三十一、

 

 

馬超は慣れた調子で一度だけ鞍の据わりを確かめると、ひらりと馬に跨った。
 
「本当に行くのか?」
 
趙雲の問いに馬超は惜しみない笑みで答える。それは何度も何度も考えていたことだ。
 
 
 
昨日劉備が姿を消し、城内は一時大騒ぎになったが、人騒がせな城主は茶を片手にひょっこり戻ってきた。
彼の持っている茶は倉から持ってきたのでもなければ、献上されたものでもない。城下の商人に剣を売り、その対価としての品物である。
「私の剣に見合うだけの茶を分けてもらったのだ。やはり茶は高価いな」と劉備は言う。
心なしか馬超が知る相場より茶の量が随分多い気がしたが、勿論彼は黙っていた。刀の目利きは出来ても、茶葉の価値など商人ではない自分に分かろう筈もない。
 
「私の後悔は、多分ここから始まっていると思ったのだ」
 
得物を何故茶に替えたのか、蜀の皇帝の座はどうなるのか、そもそも劉備は剣を捨てどうするつもりなのか、それらのことはさっぱり分からないながらも劉備の後悔とやらは何となく分かった気がしたので、それで良いと思う。
 
この時、馬超は蜀を出ることをはっきりと決意した。
 
父と弟の死、曹操への最早宿怨なのか執着なのかすでに判別も出来ぬ拘り、全てが少しずつ薄れてしまい、馬超の手に残っているものは槍だけだ。その槍の腕でか弱き民を守りたいなどと殊勝なことを思った訳ではないが(表向きはそういうことにした)今の蜀に最早武人など必要なかろうと思う。
黄忠があの戦の後、やはり同じようにこの地を後にしたのは、きっと同じような思いがあったからだろう。
手始めに魏にいるであろうあの若造に殴り込みじゃ!と彼は息巻きながら荒野の果てに消えた。全く元気な爺さんだ、と馬超は半ば呆れながら、昨日劉備に淹れてもらった茶の味を思い出す。
 
出て行くことは趙雲にしか伝えていなかったが、何故か諸葛亮も見送りに来ていた。相変わらず我らが軍師殿は抜け目がなくて結構だと思う。
 
「道中、御無事で、と言うことくらいしか出来ませんが」
 
その道中がこの世界の馬超の生涯になるのだろう。だとしたら諸葛亮のそんな言葉も、あながち悪いものではない。
 
「本当はこうなると分かっていたんだろう?軍師殿。あの戦いが何だったのか、これからこの地がどうなるか分からなくても、俺がいずれこうすることくらいは」
「私にとってあなたは馬超殿そのものですから」
「そうか」
 
馬超は短く答えて手綱を握った。
 
「しかし…最後となると何を話したら良いか分からないものだな」
「…は?別に俺は最後だとは言っていないぞ」
 
趙雲と諸葛亮が一斉に唖然とした顔をする。
 
「別に逃げる訳ではないのだからな。また近くまで帰ってくれば此処に立ち寄ることもあろう」
 
そう言った瞬間、異国の若い将が言っていたことをふいに思い出した。
彼と同じように、自分は随分気楽に「帰る」なんて言葉を口にしたものだと思う。いずれ人が少しずつこの都から出ていって、残骸の一つもない荒野となっても、自分は言い続けるのだろう、ここに帰ると。
馬超にとって此処は、この世界の始まりの場所だ。趙雲と諸葛亮の反応には少々不満だったが。
 
「何でそんなに残念そうな顔をする?」
「いや、残念な訳では。てっきりもう二度と会うこともないかと思っていたので気が抜けただけだ」
「誰かさんの所為で何だか変な見送りになってしまいましたね」
「俺の所為ではないと思うが」
 
これ以上話が変な方向に行かない内に、と馬超は思い切り馬の腹を蹴った。
一度だけ振り返ったが、小さくなった二人が馬超を見ながら談笑しているのが見えた。砂を巻き上げるだけの風は、勿論二人の会話など伝えてはくれない。
だがきっと諸葛亮が尤もらしいことを言い、趙雲はそれに生真面目に頷いているのだろうと思った。
蜀が誇る天才軍師という添え書きがなくなっても、一身を胆にして働かなければならない戦がなくなっても、彼らは諸葛亮であり趙雲であり続けるのだから。
 
「本来は、こういうものであったのかもしれませんね」
 
諸葛亮が羽扇を弄びながら呟く。
 
人の別れとは。
己の策を授けた武人の背を見送り続けてきたかつての軍師は、踵を返しながらこう言った。
 
「決して真摯になり過ぎることなく、なんとなく無事を祈りながら――人の別れとは本来、こういうものであったかもしれないと思ったのです」
 
至極当たり前のことだと自分が頷くのは、きっと信頼できる軍師殿が発した言葉だから、という理由だけでは片付かぬのだろう、と趙雲は馬超の背を眺めながら思う。
彼が一瞬だけ此方を振り返った。
それは何の覚悟も背負っていないかのような、随分気軽な、そして自然な動きに趙雲には見えた。

 

 

蜀は蜀で、例えば馬超が出て行くこともあるだろうね、という話です。

劉備とお茶の話は、かの名作、吉川三国志のシーンより。
劉勝の末孫であるという誇りと共に先祖代々受け継いできた剣を、劉備は商人に譲り、
当時は高価だった茶葉に換えてしまいます。お母さんへの土産の為に。
それを知った劉備の母は、息子の不甲斐なさを嘆き、折角の茶を川に投げ捨ててしまう、そんなエピソードです。

劉備のお母さんのあまりに苛烈な反応に「そりゃないぜママン」と思いつつも、
これが劉備の志の元になっているのかもと考えるとなんとも言えないエピソードなのですけど、
「もしもあの時親子二人で美味しいお茶をのんびり飲めたら」というあり得ない願いを、
後悔でもいいから、劉備に言わせたかった、というのが正直なところです。
(11/05/02)