寒くなりましたが、これを書いた数日前は暑かったので、夏の話っぽくなりましたが、
そんなことはどうでもいいことだよね。
手持ちの連発花火は、当たると熱いというより痛いので困ります。
若い頃、んなもんを友人と打ち合いながら「天下分け目の決戦だね!」と遊んでましたが
それから数年後、まさか本当に天下分け目の決戦に自分が胸を熱くするなど誰が思ったことでしょう。
って本当にそんなことはどうでもいい。
長くなったので分けます。…分けるほどのもんじゃないって分かってるけどね…
(10/10/22)