「さて、皆さんお昼ご飯にしましょうね」
左近が面倒臭げにそう告げる。そんなことは気にもせず皆うきうきと準備を始める様が屈託無くて可愛いと思うべきなのか、それとも。
「佐吉、それではレジャーシートが風で舞ってしまうだろう!周囲に靴などを置いて重りにするのだ!こら!山犬!私の義シートに入るな!」
「ふん、頼まれても貴様のとこになぞ座るか。弁丸、儂の隣に来い」
と、まあ大変に喧しいのではあるが、もう左近も注意する元気もない。先程梵天丸が本気で蹴った背中が痛む。
殿も、もう足の傷のことは忘れているようだし。まあ良しとしますか。
何とか自分で自分を納得させようとする左近に弁丸の悲鳴にも似た声が聞こえた。
「てをあらうのです!」
手を洗わないでご飯を食べると死ぬのだと父上が言っていました!そう叫ぶ弁丸に一瞬周囲が混乱に陥る。
「何?!それは初耳だ!父母から貰ったこの命、そんなことで捨てられぬ!さあ、皆、速やかに手を洗いに行くのだ!あ、山犬はそのままでいいぞ?」
「馬鹿め!そのようなことで死ぬか!…死なぬ、とは思うが手を洗うのは肝要ぞ、弁丸」
食前の手洗いを習慣付けるのはいいことだが、それにしても真田の教育方針がいまいち分からない左近である。
あーでもあの親父さんなら息子に色々面白おかしく吹き込んでいても不思議はないですなあ。
「左近!左近もはやく、てをあらえ!」
皆、水道に一列に並んで手を洗う。その顔は一様に真剣で、左近は噴出しそうになるのを懸命に堪えた。
「こら、弁丸!しっかり手を拭かんか」
手をびしょびしょにしたまま走り回っている弁丸を梵天丸が捉えて、丁寧に拭いてやっている。
全く甲斐甲斐しいことで。そういう左近も佐吉にタオルを渡してやっているのであるが。
「お主、ハンカチは持って来んかったのか?」
梵天丸に尋ねられた弁丸は暫くむーと考え込んでいたが、自分の荷物のところまで一気に走り寄るとおもむろに鞄を逆さまに振り始めた。
「ああ!弁丸!あんた何やってるんですかい!」
左近が止めるのも空しく、弁丸の鞄の中のものは重力に逆らえず次々に落下する。
お弁当やお菓子、それだけならともかく、地面に散らばったのは小石やスーパーボール、何に使うつもりなのか分からないが将棋の駒が数個に空き缶、洗濯ばさみ、ちぎった葉っぱ、果てはヘビの抜け殻。
その中にくしゃくしゃになったハンカチとティッシュが見えた。
「あにうえがもたせてくれたのでした!」
「はは…そうですかい。見つかってよかったですなあ…」
適当に相槌を打つのは今日何度目になるだろう。
そのままお弁当を広げようとする弁丸を、左近は宥めに宥めて何とか再度手を洗わせることに成功したのである。
与六が茶を零したり、佐吉が大事にとっておいたハンバーグの最後の一切れを落とし泣いたりと色々あった弁当の時間が終わり。
そのまま暫く一休みして――一人だけ抜け目なく小遣いを持ってきた梵天丸が売店のアイスを買い食いした所為で、左近はそれ以外の三人のアイスを買ってやる羽目になった――まったりモードが五人を包むかと思いきや。
「左近、おれはこどもゆうえんちにいきたいのだ」
「べんまるのぽっきーがとけておりまする!」
「馬鹿め!まだ象を見ておらぬではないか」
「左近、義のアイス、堪能したぞ!だがまだまだ義が足りぬ!私が検分する故、もう一つ買ってみては如何かな?!」
こいつらの無尽蔵な体力は何処から出てくるのだ。
左近が子供達の秘められた力に改めて面食らっていると、ついに恐れていたことが起こった。
佐吉が、そして梵天丸と弁丸が、それぞれ別方向に全力で走り出したのである。
佐吉はこどもゆうえんちのゴーカートに乗るために。
梵天丸は象を見に。そして多分弁丸は、二人に釣られて。
「なっ!ちょ、ちょっと、殿!待ってくださいよ、ああー。弁丸!梵天丸さん!こら、待ちなさい!」
待てといわれて待つくらいなら、これまでの左近の苦労の八割はなかった筈である。
「はははは、この暴れん坊たちめ☆」
「あんたもー!笑ってないで少しは手伝ったらどうだ!」
お弁当も堪能したようだし、早めに帰ってごろごろしますか、という左近の企みは達成されそうにない。
こどもゆうえんちに行きたいと急に走り出した佐吉だったが、子供の直感とは恐ろしい。
地図などは何も見ていない筈なのに、佐吉が飛び込んだ門の中は正にこどもゆうえんちだった。
「とうぜんなれば、さしてよろこぶこともない」
な、左近、と得意気に振り返ったものの、誰もいない。
弁丸も、ついでに梵天丸も与六もいない。
そういえば先程左近が何か叫んでいなかったか。もしかしてもしかして。
俺は迷子になったのではないか?
慌ててきょろきょろ周りを見渡す。
さして有名でもない(そんなことは佐吉には分からなかったが)小さな動物園、しかも平日、タイミング悪く人影は見当たらない。
「さーこーんー!」
大声で叫んでみたが、自分の声に答えてくれる人がいないという事実は思いの外佐吉をぞっとさせるものだった。
「…左近?」
大声で叫ぶから悪いのだ。小さな声なら怖くないかも。そう思っても、やはり結果は同じ。
何だか寒くなってきた気がする。佐吉は小さな手をこすり合わせた。それにさっき擦り剥いた膝が心なしか痛い。
どうしよう。もうおれはだめだ。しんでしまうのかもしれない。
こどもゆうえんちにいきたいなんていわなければよかった。
左近のはんばーぐも、とらなきゃよかった。弁丸はきっとおれがしんだらなくだろうな。
よくわからないけど、与六のはなしもきいてあげればよかったのだ。梵天丸におこったりしてわるかった。
…ああでも、やっぱりもうだめなのだ。
さらばだ、さこん。おまえはしぬな。ちちうえとははうえと、あと、あにうえに、よろしくいっておいてくれ。
「…ふ、うぇ…」
耐え切れずその場にしゃがみこむと、ぼたぼた涙が零れ出した。
「さ、こん」
膝を抱えて本格的に泣き出しそうになったその時。
「ここにいたか!佐吉!この私にこれ程心配をかけるとは、全くお前という奴は!そんなお前に暴れん坊二号の名を授けよう!」
「だからあんた、何もしてなかったじゃないですか!折角の感動の再会に水ささないでくださいよ!ってか殿!大丈夫でしたか?」
なんてことだ、おれはもう、しぬかくごもきめていたのに!
何だか気に入らない。まず与六に突っ込む左近が気に入らない。それに与六が新しいアイスを持っているのが一番気に入らない。
「これか?これは左近が先程義の心を発揮して買ってくれたのだ!お前も買ってもらうといい!」
「売店の前からあんたが動かなかったから買ったんでしょうが!殿、お怪我はないですか?」
佐吉はまだ涙が残る目で左近を睨み付けると、差し出された左近の手を思い切り噛んでやった。
「ぐあああ!痛い痛い!殿!ごめんなさい!よく分からないけど、左近が悪かったです!」
「ふん、わかればいいのだ」
その後、遊具で遊んだりアイスを食べたり、ここぞとばかりに甘えまくる佐吉の所為で、弁丸と梵天丸の捜索は大幅に遅れることになった。
「弁丸はどうした?」
散々遊び、たらふくおやつを食べた後(途中左近は何度も弁丸たちを探しに行こうとしたのだが、その都度佐吉に噛まれ殴られ暴力に屈さざるを得なかった)おもむろにそう尋ねた佐吉に、左近は目を丸くした。
「いや、だから、殿が迷子になった時」
「おれはまいごになどなっておらん」
「何を言う!ああも立派な迷子など中々見られるものではないぞ、佐吉!お前はもっと迷子になった者として胸を張るべきだ!」
「…それはそれとして、あの二人はさっき殿と別方向に走って行ってしまったって言いましたよね。だから早く探しに行かないと…」
佐吉は顔色を変えて立ち上がった。
弁丸がまいごだと?(だから早く気付いてくださいよと左近が言った気がしたので、頭を叩いておいた)
あのこころぼそく、ふあんなじょうたいに、弁丸がおかれているだと!
はやくさがしてやらねば、かわいそうではないか!(多分梵天丸が一緒だから大丈夫でしょうという左近の声が聞こえたので、やはり髪を引っ張ってやった)
伊達に先程まで佐吉は「立派な迷子」をやっていた訳ではない。
現段階において、迷子の気持ちが最もよく分かる子供・佐吉は、弁丸を助ける為全力でこどもゆうえんちから飛び出したのだった。
「ちょ、殿!だからまた迷子になりますよー!」
今度は左近がきちんと追ってきていることを確認しながら。
一方の弁丸である。
「ぼんてんまるどの!いちごぽっきーです!」
「うむ。美味いな。弁丸も食べておるか?」
左近の予想通り、弁丸は梵天丸と一緒にいた。早い段階で迷子になったと気付いた梵天丸が弁丸の手を握って歩いている状態である。しかも
「くまは、なんどみても、よいものでございますな!」
二人は動物園の順路を逆走していた。
象が見たいという梵天丸の願いは、再度熊が見たいと主張する弁丸にあっさり斬り捨てられたのである。
それでも健気に弁丸の望みを叶えてあげようとする梵天丸。更にこのまま出入り口まで戻ればどうあっても左近達と合流できるだろうという余裕も垣間見られる。
それはそれで、迷子になった時取るべき手段の一つではあるが、その場からなるべく動かないという選択肢は二人にはなかったらしい。
むしろ弁丸など自分が迷子である自覚があるかどうかすら怪しい。しかし自覚がないなら黙っておけば良い。わざわざ弁丸の不安を掻き立てなくても、自分は上手くやれるという自信が梵天丸にはあった。
熊の檻を過ぎ、二人がサル山まで戻ってきた時。
「父上!サルがいっぱいおるのじゃ!」
少女が、父親らしき男に手をひかれ、はしゃぎながらサルを見ている。
「そういえばマゴはサルとダチだと言っておったのじゃ。マゴのダチはあれかのう?父上はどうなのじゃ?サルとはダチなのか?」
「…サル…折角の休日なのにうっかり仕事のことを思い出してしまいそうです…。ガラシャ、さっさと次の動物を見に行きますよ」
「どうしたのじゃ?父上にはダチはおらぬのか?」
のうのう、と、楽し気に父親に纏わり付く少女。一歩間違えれば深刻な話題に陥りそうな雰囲気ではあったが、それでもその親子は一見楽しそうに弁丸たちの横をすれ違っていく。
「…ぼんてんまるどの」
急に弁丸が足を止めた。
「どうした?弁丸」
異変に気付いた梵天丸が、それでも平素と変わらぬ表情で振り返る。弁丸がこれから何を言い出すか、梵天丸には何となく分かっている。
それでも先に自分が不安な顔をする訳にはいかないのだ。
「…わたしたちは、さこんどのと、またあえるのでしょうか?」
弁丸が小さな声で呟いた。
「さこんどのは、わたしたちをおいて、さきにかえったりは、なさいませんよね」
言うが早いか、弁丸の真ん丸な黒い眸からぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちた。
弁丸に迷子の自覚がないなんて、どうして自分はそう思ってしまったのだろう。
熊が見たいと駄々をこねたり、歩きながらお菓子を食べるなんて、普段の弁丸からは考えられないことだ。
もっと早く気付いてあげればよかった。弁丸は無理矢理はしゃいで、ずっとずっと泣くのを堪えていたのに。
「大丈夫じゃ。儂がついておる」
弁丸の手は離さぬまま、片手で背中をさすってやると、目を擦りながらそれでも弁丸は健気に頷く。
「…大丈夫じゃ。だからそう泣くでない、弁丸」
「はい…はい、ぼんてんまるどの」
唇を噛み締める弁丸に大丈夫だとしか言ってやれない自分が情けなかった。
その頃。
「あれ?象を見るとか言ってたんですがね。見当たらない、おかしいねえ」
「ええい!おかしいのはきさまだ、左近。さっさと弁丸をさがしだせ!」
「ちょ、ひど!べつに左近はおかしくないですよ、殿。それより何処行ったんですかねえ」
佐吉に罵倒されながらもその手をひいて、象の周りを疾走する左近一行であった。
迷子になることは割合最初から決まってました。まさか皆がなるとは思ってませんでしたが。
確か、迷子になって泣ける子供、泣けない子供を考えて悶々したような。
佐吉は、怖くなったり心細くなったら素直に泣ける子供、
弁丸は素直には泣けないけどどこかで泣いて発散することを知っている子供、
そして梵天丸はそれができない子供です。
(08/05/07)