弁丸はサル山の前のベンチに座って、ほとほと泣き続けていた。
こういう時に無理に喋ったり声をあげて泣くことは、余計恐怖を招くだけだと、弁丸は本能的に分かっているのだろう。時折小さくしゃっくりあげる以外は何もしようとしない。ただ梵天丸の手を固く握っているだけだ。
「弁丸、ちょっと手を離せ」
確か鞄の中に飴が入っておった筈。それを取り出そうと、梵天丸はゆっくり弁丸の手をはがしにかかったが、弁丸は頭を振るだけで手を離そうとはしない。
「大丈夫じゃ、儂は何処にも行かぬ」
顔を覗き込んでそう諭したが、弁丸は一向に動く様子がない。涙も拭こうとせずに梵天丸を見ているだけだ。
「ならばここでも握っておれ」
弁丸の手を自分の腰辺りに導き、服を握らせる。弁丸がほっと息を吐いたのを確認すると、梵天丸はゆっくり姿勢を変えて鞄の中から飴を取り出した。
「弁丸、口を開けろ」
あーんと開かれた弁丸の口の中に飴を放り込んでやる。
「ゆっくり舐めるのじゃぞ」
弁丸の大好きな苺の飴。こんなことを予測していた訳ではないが持ってきて良かった。再び弁丸の手を取って、ベンチに深く座り込む。
「大丈夫じゃからな。ここでのんびり左近を待つぞ」
上手く出来ているか自信はなかったが、精一杯笑ってそう言ってやる。少しは泣き止んでくれるかもしれない。
が、梵天丸の予想とは裏腹に、今度は弁丸は大声で泣き出した。
「ど、どうしたのじゃ?弁丸?」
弁丸は答えない。
「間も無く左近が来る。な、弁丸、大丈夫じゃ!」
指先が白くなる程手を握り締めた弁丸は、梵天丸の言葉にも首を横に振ったまま泣き止まぬ。
「飴が嫌だったか?どこか痛いか?腹が減ったのか?厠か?」
思いつく限りのことを並べてみたが、弁丸は縋りついてやはり泣くだけだ。
どんなに泣き止まねばと思っても、涙が止まってくれない。
確かに怖いし、お腹も空いた気がする。でもその所為で泣いているのかと聞かれたら、弁丸はきっと首を傾げただろう。
どうして自分が泣いているのか、分からないのだ。
梵天丸が一生懸命自分を慰めてくれたり、飴までくれたのが嬉しい。と同時に自分には何も出来ないのが歯痒いのだ。しかし弁丸にはそれを伝える術がない。
なきやまないと、ぼんてんまるどのが、こまってしまいます。
滲んだ視界に浮かぶ梵天丸は、弁丸が思った通り泣きそうな顔でこちらを見詰めている。それに気付くと、弁丸の涙腺は益々言う事を聞いてくれなくなるのだ。
「弁丸。大丈夫じゃから」
大声で泣き過ぎてけほけほと咳き込む弁丸の背を撫でても、一向に事態は良くならない。
儂はどうしたらいいのじゃ!
梵天丸とて全く心細くない訳などない。弁丸の泣き声に煽られて、梵天丸の目にも涙が浮かぶ。
どんなに酷く転んでも弁丸がここまで泣くことは今までになかった気がするし、いつもは何か食べればにこにこ笑っている弁丸である。それが今日は飴を食べさせても効果がないなんて。
駄目じゃ!儂まで泣けば益々弁丸が不安がるではないか!
正確には弁丸の泣いている理由はそれだけではないのだが、梵天丸には知る由もない。
乱暴に自分の目尻をぐいぐい擦って無理矢理涙を飲み込み、弁丸の頭を撫でようとした時、待望の声が耳に届いた。
「あー!いたいた!殿、こっちにいましたよ!」
「なに?!よくみつけたな、左近!だいじょうぶか、弁丸、梵天丸!」
ばたばたと近寄ってくる左近。そのすぐ後ろを正に転がるように佐吉が走ってきた。
突然の待ち人の登場に弁丸は泣きやみ、きょとんとしている。まだ状況が把握できていないようだ。
もういい。とにかく助かったのだ。梵天丸は弁丸の手は強く握ったままで、しかしその場にへたへたと座り込んだ。
左近を見てそれでもやっと安心できたのだろう、弁丸が左近に抱き上げられたまま大泣きし、佐吉と左近とそして梵天丸は再び弁丸をあやすのに少々体力を使わねばならなかったが
「では、行きますか」
今はもうにこにこ笑う弁丸を地面に下ろすと左近はそう言った。
「どこにいくのだ、左近?」
佐吉が訝しげに左近を見上げる。
「何処って、象を見に行くんでしょ?みんなで象を見に行って、そうしたら帰りましょうか」
そういうと左近は皆を一列に並べ手を繋がせた。これ以上迷子になられてはたまらない。
荷物を抱えあげた左近は、絶対に手を離さないように言い含め(さすがに皆真剣な表情で頷いた)、象に向かって行進する子供達のすぐ後ろを追った。
「おしっこがしたいのです!」
象の前について早々、象を見るか見ないかの内に弁丸がそう叫ぶ。
まだ少々目は赤く腫れているが、すっかり元気になったようだ。
左近は、同じくもじもじしている佐吉に弁丸と一緒にトイレに行くように促すと梵天丸の横に腰掛けた。
「左近、先程は迷惑をかけた」
象から目を離さずに呟く梵天丸に思わず苦笑する。
「いえ、左近も遅くなってすみませんでしたね。しかし助かりましたよ、弁丸をずっと見ててくれたんでしょう?」
「……弁丸を泣かせた。儂は何も出来んかった」
「そうですかい?」
左近はそのまま梵天丸を膝に乗せた。なるべく顔を見ないように頭を撫でてやる。
「弁丸は、あんたを心配して泣いていたように見えましたよ。まあ、迷子になったっていうのもあったんでしょうけどね」
「…そうか。弁丸に心配されるようでは儂もまだまだじゃな」
トイレの出入り口付近が騒がしくなった。おそらく佐吉と弁丸がそろそろ出てくるのだろう。
梵天丸が慌てて目元を左手で擦る。
「すまんかった、左近」
「ま、これから帰るまで弁丸のお守をお願いするでしょうからね。お互い様ですよ」
左近がもう一度梵天丸の頭に手を乗せた時、動物園内にけたたましい放送の音楽が響き渡った。
『佐和山よりお越しの島左近様』
「な、俺?」
異変を嗅ぎ付け左近の周りに集まる子供達。
『樋口与六君が正面入り口前でお待ちです、繰り返します…』
「ちょ、え?あ!本当だ!待ってください、いつからあの人いないんですかい?」
「馬鹿め!何をやっておるのだ、あ奴は!」
「与六も、まいごになったのか?左近」
「よろくどのがどうかなさったのですか?べんまるも、なにかおてつだいいたします!」
「もともと、どうかなさっていたぞ、与六は。なあ、左近」
「殿、それどころじゃないですよ!早く迎えに行かないと!何をし出すか分かったもんじゃない!」
プチパニックに陥った左近達は、それでも取るものもとりあえず正面入り口に向かい、そこで「ふむ!思いの外早かったな!私も皆が迷子騒ぎを繰り広げている間、存分にこの動物園を検分させて貰った!土産が買えなかったのは残念だが園内の至る所に義・愛そして毘という文字を落書きしておいた!気付いたか佐吉!」と叫ぶ与六と再会したのだった。
「ペンギンは非常に愛らしかった!まるで私のようだ!そうだ!今後はペンギンを上杉のイメージキャラクターに認定しよう!」
行きの車で酔ってしまった(そういえばそんなこともあった、随分昔のことのようだと左近は思った)佐吉を心配していた左近だが、車に乗り込むと佐吉はあっという間に寝息を立て始めた。
その後ろでは、梵天丸が弁丸を抱え込んで熟睡している。抱えられた弁丸の方から時折何か聞こえてくるが、多分寝言を言っているのだろう。
「よし!着いたら早速皆に報告だ!評定を開きペンギンについて議論する!」
与六一人が起きているだけで車の中はえらい騒ぎである。
皆って誰よ、評定ってどういうことよ。そう突っ込むのも忘れ、この朗々と響き渡る演説の中よくもまあこの三人は眠れるものだと感心せざるをえない左近である。
「いや待てよ、ペンギンも良いがシロクマも中々義心溢れる生物であったな!難しい問題だ。これは慎重に考」
突然止まった与六の演説に、左近は首を傾げる。さすがに相槌くらいは打つべきだったか。
動物園中に「義」や「愛」などと落書きした誰かさんの尻拭いにさっきまで雑巾片手に走り回っていたんでね、返事をする元気もないんですが。
ミラーを覗いて見れば、そこにはかくかくと大きく舟を漕ぐ与六。
電池が切れるように(むしろ、ヒューズが飛ぶようにか?)突然寝てしまった与六に、さすがの左近も困惑気味だ。
…文字通り起きている間はずっと喋っているんですねえ。
車を路肩に停めると、毛布を取り出し適当にではあるが皆に掛けてやる。ついでにぐらぐらしている与六をきちんと座らせ、弁丸を締め付けている梵天丸の腕を緩めてやり。
ま、寝顔は皆さん可愛いんですがね。
苦笑しながらなるべく静かに運転席に戻る。夕暮れの色が混じり始めた午後、静かになった左近の車はゆっくりと滑り出した。
「左近、おれはきもちわるいのだ」
「な、ちょ、殿、寝てた癖に酔ったんですかい?」
その左近の車から再び姦しい声が聞こえ出すのは、そう遠いことではないのだが。
〜おまけ〜
「べんまる、ただいまもどりましてございます!」
「おお、戻ったか弁丸」
誇らしげに玄関で叫ぶ弁丸を父・昌幸が出迎えた。
「べんまるは、くまをみました!それにおべんとうも、たべました!あと、さこんどのが、かべなどをふいておられました」
昌幸の周りをぐるぐる回りながら、弁丸の報告はあちこちに飛ぶ。それでも昌幸は気にせず、笑みを浮かべながら話を聞いてやっている。
「弁丸、熊はどうじゃった?」
「つよそうにございました!あれをとくがわのいえにはなてば、いえやすのくびもとれましょう!」
「そうか!それでこそ真田の子よ!」
また何か物騒なことを息子に吹き込んでいたらしい昌幸。それでこそ真田の父である。
「さて、後で左近と伊達の子倅に菓子折りでも持って行ってやらんとな。ほれ、迷子になった時には世話になったじゃろう、弁丸?」
この父はどこまで知っているのか。だが幼い弁丸はそんなことを疑問に思うこともなく
「はい、ちちうえ!」
元気に頷くのみであった。
こどもむそうということで、佐吉も弁丸も梵天丸も(わたし的に)可愛いところを一回くらいは入れようと思っていたのですが与六が。
最後まで全然言うことを聞きませんでした(笑)それでこそ、与六。
まさか与六まで迷子になっているとはびっくりです。
そして相変わらずな真田父。最近真田父対政宗の図式が普通になりつつあります。
ひとまず、動物園編はこれでおしまい。半月?くらいかかってるのかな?うーん。
(08/05/07)