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旦那様は今日は遅い、弓の鍛錬も終えてしまった。何か家事の一つでもやってみようかしらとも考えましたが、私にその手の技術はないのです。掃除も料理の腕も、何故か旦那様の方が上で、その旦那様より最近何かと話題の、義理の弟の方が実は色々上手い。お茶もお花も人並みには出来ますが、所詮は人並み。持て余した暇をわざわざそういったことに充てるくらいなら、私はすっかりその道の達人になっていたでしょう。仕方ない、茶筅を持つより弓をひく方が性に合っているのだもの。
ごろごろと(いえ、実際に転がっていた訳ではないのですけど気持ちとしては)腐っていたら、外の廊下から小さな音が聞こえました。旦那様がお帰りになられたのかしら?一瞬そう思ったが違う、多分義弟でしょう。
帰宅直後の彼にお茶を淹れて持って行ったのは本当に暇だったから。奥州の独眼竜だか言う不埒な輩とのあれこれも、私的には多分に気になったというのもあるのですけど、暇つぶしにお話でもしましょう?そう言うつもりだったのです。


「ああ、義姉上。これはかたじけない」
涼しげな目元に笑いを滲ませて小さく頭を下げるこの義弟は、(私も含め)真田家の自慢です。表裏比興と呼ばれたあの義父上(稲はこれでも義父上をいたく尊敬申し上げているのですよ?面白い方です)も次男坊の前にはめろめろですし、私の旦那様・信幸様もそれはそれは、目に入れても痛くない程の溺愛振り。でもそれは稲だって負けてはおりません!
義弟の愚直なまでの忠義、戦における天賦の才、天然の振りをして少々腹黒いところ(さすが真田の血です)何処も可愛らしいと結構本気で思っているのです。じゃなかったら幸村総受本なんて出したり致しません、いえ、それは関係ないお話でした。
ええと、ですから、小田原からこっち、実しやかに囁かれる義弟と政宗殿との噂を(多少稲の脳内で過激に脚色したりも…何でもありません)聞いた時には、少しむかつきもしたのですけど、政宗殿もなかなか趣味が良いとひっそり感心したくらいです。それ以来、「何が独眼竜だ!弟に手を出す奴は許さん」と叫ぶ旦那様をそれとなく抑えるのは稲の役目にございます。
さてそんな義弟にお茶を持っていきましたら、それはそれは優しげにお礼を言われました。政宗殿がこれをご覧になったら、そう思っただけで稲の心のネタ帳は不埒な内容でいっぱいになってしまうのです。
政宗殿の手ずからお茶を頂くなど、そう遠慮する義弟に、気にせずとも良いわとか何とか、あの隻眼を細めて申すのでございます。そのまま手を引き寄せてしまっても良いですよね!手どころかもういっそ、色々引き寄せてお仕舞いになられると良いのです!「あの義姉上?」お茶が零れてしまいます、政宗どの、や、おやめくださいませ…こうして二人は「義姉上?」それはそれは昼間からなんて不埒なのでございましょう!稲は鼻血を噴きそうです!
三成殿も兼続殿も捨て難いですが、今、稲的にはダテサナが熱いのです!「義姉上!」ああ、何ですか幸村、私のことは気にせず。「また妄想をなさっていたのですか?そういえば本棚の本、また増えましたね」ええ、先週は伏見でオンリーがあったものですから、ちょっと。心の中でそう返します。分かっている癖に笑顔でそういう義弟は、本当に侭ならない、そして可愛いものです、ちょっと怖いですけど。


妄想から現実に立ち戻って、茶を啜る義弟の顔を覗き込むと、何だかおかしい。何処とは言えないのですが、おかしい気がするのです。
稲だって幸村マニアの巣窟である真田家で、伊達に何年も嫁をやっている訳ではございません。何かありました?そう聞くと義弟は静かに首を振ります。ありましたね、絶対、しかも政宗殿がらみでしょう。そう宣言すれば幸村が咽返りました。その目は少し涙ぐみながら(稲はここで少々不埒な妄想を致しました)何故?と尋ねております。
何て分かり易い。はったりとか演技とか、そんな言葉をどこぞに置き忘れてしまったかのような幸村の心持ちなんて、手に取るように分かるのですよ…戦が絡むと義弟の本心は途端に読めなくなりますけどね。武士ですもの、それは仕方ない。


幸村の元気がないのは気になりますが、さりとて稲としては無理に聞き出すつもりもございません。しかし、色々頑張りなさいね、今の幸村にそう言うのは突き放し過ぎでしょうか?何かあったら話くらいは聞けますよ。うん、その方が義姉の立場を踏まえての発言という感じですね、早速幸村にそう告げようとしたら、至極真面目な顔で尋ねられました。曰く、兄上の何処がお好きですか?と。
もうこういうことを他人に聞いてしまう辺り、完全に幸村はらぶらぶモードに入っているなあと思わざるを得ないのです。稲だっていつだったか思いましたもの。自分はどのくらい恋に真剣なのか、これがどんなに掛替えのない思いか、話して比べて安心したいと。
それなら黙って話を聞いて差し上げれば良いのですけど、気になるのは逆の時です。例えばケンカしたり、もう少しどうしようもないマイナスの感情だったり、それで幸村が迷っているのであれば(それはそれで大雑把に言えば幸せなことかもしれませんが)恐らくは幸村にとってはじめてのこと。こんなに心細いことはないでしょう。そして大方。
「ケンカ、したのですね、幸村」
はい正解。躊躇いがちに頷きながらもどうして分かったのかが分からないと無邪気に首を捻る義弟は本当に受、いえあどけない。少し政宗殿が羨ましくなって参りました。それはさておき。
旦那様の何処が好きかというお話でしたわね。それは稲には語れません。稲と信幸様にのみ通じる言葉で語ることしか出来ません。知りたかったら四六時中私達夫婦にくっついているのですね、そう言うと幸村は少し笑いました。
義姉上は愛されている自信がお有りなのですね。そんな訳ないじゃないですか!幾分か強い口調で答えると幸村が驚いた顔でこちらを見ます。ああ、貴方の兄上の心を疑っているとかそういう意味ではございませんよ。自信はありませんが確信はしています。私が信幸様を慕っているのと同じように。


幸村も話に聞いたことはあるでしょう。私はあの本多忠勝の娘でしたから、それはそれは多くの縁談が舞い込みました。取るに足らないような相手から、断りを入れるのに最大限の注意を払わねばならないような相手まで。稲は、自分の価値が分からない程子供でもありませんでしたが、それにあっさり靡いてみせる程大人でもなかったのです。私は、私を見てくれる人を選んだつもりでした。しかしそれは自分の価値を逆手にとって大勢の人をふるいにかけ、挙句試しただけに過ぎません。いいえ、試すどころか、笑い者にしただけだったのかも。兎に角、私と貴方の兄上はそうやって出会ったのですよ、旦那様はそんな汚い私をご存知なのです。
それに気付いた時、私は信幸様には相応しくないのだと思いました。かと言って尻尾を巻いて逃げるわけには参りません。信幸様に必要とされるような人間にならねばと決心致しました。あの時の稲は本当に馬鹿でした。
「馬鹿、だったのですか?」
私は、何もして差し上げられないのに、政宗どのは私に何でも与えてくださろうとするのです、だから辛くて。ええ、そう思ってしまいますよね、私はゆっくり頷く。
分かります、幸村。だからそんな顔をしないで。


美味しい食事を作って差し上げたいと思いましたが、私には無理でした。いえ修行を重ねれば何とかなったのかもしれませんが、信幸様の奥方をわざわざ台所に入れて料理を作らせる、どころか料理の方法を手取り足取り教える。料理人にとってこんな負担はありません。それに気付き私はそれを諦めました。
お部屋で寛いで欲しかったのでせめてお掃除を、それが無理なら晩酌のお供を、色々やってみましたが、全然上手くいきませんでした。
もう稲に残されたものはたった一つ、弓の腕しかありませんでした。有事にはこれで旦那様を身を呈してお守り差し上げるのです。
あれは何処かの忍が城に侵入した時でした。戦を控えていた訳でも、水面下で謀が進んでいた時でもなく、ましてその忍は命を狙う刺客でもございませんでした。ええ、このご時勢、一定の周期で忍に他国の情報を探らせる、そんなことは良くあることです。多分あの忍は一通りざっと城内に目を配り、異常なしという一言を主に告げるだけの存在だったのでしょう。しかし私は彼を追いました。信幸様が捨て置けと仰られたにも拘らず。ああ、もう後は知っておりますでしょう、幸村。
「あの時は吃驚させられました」
それに忍だって驚きますよ、簡単な仕事だと思ったら、真田の嫡男の嫁が弓を持って追いかけてきたのですから。義弟は冗談ぽくそう続ける。「私も心配したのですからね」心配、どころではないでしょう。多分城内は上を下への大騒ぎだった筈。必死になった忍が投げた苦無が掠め、それに塗ってあった毒で高熱を出した私はその辺りの記憶がない。
信幸様が付き切りで看病してくれたと、後から聞かされたのです。そんな出来事を今では軽々しく口にしてくれる義弟に感謝します。まるで幼子が風邪をひいただけのように、誰にも責はなかったのだと言外にそう言ってくれるのが、嬉しい。
目を覚ました私が一番はじめに見たのは、愛しい旦那様でも幸村、貴方でもありませんでした。ぼんやりと霞んだ視界に飛び込んできたのは、かつて見たこともない程おろおろしている義父上の姿。
信幸の嫁とは言え、枕元にまでわしが詰めてすまん、と義父上はまず謝ってくださいました。信幸は寝かせた。起きていると言い張ったのだが、幸村に部屋に押し込めさせた。まあ眠っては居らぬだろうがな。
義父上の固くなった指先がおずおずと稲の髪の毛を撫でた時、私は不覚にも涙が出たのです。本多の娘として生まれた私に許されなかったもの。逃げること、弱音を吐くこと、そして泣くこと。私は今でも実家の父上を尊敬しております、誰より強く。でもこの人たちは、こんな簡単に私を泣かせてくれたのです。
無理させたのう、忠勝殿の娘御だからと女だてらに弓まで持たせて、こんな目に遭わせてすまなんだ、そう言って。泣きじゃくる私をずっと撫でてくれたのは、他でもない貴方のお父上だったのですよ、幸村。「…このようなことを申し上げてすみません。でも義姉上、違いますよね。貴女は忠勝殿の娘だから弓を持った訳では」ええ、私があの時あんな行動をとったのは、信幸様に認めて貰いたいという己の我侭の為でした。でもね、幸村、義父上がそのくらい見抜いていないとでも思います?


次の日、目の下に盛大にクマを作った信幸様とお会いしました。私は目を真っ赤に泣き腫らして。
わしが泣かせたんじゃないぞ、信幸様に睨まれて慌ててそう弁解する義父上を見て笑い、とても家臣の前には出られないだろう酷い顔の信幸様を見てまた笑いました。ああ、幸村もおりましたっけ。「ええ、兄上を部屋に押し込めたら物凄い抵抗に遭って」そうそう、それで信幸様の所為で左手首を捻ったんでしたね。幸村は変な顔で手首をさすっておりました。「変な顔だなんて酷いです、義姉上」それは全く奇妙な、可笑しな風景で。
「…義姉上は本当に馬鹿ですよ」
そうですね、そこまでして貰わねば分からなかったなんて。ねえ幸村、もう。「ええ、ありがとう義姉上。もう大丈夫です」いいのですよ、我侭を言っても。少しくらいは困らせて差し上げなさい。でも自分ばかりが心動かされているとは思わないで。そして笑ったり怒ったり、泣きたくなったりすることはちっともおかしなことではないのですよ?
あ、でもね、幸村。どうせ泣くなら政宗殿の前で泣いて御覧なさい。そのくらいの強かさは大事ですよ?そういうと幸村は心得ました、とちょっと笑って。
「でも私が我侭なんて言っても良いんでしょうか?」
「勿論です。稲だって信幸様によく言いますよ」
信幸様はきちんと叶えてくださいます。どんな内容かは幸村にも内緒ですけどね。ね、幸村はどんな我侭を言ってみたいですか?
「ええと、一緒にいて欲しいとか…やっぱり私も何かして差し上げたいとか、です。はい」
馬鹿正直に答えてくれた幸村の気分を損ねないように、笑いたいのを我慢して、代わりに髪の毛を撫でて差し上げましょう。誰かのものになってしまっても、貴方が私達の可愛い弟であることに間違いはないのですから。さあ仲直りを。いえ、もともとケンカですらなかったのでしょうけど、仲直りをしてらっしゃい。「今からですか?」そう今から。
幸村の背をぐいぐい押しやって、心の中でそっと囁く。そして貴方の願いは我侭ではなく只の独占欲だと、あの独眼竜にきっちり教えて貰えば良いのです。




あの時。
熱は下がらず涙も止まらず。このままでは義父上に呆れられてしまう、そう思えば思う程、涙は溢れてくる。なのに義父上ときたら「甘い菓子でも食うか、ああ水分を出すと咽喉が渇くじゃろう、茶を飲むか?」と真剣に尋ねるのです。私も思わず、泣きながら菓子など食えませぬと苦笑いすると、泣きながら笑えるのだ、菓子を頬張るのなんてもっと簡単じゃ、と返ってきました。
「わしの妻はそうやって泣いておったぞ。泣くにも体力がいるのだと何故かわしが叱られたわい」
苦労ばかりかけて戦場を走り回らせてすまないと、私に出来ることは何かないですかと、いつも真面目な顔で聞いてくるような女じゃった。馬鹿じゃのう。苦労ばかりかけて家中を走り回らせて、そんな風に嫁を心配している夫にそんなこと聞いてもまともな答えなど返ってくるか、のう稲殿。そうは思わぬか?
もう居らぬ方を、こんなにも愛おし気に人は語ることが出来るのですね。そして私は。そう思って稲は二の句が告げませんでした。それにそう、なんてこと。物心ついてから生まれてはじめて大泣きしたのが、婚家の、しかも義父上の前だなんて。
「信幸がさっき言ったわ。女は父親に似た相手を好くというが、男は母に似た娘を嫁に選ぶのやもしれぬと」
はじめて泣いた原因が悲しさや辛さではないという人間など、この世にどれだけいるのでしょうか。はじめて流す涙がよりにもよって、所謂嬉し涙だなんていう幸せな人は。
「そなたはあれにそっくりじゃ。信幸は本当にいい嫁を貰ったわい」
ええ、私も、稲も素敵な旦那様と素晴らしい御義父上をもったと思います。お義母様、ご覧になっておいでですか?


長い間これはずっと私と義父上の秘密、でした。でもそろそろ旦那様に教えて差し上げても良いかしら?貴方はどんな顔をなさるのでしょう。ああ、それから。やはり義姉としてはこれも教えて差し上げなくては。
ねえ、信幸様。私達の大事な大事な幸村は、自分の涙をそっと打ち明けられる人をやっと見つけたようですよ?




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今回はおねね様と三成はお休みです。昌幸パパの嫁はオリジナルで。山手殿はちょっと違うし。
お兄ちゃんより昌幸パパ大活躍で、一体私はどれだけパパが好きなのだろうと吃驚です。
稲ちんを腐らせたのに意味はありません、でも他人とは思えません…。すみません。
幸村と母親という関係は非常に薄い気がするので、稲ちんがお母さんポジションです。
(08/07/13)