三十、

 

 

だからもう少しお待ち下さいと言っている、と三成は口の中だけで返した。
共に図案を覗き込んでいた清正はそわそわし始め、正則は「っしゃ!」と言ったなり、鋤を放り投げて走って行ってしまった。
 
「あの馬鹿。とりあえずキリが良いところまで、という言葉を知らぬと見える」
「そう言ってお前はいつも休憩する機会を逃してんだ、馬鹿。あんまりおねね様に心配かけるな」
「そうですよ、殿。大体こんな大仕事焦ってやったっていいことありませんって」
 
清正と左近に両脇から責められた三成が、そんなにおねね様が怖いか、と二人を睨みつけた瞬間、ねねの催促が荒野に再び響き渡った。
 
「こらー!三人とも聞こえてるの?お昼御飯だって言ってるでしょう!御飯は皆で仲良く食べなきゃだめだよ!」
 
音量を落とすことなく、ねねは正則に「手を洗ってきなさい!」と叫んでいる。
溜息を一つ漏らし、三成は立ち上がりながら裾の砂を手で払った。
 
「昼飯など正直どうでもいいではないか」
 
とは、大声では言えない(聞こえないように言ってはみたけど)。三成だって怒ったねねは怖いのだ。
 
最近の自分は忙しくて清正や正則と喧嘩している暇もない。それが良いことか悪いことかは分からない。
少なくとも彼女の説教だけは収まるかと思ったのだが、相変わらずねねは、やれ食が細いだの、夜は仕事なんかしないできちんと眠る時間だの、これまで以上に三成に構うようになった。
三成の小声を聞きつけた左近が、振り返って口にする。
忠言、というほどのものではないが、左近の意見は、いつだって三成にとっては忠言だ。主従など意味をなさないこんな生活の中でも。
 
「左近も殿はもう少しきちんと食べた方が良いと思いますけどねえ」
「俺が腹を減らして倒れたことなどあったか?」
「そうじゃなくて、おねね様の仰ってることは基本ですよ、基本」
 
だから殿も、わざわざこんなことしてるんでしょう?
左近の言葉は、三成も忘れかけていた、そんなことを気付かせてくれるから。
 
 
 
遠呂智が討伐されたという報を聞き、三成はそれまで身を寄せていた魏を飛び出した。何故そんなことをしたのか、正直、自分にも説明が付かない。
なんとなく、それは本当になんとなくのことだったけど、遠呂智が死んだ筈なのに自分が元の世界に戻らなかったという落胆に紛れた感情には、そこはかとない喜びがあったような気がする。
それは戦の勝利の時にも、見事に仕事を終わらせた時にも感じたことのない、もっと単純な――大袈裟に言えば、自分はまだ生きている、といった類の喜びだった。
 
と同時に思う。この世界は何なのだろう。遠呂智は、本当に倒されるべき存在だったのか。俺はこれからどうしたら良いのか。
 
名も知らぬ小さな村に身を寄せ、最初に会ったのは正則だった。
「生きていたか」と昔馴染みの喧嘩相手に呟いた言葉は、自分でも随分感慨深い響きだった。「おう、お前もな」と答えた正則の声も似たようなものだったから、あの馬鹿も同じような気持を抱いていたのだろうと三成は思う。
そこにおねね様をつれた清正がやって来て(実際は清正を引き摺ったおねね様、という印象に近かったが)いつしか左近が合流した。細かいことなど覚えていないし、それは多分、どうでも良い話なのだろう。
 
秀吉様だけがいない、しかしあの頃のような暮らし。
 
何でも出来るような気がして、荒野の開墾を言い出したのは三成だ。この世界で生きることを決めたのだから、食を少しでも確保し蓄えを増やすのは当然のことだ、と主張する三成に、清正も正則も反対しなかった。
あの時は口にしなかったが、それをもっと格好良い言葉で言うのであれば、きっと自分はこう言いたかったのだろうと思う。
 
「人が生きている以上世界を広げようとするのは、当然のことだ」
 
遠呂智によって前の世界から切り離された村の様子は、今や随分様変わりしていた。粗末なものでも構わぬ、毎日きちんと飯を食い、皆で身を寄せ合って眠る。
そうやってごく当たり前に日々を過ごしていこうと思ったのは、左近の言う通り、普通のことを主張するねねの力が大きかったのかもしれない。
 
紫の奇妙な色の空と、土埃の上がる大地の合間に、それでも自分達の日常はあるのだと思いたかった。
 
「お、水路を広げとるんか。随分大がかりじゃな」
 
底抜けに明るい調子で掛けられた声に三成は勢い良く振り返った。
自分は何でも出来ると錯覚を覚えるほど充たされていた、前の世界のあの頃の暮らし。それにそっくりな今の毎日に唯一足りなかったもの。
 
「秀吉様!」
 
三成は掌の砂を払うことも忘れて声の主に飛びついた。らしくない、とは思ったが、それどころではなかった。
おねね様がいる。左近もいる。俺達が力を合わせれば無敵だ。言うまでもない、俺と清正と正則と、そして秀吉様。何でも出来ると心の底から思った。
例えば、この訳分からぬ、自分の大好きな理では量り切れないこの世界で生きていくことだって。
 
「こりゃ随分熱烈な歓迎じゃな」
 
戸惑う秀吉の背後で唖然としている清正が、両手に握り飯を持っているのが何だか間抜けだった。「三成、変な顔!すげえ変な顔!」と言う正則の声は、泣き声だった。左近が緩んだ口元を隠すように、茶を啜る。
 
「…御前様」
「ねね、儂の分の握り飯はあるんか?」
「勿論だよ、御前様。足りなかったら、いくらでも握ってきてあげるからね」
 
ねねは、声を詰まらせて何とかそれだけを告げる。
 
 
 
「三成、こいつは残してやったらどうじゃ?」
 
三成と清正が引いた図案を覗き込んだ秀吉は、握り飯を頬張りながら木を指差した。あれだけの大木を掘り起こすのは難しいから三成もそうしようとは思っていた。
が、秀吉に言われて始めて気付いた気がした。それが見事な、桜の木だということと、その蕾がほころびかけていることに。
 
春が、来たのだ。
遠呂智の作った世界に飛ばされて何日経ったかも分からぬほど、多忙な日々だったかもしれないが、それでも春は来たのだ、この世界にも。
花見が大好きだったかつての主は、こう言った。
 
「きっと綺麗な花を咲かせてくれるじゃろう。その時は、ねね」
「分かってるって、御前様!任せといてよ!」
「…そんなことより、三成。ここの水路の幅」
 
清正が図面を指差し、三成と左近は覗き込む。正則だけは難しい話は分かんねえと身を引いたが、真面目腐った顔で清正の話を聞く自分も左近も、握り飯に夢中な振りをしている正則も、それをにこにこと見ている秀吉とねねも、勿論「そんなことより」と言った当の清正でさえ。
 
皆が皆、満開の桜と、文句なしに旨そうなねねの弁当を思い浮かべていたに違いなかった。

 

 

随分前に秀吉様を登場させたままだったのですけど、例えば、帰ってきました、という話です。
もしかしたら再び信長様のとこに行くのかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、それはまあ、どっちでもいい。
佐和山主従が一緒にいるとこを遠呂智では見られなかったので、一緒にしてみたよ!欲望のままに!

戦って何とかしたのが伊達と真田で、でもその頃子飼の皆さんはこんな感じで実はダテサナ関係なしに何とかなってました、という曖昧な話。
(11/04/27)