三十二、

 

 

もしもこのまま物語の幕が下りたら、めでたしめでたしとは誰も付け加えないのだろう。妲己はおどろおどろしいまでにどんよりとした空を見上げながら思う。
 
卑弥呼を連れ来る為に久しぶりに訪れた異世界の空は美しかった。
それは確かに抜けるような青で、妲己には暫くそれが青だと思い出せずにぼんやりと仰ぎ見るだけだったのだ。
 
私は、この世界と何より自分の為に、この子にぴったりの空を奪ってしまった。自分の傍らで地に足を投げ出しぺたんと座る卑弥呼を見るのが辛くて、妲己はまた空を仰ぐ。
荒れ果てていることを運命付けられた大地。
人の営みによって草が芽吹き、作物が実っても、集落から一歩足を踏み出せば生まれたての世界はこんなにも茫漠としているではないか。
 
「なあ、妲己ちゃん。こっちの小さいお日様も沈むんやな」
 
そして二度と生み出されぬ夕暮れ。
初めて会った時には青かった筈の空は真っ赤に染まっていた。
 
でも本当は、あの馬鹿みたいに良い天気の中、注ぐ光の下で彼女と会いたかった。
 
「陽が暮れてくの見るのは、好きや」
「何でそんなこと言うのよ」
「んっとな、何か今日も一日頑張ったなあって思わへん?」
 
分かっているのかいないのか、卑弥呼は見当外れな理由を言っただけだった。
 
「オモムキがあるんやて。政宗が幸村に言っとった、お主はオモムキが分かっとらんて。オモムキって何や聞いたら、ジョーチョがしみじみやて」
「あー。はいはい」
 
幸村と話している政宗にそんな面倒臭いことを分かり易く説明しろと言う方が無理というものだろう。そんなことはどうでもいい、問題は、それは向こうの世界の話だってこと。
まだ卑弥呼には分からないだけで、いつかきっとあの夕暮れを懐かしく思い出す瞬間が来るに決まってる。
その時私は、どうすればいいんだろう。
 
今みたいに卑弥呼から目を逸らして見上げるんだろうか。このお世辞にも美しいとは言えない、嫌になるほど際限なく広がる紫の空を。
 
「政宗は幸村とおると阿呆やけど嘘は言わへんよ?オモムキって褒め言葉やろ?」
「うーん、褒め言葉と言えば一応褒め言葉ね」
「妲己ちゃんの髪の色とお揃いやんか」
 
それは余りに唐突な感想だったので、この忌むべき空の色を指しているのだと気付くまで随分時間が掛かった。
 
「…そっか」
「そうや」
「――うん、そっか」
 
いつか、何百年も経ったら、自分達はこの世界の神話になるのだろうと妲己は思う。あの人達がそうであったように。
例えば遠呂智様は魔王なんかじゃなくてすっごいカミサマになるのよ。混沌から世界を生んだ、なんて見てきたように言われちゃってさ。私や卑弥呼はさしずめ遠呂智様の忠実な僕、とかね。政宗さんも、なるのかしら?その傍らには幸村さんの像とかが祀られたりなんかして?ちょっと待ってよ、幸村さんとか語り継がれる途中でうっかり性別変わらないかしら?それどころか真田の姫にべた惚れな戦神とかに政宗さんがなっちゃったりしたらどうしよう。今のうちに偶像崇拝とか禁止しておくべき?でも姫の方が強い神話なんて聞いたこともないから大丈夫かもしれないし――多分女カも、荒れ果てた大地を前に、そんなどうでもいいことを考えていたに違いない。
 
「そうね、きっと」
「な?キレイやろ?」
 
伏犠と二人だけで辛うじて生き残り、打ちひしがれた彼女を支えたのは、他の何でもない、世界の美しさだったのだろう。
あの空が自分の髪の色とおんなじ、そんなことで人は世界を愛することが出来る。
 
確かにかつての自分は、最愛の夫がいる、それだけで世の中の全てを許していたというのに。
忘れたいなんて喚きながら本当は、そんな簡単なことまで忘れてしまっていたのだ。もう二度と会えぬであろう遠呂智のことを思うと少しだけ胸が締め付けられた気がした。
あの人は確かに、神界の者からすれば紛うかたなき悪だった。
だが彼の作り出した混沌の中で、人は必死に剣を振るい、友との再会を喜び、当たり前のように想い人に変わらぬ愛を注ぐ。なんだ、幸村さんが言った通り、本当は皆知っていたのね。私が一番忘れてただけ。
 
卑弥呼がいつかあの世界の夕暮れを思い出す時には、戻れぬことを一緒に泣きながら言ってあげよう。
あの世界にもう歓迎されぬ私にすら、それは相変わらず酷く酷く美しいものだった、と。
 
大丈夫、この空と同じ髪の色、その誇りは絶対に忘れない。
 
「でもやっぱり、御伽噺は『めでたしめでたし』がいいわよね」
 
ん?と振り返る卑弥呼の手を引いて立たせながら妲己は笑う。地面には卑弥呼が座ったあとが僅かに残っていて、でも明日になれば消えてしまうその痕跡は少なくとも今はこうして存在しているってだけのこと。
それを愛おしく思うかどうかなんて、私の勝手じゃない?例えば、たったそれだけのことにどんな意味があるのか、だとか。
 
「何か言うた?妲己ちゃん」
「ううん、明日も頑張ろうねってこと」
「せやな!がんばろな!」
 
卑弥呼がくんくんと鼻を動かした。いつの間にか辺りからは煮炊きする香りが漂ってくる。「美味しそうですねえ」場違いなほど呑気な幸村の言葉が聞こえた気がした。
きっと政宗は得意気に、如何に自分が手を尽くして幸村の為だけにこの夕飯を用意したのかを語って聞かせるのだろう。
口いっぱいに飯を頬張る幸村は、そんな政宗の言葉なんか完全に無視して目の前の食事に一生懸命に違いない。
 
それは、奥州の大名や真田の息子という立場では決して許されなかった、だがこの世界では既に日常の光景。
とはいえ、一癖も二癖もある人物ばかりの世界では小競り合いなんて絶えないだろうし、乱世と呼ばれる時代も来るのかもしれないし、いずれは自分のように世界から排斥される者も出てくるかもしれないのだけど、きっとそれから先は別のお話。
 
「今日も美味しそうなご飯やな!」
「な!こら!何故貴様はいつもいつも家で飯を食うていくのじゃ!偶には幸村と二人でゆっくり食わせろ!」
 
二人の怒号がひとしきり響き渡った後(相変わらず食事中の幸村は静かだなあと妲己はある意味感心する)「いただきまーす!」という卑弥呼の声が聞こえてきた。そう、今はこれだって既に日常なのだ。
 
卑弥呼を連れ戻す為(というのは唯の口実だ。
妲己だって政宗の作るご飯は美味しいと認めているのだから、卑弥呼にかこつけて相伴に与れるなら何の異論もない)館の戸を潜った妲己の耳に幸村の声が届いた。
 
「政宗殿、私は幸せです」
 
もしかしたらそれは、目の前の美味い飯をたらふく平らげた満足感から発せられた一言だったのかもしれないのだけど、それを盗み聞く形になってしまった妲己は足を止めざるを得なかった。
それは現状を報告する言葉とは似ても似つかぬ、まるで祈りのようだったから。
ああ、この人は本当に政宗を愛しているのだ。
そう思ったらかつての夫だった男の面差しが鮮明に脳裏に浮かんで嗚咽を堪えるのに苦労した。
 
自分が夫を愛したように、幸村はきっと好きで好きで堪らないのだろう、目の前にいる政宗も、あの世界に置き忘れてしまった政宗のことも。どんなに勇猛な武将だろうが、狡猾な大名だろうが、人は祈る。
二度と会えぬ、最早消息を窺い知ることも出来ぬ者を、少しの悔恨と親しみをもって思い出す時、人は、ううん、人だけじゃなくて皆祈るのだ、そう妲己は思う。魔王も、神でさえも。
「私と同じような幸福はなくとも、あちらの私たちも幸せなら良いと思います」
きっと幸村はそう言いたかったに違いない。
 
ねえ、私もかつては唯の人だったの、小娘だったのよ。そして今も人でありたいと願うわ。だから私も少しだけ祈ってあげる。
無力な神に見守られるだけのあの世界がどんな歴史を紡ぐのか、もう私には分からないけど。
そんなこと、もうどうだっていいことじゃない。
 
 
 
卑弥呼の小さな茶碗の隣に何だかんだで用意されているであろう自分の椀のことを想像し、妲己は少しだけ紫の空を振り返ると静かに笑って歩き出した。
愛しい者のことを思いながら愛しい人達と見上げる景色に、誇りなんてご大層なもの入る隙、要らないじゃない。
 
自らの誇りに気付かせてくれた、でも今はまだ頬を飯で膨らませているであろう少女がいつかそのことを理解できるように、鼻歌交じりで、でも真剣に、まるで無力な人のように心から祈りながら。

 

 

(完)

本来であれば叶いそうにない、おんなしお家でおんなしご飯を食べて毎日を過ごすダテサナという(要するに二人を結婚させたいってことだろ?)夢が
遠呂智世界だったら叶えられそうな気がした、と思ってしまったのがそもそものはじまりだったのですけどね!
無駄に長くなった割に、いくつか消化できてないあれこれも思い当たるのですが、これにて終わりです。
お付き合いありがとうございました!
(11/05/07)