ああまた大変なことに。俺は遠ざかって行くおねね様と政宗の叫び声を聞きながら、何度目かの溜め息を吐いた。
俺がどさくさで義を誓い合った(というか合わされた、というか)友・真田幸村は、確かにその柔らかな物腰や、人に安心を与える穏やかな笑顔(この俺があっさり警戒を解いた程だ)、まあ後は武勇とか人柄とか、兎に角そういったものをひっくるめ、誰からもすこぶる可愛がられていた。
上杉に人質として出されていた時分には、あの寡黙で有名な上杉景勝のお気に入りだったという。兼続に見込まれて義の教えを強制的に受け、ちょっとばかり義好きになってしまったところは勿体無いが、それはそれで、というのが概ねの評価であろう。
秀吉様は勿論、おねね様にもいたく気に入られ、つい先刻は「ちょっと三成、聞いとくれよ!幸ちゃんにこんな着物を着せたら絶対可愛いと思うのよ、ねえ政宗もそう思うよね?」とびらびらした赤い着物を見せられた(柄が女物のように見えたが、気付かぬ振りをした。すまぬ、幸村)。
そして俺の返事も聞かずに幸村の名を叫びながら、天下人より天下様、つまり日の本一のやりたい放題であるところのおねね様は走り去ったのだが。そのおねね様の後を追いながら幸村を呼ぶのは、奥州の大名・伊達政宗、おねね様よりも誰よりも幸村を気に入った張本人である。
幸村を私物化することにご執心な政宗は、恥ずかしげもなく自らのことを独眼竜だかと言って憚らない。だが俺に言わせればそんなものは所詮自称に過ぎぬ、只の糞餓鬼だ。秀吉様の小田原攻めに遅参し…そういえば小田原の時からあいつはもうおかしかった。
居並ぶ将兵をぐるり見渡したかと思うと、視線をある一点で留め、そのまま暫く微動だにしない。秀吉様の威に怯える田舎大名め、動くことも出来ぬかと俺は鼻で笑ったのだが、そうではなかった。奴はそのまま斜め左に(言わずもがなだが正面は秀吉様で、そこからがんがん逸れていったのだ、奴は)つかつかと歩み寄ると、そこに座っていた幸村の正面でぴたりと足を止めた。
そうして幸村の手を恭しく持ち上げ「気に入った、俺のものになれ」そう言うや否や、その甲にいきなり接吻したのだった。
しんと水を打ったような重い沈黙の後、陣中は混乱した。それはもう、夜討ちに朝駆け、火計に水攻め、謀反と援軍ついでに盆と正月が一緒くたに来てもここまでではないだろうと思わせる混乱ぶりだった。
家康はどういう仕組みで動いているか分からぬあの槍を取り落とし、兼続は声を出すのも忘れて口を開けて呆けたまま、俺の位置からは咽喉仏まで丸見えだった。その近くにいた無駄に大きい傾奇者は「…えー、まあ、かぶいてるねえ」と乾いた声で呟き(こいつは何でもそういえば良いと思っているフシがある)稲だかいう娘は両手を胸の前で組みながら妙にぎらぎらした目で「っ不埒です!」と叫ぶ。左近は左近で俺の目を両手で塞ぎながら(慌てていたのだろう、塞ぎきれてはいなかったが)「ちょ、殿にはまだ早いです!」などと言っていたが、左近は俺のことを一体何だと思っているのだ。確かにそのような場所は好まぬが、貴様を仕官させる為に遊郭に一人で入ることくらいは出来たのだぞ、俺も。いや、俺のことはどうでも良い。
可哀想なのはいきなり渦中に放り込まれた幸村だ。他人と比べ少しだけ純粋な、というか端的に言えば色々鈍い幸村は、周囲の騒ぎなど何処吹く風、手を握られたまま目の前に跪いた奥州の大名をぼんやり見ていた。恐らくは自分が何をされているか全く分かっていなかったのだろう。
政宗が幸村の手を更に引き寄せ、自分の頬に押し付けて、政宗の唇の端に不遜な笑みが浮かんだ辺りでようやく我に返ったらしい。付き合いのそこそこ長い俺でも聞いたことのないような奇声を上げて政宗を思い切り突き飛ばした。良かった、いくら何でもこんな処で濡れ場は勘弁だと、その時咄嗟に思った俺も今思えばかなり本気で混乱していたのだろう。
あとはもうぐだぐだだった。転がったままの政宗に、秀吉様が「幸村が槍を持っていたら、ここが危なかったのう」と政宗の首筋を扇子でちょいと叩くと、政宗は「幸村?ほう、お主は幸村というのか」そう満面の笑みで幸村を振り返った。秀吉様の御前で、だ。
一方の幸村はと言えば、まだ混乱して意味を成さない音を発していたが。その幸村を気遣ったのだろう、清正が(忌々しいが清正は意外と幸村と仲が良い)「落ち着かれよ、真田殿」と背を擦ろうとしたら、その清正に向かって銃弾が飛んだ。惜しいことにそれは清正の兜の趣味の悪い前立てを掠めただけであったが、撃ったのは当然政宗だ。
「貴様、儂の幸村に気安く触るな!この下衆が!」「な、何ぃ!下衆とは貴様のことよ!」こうなると、自慢だが、怜悧と言われた俺でも収拾がつかん。「いつから貴様のものになったのだ、利に敏い山犬が!気安く幸村を呼び捨てにするな!」やっと口が利けるようになった兼続までも参戦したので、事態は尚悪くなった。兼続、お前こそ陪臣の癖に政宗を山犬扱いかと突っ込んではみたが、悲しいかな、周囲の怒号に俺の声は押し流された。
「殿!稲は…稲はこれからダテサナで活動致します!」「ははっ!子供は元気が一番だねえ」「若い子はいいねえ、御前様?それに引き換え、茶々を連れて来てくれっていうのは一体どういうことだい?」
正直本気で、今北条が急襲してきたら不味いと思ったのだが、木の上の方から「くくく、混沌…」という声が降ってきた。北条の混沌マニアが様子を見に来ていたようだが、戦機よりも滅多に見られぬ混沌振りを心から楽しんでいたようで、何事も起こらなかった…これらを何事も、と言うことが出来ればの話だが。
あとはあれだ。北条は完全に出来レースな戦の前にさっさと滅び、秀吉様の時代がやってきた。夢にまで見た天下。皆が笑って暮らせる世、である。筈だった。確実に笑ってない者が一名。
庭の植え込みの影で、見覚えのある鉢巻が揺れるのを見て、俺はこっそり合図を送る。もういないぞ、出てきて大丈夫だ、幸村。
「申し訳ございません、三成殿。急におね…政宗どのの声がしましたので、このような処に身を隠させて頂きました」
この期に及んでおねね様を責めようとはしない幸村に、俺は感極まって涙が出そうだ。あの小田原事件以降、すっかり面白がって政宗をけしかけているのは、何を隠そうおねね様だというのに。
三成殿のお蔭で助かりました、そう微笑む幸村は可愛いと思うが、恋い慕って追い回している政宗の気持ちは分からぬ。もっと分からぬのは、そんな政宗を叱るどころか、事あるごとに二人をくっつけようと画策するおねね様だ。
こういう時にきちんと躾をしてこその母親役ではないだろうか。独眼竜の糞餓鬼が。…いや、別におねね様が母上のようだと思っている訳ではないぞ、俺は清正や正則とは違うのだ。
「幸村!見つけたぞ!」
「幸ちゃん、見っけ!」
静かになった筈の大坂城に声が響く。「ね、絶対この辺に隠れてるって言ったでしょう?」「さすがはおねね様!さあ、観念するのじゃな、幸村!」逃げろ幸村、そう振り返った時には既に遅く。幸村は飛び掛ってきた政宗に羽交い絞めにされているところだった。
が幸村とて本気だ。既に端から見ていると、求愛なのか稽古なのか全く分からぬ。だが組み討ちになると俄然幸村の方が強い。政宗を容赦なく殴りつける幸村。もし天下が再び乱れ敵味方に別れても、幸村のあの拳だけは絶対に浴びたくない、そう思わせる見事な動き、さすがだ幸村。
そう思って見ていたら(俺が止めに入ったら確実に幸村の足手纏いになるだろう)、袂を思い切り引っ張られた。「お邪魔だよ、三成」そっと耳打ちしたのはおねね様。邪魔なのは政宗の方でしょう、あの馬鹿餓鬼を一度みっちり叱ってくださいませんか、おねね様。
「何言ってんだい、三成」
「しかし、幸村が大変迷惑して…」
迷惑?迷惑なものか、そう言っておねね様は愉快そうに笑う。いつからだろうね、いつからだったろうね、幸村があんな風に遠慮せずに政宗を殴るようになったのは。歌うように、そう尋ねられてはっとした。
最初の出会いの時ですら、幸村は後から政宗に謝ったらしい。政宗を突き飛ばすなど大変に無礼であった、と。それが今では。
おねね様の顔を見ると、訳知り顔でうんうん頷いている。「あたしは幸ちゃんが元気で嬉しいよ。勿論政宗もね」でも幸村のそれは本気で怒っているという奴で、つまり政宗が迷惑なことに変わりはないのでは。
「三成、あなた幸ちゃんのあんな顔見たことないでしょう?」
おねね様が物陰に身を隠しながら悪戯っぽい目で示した先には、静かになった政宗と幸村の姿。
幸村は先程までおねね様が振り回していた赤い着物を頭から羽織らされ、着物以上に真っ赤な顔して俯いている。幸村と向かい合って屈託無く笑う政宗は、その襟を幸村ごと引き寄せて時折耳元で何かしら囁く。何度目かの遣り取りの後、幸村が顔を上げ破顔した。
声を上げて、でも何処か秘密めいた眸でたおやかに笑う幸村。確かに見たこと、ない。
「幸ちゃんは気付いているのかいないのか。政宗だって分かってないんだろうねえ、あれは」
まだ付き合ってないみたいだし。そう呟くおねね様に従って、俺も物陰に隠れる形となっている。まるで他人の逢引を覗き見ているようで気が引けるのだが(何言ってるの、今更だってば、三成!とおねね様は笑うが、貴女と一緒にしないでください)、そんなことよりショックだ。幸村が。…幸村が?
いや、別に俺は幸村が好きな訳ではないぞ?好きは好きだが、幸村が政宗といちゃいちゃしようが、いっそ同衾しようが俺の知ったことではない。無理にそう思っている訳でもない。だが胸が痛む。どういうことだ?
「あんなに安心しちゃってねえ、幸ちゃんてば」
「安心、ですか?」
「安心してなきゃ、あんな顔しないでしょ。政宗も男冥利に尽きるって奴だよ。…で、三成も、」
あんな顔が見たい女の子の一人もいないのかい?
途端にはじまったお説教に、心の中で思い切り舌打をしてみたが、もう遅い。もういい年なんだから早くあたしを安心させておくれ、そう言うおねね様は別に母親でも何でもないでしょう。少なくとも俺は、貴女を母親だとは。
急に頭の中に秀吉様の顔が浮かんで、俺は慌てて頭を振った、何だこれは。
「…おねね様も、あんな顔なさるんですか?」
そう尋ねたのは無意識だった。まあ、聞き方が悪かったのか、おねね様は「あたしだって女だよ!失礼な子だね!」と大変ご立腹だ。笑ったかと思うとすぐに怒る。いつもくるくる落ち着きなく動くし、でもそれはマメな働き者ということだ。気が利く人だという証拠だ。
でもおねね様が本当に疲れた時には、この広い大坂城の何処でぼうっとするのか俺は知っている。好き嫌いは駄目だよ、そういう癖に本当は人参が苦手なことも、知っている。清正も正則も多分知らないことだ。「母親」の感情なんて誰が気にするか。俺はこの人が、こっそり一人で泣いているところですら知っているのだ。
だが、あんな風に、何もかも投げ出してあどけなく笑う顔だけは、知らない。多分頼んでも絶対、見せてくれない。
「どうしたの、三成?なんかしょんぼりしちゃった?」
秀吉様が。いや、それは不敬に過ぎる。ならば政宗が羨ましい。そんな人がいるということが、羨ましい。何をおいても自分を見てくれる人、全幅の信頼を寄せてくれる相手。それは母とかそういうことでもなく。
俺が勝手にこっそり追い回し、彼女の泣き顔を知っても仕方がないではないか。俺は知って欲しいし、知りたいのだ、誰かの泣き顔を、笑顔を、そういう顔を。違う。
「もしかして、三成は幸ちゃんのこと…あー、あたしも気付かなかったよ、ごめんね。でもこうばっさり振られれば未練もないでしょ?」
誰か、ではなくて。おねね様。おねね様が何故か申し訳なさそうに俺の顔を覗き込む。間近に浮かぶおねね様の顔。この距離は慣れてはいるが、俺の欲しいものは違う、その顔ではない。そして絶対に手に入らない。
こんなに近くで聞こえるおねね様の声なのに、何を言っているのか全然分からないのだ。なあ、幸村も、そうなるのか?政宗の声しか聞こえないのに、何を言っているのか分からない。そんな風になるのか、幸村も?
「逃がした魚は大きいっていうしね。まあこれから頑張って諦めて、いい子を探せばいいじゃないか、三成」
そう言って手を振りながら軽やかに去っていく後姿を、もう何度も見慣れた筈のその姿を、何故か焼き付けようと願って。俺は目を逸らさずに彼女をずっと見送り続けた。――頑張って、諦めて。彼女が言うとそれすら美しい出来事に聞こえるから不思議だ。
頑張って諦めるところから、はじめるのだ。
「あの、殿。浸っているところ大変申し訳ないんですが」
何だ、左近。俺は今落ち込みつつテンションが高いという、自分でも意味が分からん状態なのだ。下らぬことで水を差すと捻じ切るぞ。
「ちょ、何ですか、捻じ切るって!それより、殿の甘酸っぱい初恋のお相手がですねえ…」
捻じ切るのはその頭の括ってある毛だ。邪魔だろう、それ。あと、そういう言い方は止せ。殺すぞ。今度は首を捻じ切るぞ。
「はいはい、分かりましたよ。で、そのおねね様がですね、殿ってば幸ちゃんに惚れてたのに振られちゃったんだよーってあちこちで言い触らしてますよ」
左近によるおねね様の物真似は大変に俺を不快な気分にさせたが、それはこの際どうでもいい。なんだ、その話は!何処が如何してそんな話になったのだ!
「知りませんよ!左近だってさっきはじめて正則殿から聞いて、殿って男色だったんだーと吃驚したくらいで」
俺が男色だと!俺だって初耳だ、そんなこと。しかも正則に。こんなに屈辱なことがあるか、お待ちください、おねね様!
「聞いたぞ、三成!幸村に振られたそうだな!次は私か?それとも左近かな!私はノンケなのでな、やめてくれよ!」
そう叫びながらおもむろに登場した兼続の顔面を鉄扇でおもくそ引っ叩くと、俺は元凶の口を塞ぐべく走り去った。全く。忙しくて初恋に浸る時間どころか、同時に気付いた失恋に泣く暇すらない。
走り出す瞬間、目の端に向かい合わせに寄り添う政宗と幸村が見えて、ああ、それは確かに歪だけど、何処にも間違いがない一枚の絵のようで、そういうものかと俺は少しだけ感動したのだった。
三成の初恋はねねだったと信じてますし、伊達と真田が出会った小田原ではすったもんだがあったと信じてます。
(08/07/07)