二十九、

 

 

これはやはり普通の兵ではない、幸村は槍を薙いだ。感触は空を掴むようで、斬っても一滴の血すら飛び散らない。彼の槍が一薙ぎで倒せるのは、所詮人だけだ。
人の形をしているものに何度も何度も槍を突き立てる感触は、どう考えてもあまり気持ちの良いものではなかった。
しかし違和感も同時に覚える。それが何かは分からないが。
 
全く同じ戸惑いを、同じように戈を振るう月英も感じていた。
幾つかの槍が彼女に向けられ咄嗟に払うように戈を振り回した。その途端目の前に展開していた兵がばらけ、数人が背後に回り込んだのだ。
思わず身を固くしたが、月英の身体に彼らの矛先が届くことはなかった。
 
「…何故?」
 
それはどんなに戦に慣れてない者ですら分かる、完全な隙だった筈である。だがそう思った瞬間、剣を振りかざして数人の兵が再び追い縋ってきた。もう考えている余裕などなかった。
 
 
 
政宗は本陣で床几を蹴倒して立ち上がった。我ながら随分間抜けな顔をしているとは思ったが、それを取り繕う余裕などない程意外だったのだ。
 
「貴様、何故…」
「戦いに来たのではありません」
 
たった一人で政宗の陣に現れそう言ったのは諸葛亮だった。
 
「何が正しいのか私には分かりません。しかし、かつての私が嫌悪感と罪悪感に苛まされながらも戦場に立ったように、そうせねばならない気がしました」
「…随分重い腰じゃな」
「ええ、まだ上がらないのですから」
 
政宗は暫く諸葛亮を睨めつけていたが、大きな嘆息を一つ漏らすと背を向け陣を出て行く。
 
「何処へ?」
「勝手にそこに居れ。儂は出る」
 
儂は総大将でも何でもないぞ。大体策も何もなく正面から斬り合うだけの戦に、本陣も大将も要るか。
 
「無謀だと思うか?」
 
いえ、と天才の名をほしいままにした軍師は、羽扇で口元を隠しながら静かに首を振った。
 
「最上の策かと。きっと私でもそうすると思いますから」
 
 
 
 
 
神丹兵は、女カの忠実な下僕だ。忠実すぎる程の、と伏犠は薄笑いと共に思う。
女カの動揺は物ともしないが、女カの思う通りに彼らは動く。彼らと言っても人間でも何でもない、神界の道具である。
 
「女カ、もう一度確かめたいことがある」
「そうか、私も貴様に聞きたいことがある」
 
周囲の喧騒が大きくなっていく。
振り返ろうとはしない女カを無視して伏犠は、その肩に手を乗せつつ、一言一言をはっきりと区切るように言った。
 
「もう良いと思っているのではないか?軍を退こう、女カ」
 
神丹兵は元より言葉など発しない。前線の辺りから聞こえてくる怒号は、全て人の子によるものだろう。
それは圧倒的な存在感だった。
それでも女カの耳は伏犠の言葉を正確に聞き取ったらしい。勢い良く振り返った。この顔は見たことがある。
あの大災厄の後、意識と体力を取り戻した女カをかつての集落に連れて行き、彼はやはりこうして女カの肩に手を置いた。それでも彼女の混乱は収まらなかったが。
 
「ずっとおかしいと思っていた。消えることに戸惑いも抵抗もあろうが、それをここまで」
 
女カは一旦言葉を区切った。無思慮で、判断力に欠け、往生が悪く――つまり。
 
「…それをここまで強くしたのはお前か、伏犠」
 
伏犠は何も言わなかった。
 
「蜀の連中は見た、と言った。蜀だけではない、魏も呉も、日ノ本の連中も、最後に日常を過ごす自らの姿と己の生涯を見たと言った。あれは――お前が見せたのだな」
「そうだ、と言ったらどうするつもりじゃ」
 
ああ、伏犠はいつだって、嫌になるくらい正しいと思う。
だが私だって間違っていないだろう。数多の者の行く末を案じることだけが私の使命だった筈ではないか。
 
「あれはな、餞別変わりのつもりじゃった」
「餞別というには大掛かり過ぎたな」
 
まあそう言うな。お主の気持ちは分からんでもない。
と、決まり悪そうに呟く伏犠を、女カは見据えた。伏犠は苦々しく笑う。
 
「分からんでもない、だと?」
「慈愛に満ちたとは言えぬがな。儂なりに激励したつもりじゃて」
 
二つの国の混乱期が生んだ英傑を集結させたのは遠呂智だった。彼の力を持ってしても異世界からまるごと連れてくることは出来なかったから、きっとああした手段を取ったのだろう。即ち、もともと一つだった人間を無理矢理、二つに分けて。
伏犠は知っていたのだ。遠呂智が何をしているか、彼だけは知っていた。伏犠がそのようなことが世界に起こっている、と思えば、それは正しいことなのだ。
だから元の世界の自らの姿と生涯を、誇示するように彼ら自身に見せつけた。勿論全員に見せるなど、伏犠の力をもってしても無理だった。
それでも、せめてこれだけでも。自分達が動き出さねばならなくなる前に。乱暴なやり方だと十二分に自覚した上で。
絶望に打ちひしがれ死を望む者が出ることも覚悟の上で、それでも。
 
「何故激励などせねばならぬ。我々の範疇から飛び出そうとした者は最早敵に過ぎぬ、そうであろう?」
「儂は見たかっただけなのだ、女カ」
「…何をだ」
 
そう尋ねながらも女カは、身中から湧き上がってくる震えを抑え込むことが出来ない。
確かに見たいと思っていた。手の届かぬ数々のもの。世界の範囲など考えることもせず、只管生きることに必死だった日々。決して愉快ではなかったが、楽しかった。
神になれ、その手を取った瞬間、仮令それが嘘のように消えうせてしまったとしても。
 
「親を殺し、神を殺した果ての地平」
 
伏犠には最早想像も付かない、血生臭い栄光と、漂う悔恨と、それから――。
 
「儂らの手が届かぬところに在る者が作る世界は美しいのだろうと思ったまでじゃ」
「だが…あれは!」
 
女カは叫ぶ。突き付けられた剣を必死で薙ぎ払い、息を切らせて戦場を這い回っている彼らは。
 
「こんな世界で、あんな風に戦って、何が残る?覚えているだろう?」
 
私は、何を覚えているのだろう、と女カは取り乱しながら頭の何処かでぼんやり思う。
 
「乱世などとは及びも付かぬあの過酷な世界で生きろと言うのか?あれは――」
 
お主は本当は知っておるのではないか?伏犠が問い掛ける。
 
それはこの不自然な世界が自然に動き出す為の最後の欠片。
私は置いて行きたくなかっただけなのに、あの子達を。背負うのは私だけで充分だ。
 
「二人きりの、一旦滅んだ儂らのあの世界に、再び時を作ったのは、お主じゃな?女カ」
 
あるいは、そうかもしれぬ、と女カは頭を振りながらも思う。
伏犠が言えば、それは恐らく正しいことなのだ。
 
この世界はもう動き出したのだろう。
 
それは千年よりずっと前の記憶。この男を兄とは思うまい、共に日常を作るのだ。
自分の裡に突如沸きあがったそんな決意を後押ししたものは一体何だった?かつての疑問が急速に膨れ上がるのを女カは感じた。
今ならきっと、思い出せる。必死で戦って、あれは、あの子達は。
 
「なあ女カ。お主の生み出したものは強い。ほんに強いのう」
 
この身体を使って人の祖を生み出したのは他でもない女カだけだ。
 
ああ、それは――処構わず叫び出し何もかも投げ出したくなるくらいの――何という単純で、最高の賛辞なのだろう。
 
女カはまるで放るように剣を手放しその場に蹲った。本当に、そうでもしないと絶叫してしまいそうだった。兄の声が上から降ってくる。あの時と同じだ。違うのは、地面がぬかるんでいるかいないか、ということと、見渡す限り世界に二人しかいないという絶望が、今は深い誇りにすり替わったということだけ。
 
「失くすことと忘れることは、別じゃ。じゃが、幾ら儂でも人の子が各々失くしていくのも忘れていくのもどうすることも出来ん」
 
新しい世界に生きるであろう彼らには、確かに確固たる故郷があったのだ。強くあって欲しい、そして何より忘れて欲しくない、そんな我侭の為だけにこの兄は最後に彼らの姿を見せたのだろうか。何て勝手な神だと思った。いや、私も勝手だった。
人知を超える大洪水の後、かつての隣人への悼みも創造主の悪意も忘れ、世界の再生を願った自分は。
違う、本当はそんな難しいことなど考えてはいなかった。唯々、生きたいと願った。洪水で死んだ者の為などではなく、ましてやこの身体を支えた兄の為でもなく、自分だけの為に。
 
だってぼんやり仰いだ厚い雲の隙間から差してきた陽は、心底美しかったから。
 
そうだ思い出した。たったそんなこと、だが、それのみで自分は腹を決めた。
世界はまだ存在していて、足元にはぐちゃぐちゃの、だが確固たる地平がある、それだけで安心してしまうくらいには、私は勝手で単純な生き物だった。それはまだ自分が神などではなかった頃の話。
この地は再び実りを取り戻すだろうか。村を作ろうと思った。洪水の恐ろしさを伝え、親が子を慈しむことを教え、女達が布を織る時の歌を教え、そうやって物語を――そうだ、今食んでいるこの名も知らぬ草がどれだけ苦かったかをいつか笑いながら教えてやろう――そんなどうでもいいことをつらつらと思い描けるほど、生を求める者がどれだけひたむきであったか、手の届かぬ世界が打ちひしがれたこの身にすらどれだけ鮮やかに映ったかを、私は身をもって知っていたではないか。
 
滅んだ世界の時を動かしたのは、伏犠ではない。
ましてや、あの時未曾有の大洪水を起こし、我々を神にしたあの声の主ですらなかった。
 
もしかしたらあの声の主は今となってはもう何処にもいないのかもしれないと、女カはふと思う。
神ですらないあの世界の創造主は、純然たる観察者に過ぎなかったのだろう。大洪水の後、祈ったのは私だ。
 
滅んだ世界が再び動き出せるように、世界の始まりの物語を作ったのは、私だ。
 
「帰ろう、伏犠」
 
あの時の自分が祈ったように、誰かが心から祈ったのだ。強い祈りは意志を生み、意志は方向を決定する。
この戦いは、世界の始まりを祈った者達が引き起こした物語の、すでにほんの一部。
不条理な地平にしっかりと立った女カはそう笑う。
 
投げ出された剣はここに残していけばいいと思ったし、うすら笑いでも何でもなく、普通に笑みを返す伏犠も拾おうとはしなかった。
 
「きっとこの世界も強く在るじゃろうて」
 
異世界の未来への希望を伏犠は何とも無責任に語る。
もしも神の祝福というものが本当にあるのだとしたら、きっとそれはこんな風に何でもないことのように語られるものなんだろう、そう考えながら女カは印を結ぶ。
 
この禍々しい世界、だがきっとこの景色は生涯忘れまい。あの太陽の光を決して忘れられぬように。自分の一生が仮令、気が遠くなるほどの長さだったとしても。
 
だってあの者達は、誰が何と言おうとあの子達は、私が生み出した愛し子であるのだから。
 
 
 
 
 
「敵が、消えた?」
 
戦っていた筈の神丹兵がたちどころに消え、一時陣は混乱に陥った。もともと戦に際し陣幕を敷く習慣もない彼らのこと、後には一人の兵どころか痕跡は何一つ残っていなかった。
まるで先程までの混戦が夢であったかのように掻き消えたのだ。
 
「勝った…のか?」
 
ややあって放心気味に馬超が口にする。
 
「しかし、一旦引いて再び戻ってくるということも」
「それはない」
 
自ら様子を見に行っていた政宗が陣に姿を現しながら趙雲の言葉を遮った。
手には意匠が凝らされた細身の剣を握っている。
 
「これが落ちていた」
 
もう女カは戻らぬ、政宗の主張に異を唱える者は一人もいなかった。
 
主を失い所在無げに、しかし厳かに光る剣は、祭事の為の宝剣などより余程神々しく見えた。
 
「帰るか、幸村」
 
振り返らずとも分かる、自分の背後にそっと立つ愛しい者に向かって政宗は呼びかける。勿論元の世界ではなく、戦況を見守っている者達がいる成都でもなく、勝利を祈りつつ自分達の戦いをしている陳倉の友の許でもなく。
幸村は一筋の血痕すらついていない槍を収めると、微笑みながら頷いた。
 
帰るのだ、この世界の何処かにいずれひっそりと建つであろう、城でも館でもない、自分達の家に。

 

 

「遠呂智をきっかけに皆に振りかかったあれこれがお話になるまでを妄想しました」なお話の本編は、
実はここでおしまいです。
思うところは色々ありますが、あんまし上手く言い訳も出来ないので…察してくだされば…。
とはいえ、後日談的なもにょもにょ妄想が結構入ります。あと数話、お付き合いくださったら嬉しいです。
(11/04/21)