※くどいようですが、時間軸は完全無視ですよ!
「はあ、夫婦…のう」
俺は完全に無視するつもりだったのだ。
この時期は嫌いだ、只でさえ苛々するというのに。仕事はやってもやっても終わらぬし(勿論季節は全く関係ない)、紙は湿気でべたべたするから書きにくい、ちょっと外を歩くにも傘を差さねばならん。俺は傘は嫌いなのだよ。ついでに誰に許可を得たのか我が物顔で虫も飛んでくる。傘以上に虫も嫌いなのだよ。
うんざりしてこれは仕事のし過ぎだと自分に言い訳して、滅多にない梅雨の晴れ間だからと大坂城の庭でぼうっと座っていたら、ちょこちょこと餓鬼が歩いてきて隣に腰掛けた。こいつは…確か明智のところの娘だ、玉だかガラシャだかいう。
間もなく細川に輿入れが決まっていると小耳に挟んだが、その新妻が大坂城に一体何の用だ。というか最近の大坂城は警備が甘すぎるのではないか?市民が集う憩いの公園などではないのだぞ。
まあ、それはさておき、ガラシャとやらはこちらを見上げ、如何にもちょっと話しませんか?という風情をぐいぐい前面に押し出しながら溜め息などを吐いている。こうなれば根競べだ。おねね様には冷たいとよく叱られるが、女子供とて容赦せん。俺は俺の休憩時間を満喫するのだよ。
見渡したくもない庭をわざとぐるりと(当然ガラシャの方には目線を向けないように注意しながらだ)見遣り、ふと木々の陰に人影のようなものを見かけて、俺はここに来たことを激しく後悔した。陽だまりに並んで座っているのは、他の誰でもない幸村と政宗だったのだ。
おねね様のさり気ない(?)忠告もあって、俺はこの二人がそれとなく相思相愛であることを分かってしまった訳だが、事態は、いや幸村は俺の思う以上に面倒臭い奴だったらしい。
少し前のことだったか、その日も全く終わりが見えない仕事に頭を抱え、ついでに部屋まで押しかけて来て「義」と叫ぶ兼続にも頭を抱えていた俺を、どうしたことか幸村が訪ねてきた。どうせもう仕事にならぬのだ、左近に茶を持ってこさせ幸村と(一応兼続もだ)向き合ったのだが、幸村の様子がおかしい。何かあったか…政宗と。そう呟いてみたら途端に頬を上気させて、何故分かったのですか?と噛み付くように尋ねられた。
人の恋路を邪魔する気も背を押すつもりも毛頭ないのだが、少しだけ幸村にお節介を焼くおねね様の気持ちが分かった。幸村は、なんというか、普通に面白い。
折角面白いものを見つけたので戯れにと、少々掘り下げて聞いてみることにした。再び政宗の名を出して先を促すと、幸村は案外素直に口を割る。その気持ちは俺にも何となく分かるぞ、幸村。うきうきするのだろう?口に出してしまえば勿体無いような心持ちになるのに、黙っていることも出来ぬのだろう?
聞けば政宗のことが頭を離れぬと言う。お前は一体幾つの娘だ。「愛!」と叫んだ兼続を無視して揶揄い半分にそう突っ込めば、きょとんと首を傾げる。「私は娘ではありませんが」分かっている、そんなでかくて強い娘が居てたまるか。「義姉上はお強いですよ?」あの本多の血筋と世間一般を当てはめるな。
幸村の性別や攻撃力などどうでもいい、今は政宗のことだろう、強い口調でそう言うと、幸村は再び顔を赤らめる。いかん、俺まで恥ずかしくなってきたではないか。
幸村がしどろもどろと語るに、政宗に思いを告げられて一体どうしたら良いのか分からなくなり相談に来たという。思いを告げられて?俺は無様にも呆気に取られ思わず鸚鵡返しだ。
完全にルール無視な小田原での出会いからこっち、お前らは一緒に居ながら何を話していたのだ。まさか毎日天気の話でもあるまい。「天気の話は毎日しておりましたが」もういいから黙れ。そういうことではなく。矢張り毎日会ってたのか?と追求するのも馬鹿馬鹿しい。頭の片隅で政宗に同情する。幸村、大坂城内で事あるごとにいちゃいちゃと振舞っていたのを忘れたとは言わせぬぞ。
「い、いちゃいちゃですか?」
「うむ、いちゃいちゃしていたな!私も何度か目撃したぞ!婚前交渉は不義、不義だぞ、幸村!そもそも謙信公が仰られるには」
まずは五月蝿い兼続を鉄扇で黙らせ(血は後で左近が拭けばいい)幸村に詰め寄る。大体、政宗とはじめて会った時自分が何をされたか覚えているのか?「ええ。あれには驚きました。驚いて政宗どのを突き飛ばすなどまだまだ修行が足りません」
は?何だかおかしくないか?手の甲とはいえ、初対面の(しかも少なくともその時は幸村は政宗のことを何とも思っていなかった筈だ)相手に接吻されたのだぞ。修行云々の話ではない。政宗がお前に好意を、いやもう遠回しに言っても仕方がない、恋心を寄せているなど自明の理ではないか。それを今更思いを伝えられたからと何を驚くことが「せ、せせせっぷんにございまするか?!」…随分反応が遅いな…だがそうだ、順番がおかしいのだよ、お前らは。そう説教を垂れようとしたら。
「独眼竜と称される政宗どのが突然目の前にいらっしゃった上に、私の手をいきなり持ち上げられたので、慌ててあのような行動に出てしまったと思っていたのですが、私はその、政宗どのに、せっ、接吻とやらをされて驚いたのでしょうか?」
真面目な顔でそう聞かれた。まともな友だと信じていた幸村だったが、段々自信がなくなってきた。こいつの脳内は一体どうなっているのだ。面白半分に聞き始めた幸村の恋バナだが、ここまで鈍いと面倒だ。
小田原でお前がどう思ったかは知らないが、兎に角政宗に自分も好きだと言ってこい、ついでにこちらから接吻の一つも仕返してやれと言い放ち、まだ血を流している兼続と一緒に外に放り出した。
「いえ、あの私は政宗どのが」好きなのだろう?あんな顔をしておいて今更好きではありませんでしたーなんて言ってみろ、それはそれで見物だが、政宗だったら自害するかもな。「それは大変です!すぐに伝えて参ります!自害などされたら…政宗どの―」
そう叫びながら、ばたばた足音を響かせて幸村は去っていった。何だか色気もへったくれもない告白になりそうな予感がしたが、幸村に惚れた以上政宗だってその辺りは覚悟の上だろう。むしろあの幸村をここまで動かしてやった俺の働きに感謝しろ。…人の恋路には口を出すまい、野暮な真似はすまいと思っていたのにこの体たらく。何というか、疲れた。確かに少々足りないのは可愛いが、あれを常に相手にしている政宗は…まあいい、そんなの俺には関係ないことだ。おい左近、兼続が垂れ流したこの血の染みを拭いておけ。何だと?部屋を汚したのは俺の所為ではないぞ。左近の癖に逆らうな、生意気だ。こうしてこの話はこれで終わりになったと思っていたのだが。
そして今、目の前、ではないが視界に入るところにその二人が居ればどうしたって気にはなる。まさか上手くいっていないとは思えないが、あの後どうなったのだろう。俺が心配することではないが、いやむしろもう関わりたくはないのだが、幸村なら律儀に報告に来てもおかしくないのである。が、政宗が止めたということも考えられるし、報告するには大変に恥ずかしいことが起こって、未だに俺にも言えぬということもあり得る。「はあ、夫婦…のう」寄り添う二人を眺めつつそう考えていたら、隣の餓鬼がそう呟いた。ああ、無視するつもりだったのに。俺がそのガラシャとやらをつい睨んでしまったのも仕方ない事であろう。
「わらわはもうすぐ嫁にいくのじゃ」知っている、そのくらい。自分でも忘れかけていたが俺は治部少だぞ。貴様の動向くらいは耳に入ってくるのだよ。
「あの二人はわらわの両親にそっくりなのじゃ」
思わずガラシャをまじまじと見る。俺はてっきり近日中に嫁に行く自らの身を色々憂いて、ぼそぼそと独り言ちていたのかと思っていたが、貴様が見ていたのは。「そうじゃ、あの者達じゃ。あんなに仲睦まじいではないか」わらわの両親もそうであった、この餓鬼は遠い目をしながらうっとりとしてみせる。
いやそっくりではないだろう。政宗の髪の毛はあんなにさらさらではないし。「髪の毛のことは申すな、そういうことではない」わらわも上手く言えぬのじゃが、と、この年頃の餓鬼は難しい。うっとりしたかと思えば今度はしょんぼりと下を向いて奇妙な着物の裾を弄っている。さすがに余り冷淡にするのも気が引けて、政宗と幸村に視線を戻す。
夫婦、というのもおかしいが、穏やかなその佇まい。連れ添ってもう三十年です、と言い出しかねない雰囲気ではある。穏やかさと付き合いの長さは全然違うぞ、女心が分かっておらぬと隣の餓鬼は頬を膨らますが、ここには女は貴様しかおらぬぞ。何を言う幸村だって大層なオトメじゃ!と叫んでいたがそれは無視した。さすがに(色々鈍過ぎるとは言え兼続に比べたらまだ比較的まともな部類に入る)友を生娘扱いすることは俺には出来ん。
つい先日は政宗に耳打ちされ、それはそれは嬉しそうに艶かしく(言い過ぎか?)戯れていたが、今日は今日でまた雰囲気が違う、ように思う。ガラシャが夫婦と言うのも…正直複雑な心境ながら分かってしまう。
湯のみなんぞを握り締めて、政宗の隣にちょこんと座っている幸村。庭の花を指差し何事か話す政宗の声ににこにこと耳を傾けている様は、恋人というより、えーとそうだ親子のようだ。はっきりきっぱり「夫婦」扱いも気が引けて、親子などとぼかしてみたがここでまた、親子はあんなに寄り添って座らぬぞ、と物言いが入った。
「…そうじゃ、親子は、ああは座らぬのじゃ」
声のトーンを落として俯くガラシャに、どういうことだ、と目で問えばゆっくり喋り出す。随分昔の話じゃ。わらわがまだ幼子だった頃。
「父と母はよくああして庭を眺めていた。わらわは、父に遊んで欲しくて、母に構って欲しくて」
二人の間に割って入り、膝に乗ったり背中に飛びついたり。夫婦の語らいの時だったのだろう、餓鬼の時分とはいえそんな邪魔なこと。俺にはまだそのような相手はおらぬが、偶には夫婦二人きり水入らずで過ごしたいのでは、そう考えた俺にガラシャが笑う。そなたは阿呆か、わらわの両親がそんなチンケな繋がりの筈なかろう。
「わらわは邪魔では、なかったのじゃ」
父も母も笑ってわらわを見ていた。二人の目には同じものが映っていた。
「膝に無理矢理よじ登ったわらわを危ないと笑って父が抱けば、母がわらわの頭を撫でる。二人は只幸せそうに見詰め合っていた訳ではなかったのじゃ。二人はそれはそれは嬉しそうにわらわを見ていた、いいか?二人ともじゃ。いやわらわだけではなくて」
いつだったか、ああして庭の花を二人で見ていた。花が月だったこともあったし、雨だったこともあった。ゆっくり流れる時間に幼心に戸惑ったのを覚えている。
どうしたらいい?わらわは同じものをあんな風に優しげに伴侶と見れるじゃろうか。そう問うガラシャの指は細かく震えていて、俺は今更ながらそれに驚いた。
「わらわは、互いに見詰め合うのが恋だと思っていた。好いた相手を瞳に映したい、それはおかしなことでも何でもないと」
その恋の延長にあるのが夫婦だと。飽くまで見詰め合って抱き締めあって、それが最大の愛情だと。違うのじゃな。どちらが正しいかは知らぬが。
「わらわは、わらわを愛してくれた父や母のような夫婦になりたい」
相手を愛おしむのは当然じゃ。その上で相手が見ているものを、話しているものを、共に見てそれすら慈しむのじゃ。
政宗の視線がゆっくりと空に移る。それを追うように微笑んで空を見上げる幸村。二人の手はそっと繋がれているが、身体の何処にも不自然な力が入っていないかのような。幸せなのだな、幸村は。思わずそんなことを口走ってしまい内心慌てたが、そうじゃろうなきっと、横でそう力強く頷かれ安心した。
花は美しいが、共に見る者が居れば更に美しいのじゃ。ああ、そんな簡単なこと。そう言ってガラシャは微笑む。あの二人が居らなんだら気付かずにおった。邪魔をしてはいかぬ故、声は掛けぬが感謝する。まずは夫君となる者と一緒に庭でも眺めてみるか。
「いいのか?その…貴様は」
我ながらデリカシーに欠けるとは思ったが、聞かずにはおれなかった。好いて好かれたあの二人とガラシャを比べるのは酷だと。結婚に付き纏う女の価値。価値という言葉でお茶を濁す自分を忌々しく思った。お前は、見も知らぬ男の許へ道具のように嫁ぐのだぞ。
良いのじゃ、疾うに覚悟は決まっていた。ただそれをどう示して良いか分からず、途方に暮れておっただけ。
「覚悟?」
「そう、覚悟は何も戦場に向かう男共の専売特許ではない。行くべき場所に向かうには、どのみち必要なものじゃ。
その先が幸せでも、そうじゃな、仮に茨の道だとしても、な」
いや、幸せに向かう程大きな覚悟が要るのかもな。あの二人は覚悟を決めた故、あのように幸せで居られるのじゃぞ。
だが俺はやはり。
「…それでも、俺が貴様を憐れむのは無礼なことか?」
「何故そう思う?わらわは両親に愛情を貰った。ダチだと言ってくれた者も居た。石田治部殿が憐れんでくれるというなら嬉しいぞ?有難くそれを頂戴するまでじゃ」
そんな顔をするな、お主はなかなか良い男じゃぞ。そう言われ、俺はあの方を思い出した。まだ忘れるには時間が掛かる。ああ女は強い、俺には到底叶わぬ。そうじゃろう?だから治部殿、わらわを餓鬼扱いするでない。
「わらわはそなたとそう年齢は変わらぬぞ?少なくとも幸村よりはわらわの方がお姉さんじゃ!」
そういう主張が既に餓鬼なのだよ、そう返しながら俺は心の中で彼女の幸せを祈った。俺にはもう量ることのできぬ、彼女とその夫が積み重ねるであろう世界の片隅のふたりぼっちの、だが決してささやかではない幸せを。
同じく、世界の片隅では、今度は政宗が幸村の膝に頭を乗せて転がっている。真昼間から、とも思ったが、声を掛けるのはやめた。独眼竜だか何だか知らぬが、ああしておると猫みたいじゃのう、そう言ったガラシャに噴出した。
明日は雨だと言う。部屋に戻れば山積みの書類と困惑気味の左近が居るのも分かっている。でも今日はこんなにいい天気で、今の俺は休憩中だ。誰が何と言おうと。
「殿―、何処においでですか―!と―の―」
そう思った瞬間響いた左近の声に、俺は舌打を返す。仕方ない。明日の俺の幸せの為に大人しく仕事に戻るか。よいしょ、とわざとらしい掛け声と共に立ち上がった俺の脇を、一足早くすっくと立ち上がったガラシャが元気に走り抜けていった。
もしも本能寺後に彼女が輿入れしていたら、三成と仲良しだったら、そう思ったら止まりませんでした。
どれもこれもあり得ないし、細川殿がどうこうと言う気は勿論ないのですが。
夢を見ているのは分かっていますが、こんな幸せがガラシャにもあったと願っています。
(08/07/09)