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※途中ちょいと暗めです。直江さんに子がいらっさいます。



他人の不義には厳しい癖に、俺の部屋に物も言わず入ってきたかと思ったら、そのまま黙って座り込む。巷では友達が少ないだの、それもこれもあの横柄さが悪いだの、好き勝手囁かれている俺ではあるが、それでもこいつと比べると自分は常識人だと主張の一つもしたくなる。兼続に友認定を受けた俺と、そんな俺に仕えてしまったばっかりに、なし崩し的に兼続と顔見知りになってしまった左近は、そっと横目で互いを探り合うように目を合わせ、気付かれぬように嘆息した。
泣く子も黙る石田治部少輔の政務室に許可も貰わず入り込み、我が物顔で俺用に用意された茶と茶菓子を無言で食った挙句(更に左近に顎でおかわりを要求した)、腕組みをして何事か考え込んでいる男。
義や愛の志を誰より大事にしていると触れ込んではいるが、どう考えてもお前自身の好き嫌いか、或いは気分で義と不義を分けているだろうこととか。それにつけてもこいつがそこまで領民や上杉家臣、果ては大名連中にまで一目置かれているのはどう考えても何かの間違いであろうこととか。色々言いたいことはあるが、それらは今然したる問題ではない。
俺が(左近も巻き込もうかと思ったが、茶のおかわりを注ぐと脱兎の如く逃げ出した。次に見かけたら鉄扇で百叩きだ)直面している最大の問題は、その自称・義と愛の男、直江兼続が、すこぶる不機嫌、ということである。


「政宗と話をしてきた」
朗々と響く、まるで演説をする為に生まれてきたような声を持つ兼続だが、今日の奴の声は限りなく地を這っている。恐らく慣れぬ者が聞いたらそれだけで震え上がるところであろうが、俺は違う。そうではないかと思っていた。兼続にそれだけを返し、再び書類に視線を落とした。冷たく見えるかもしれぬが、放っておけば兼続が勝手に喋り出すことは百も承知。
恐らくは――こういうことが手に取るように分かってしまう付き合いというのもそれはそれで複雑な気持ちになるのだが――頭の中で必死に反芻しているのだ、政宗との遣り取りを。その間俺には黙っていることしか出来ぬ。何、話を聞いて欲しいからわざわざ俺の部屋に上がり込んで来たのだ。後は兼続の頭が冷えるのを待ってやればいい。
兼続と政宗の仲が、それはもう驚くくらい悪いのは今に始まったことではないが、少なくとも兼続は政宗のやること全てに噛み付かねば気が済まぬような了見の狭い男ではないし、政宗も兼続のことを何だかんだでひっそり認めていることは知っている。
「幸村のことで、政宗と話をしてきた」
貴様には幸村を遣らぬとでも宣戦布告してきたか。冗談半分で言った筈だったが、兼続は至極真面目な顔で大きく頷いた、ああ、そのつもりだった、と。
いや、ちょっと待て。確かに俺はお前がどれだけ幸村のことを可愛がっているか知っている。おねね様なんかは兼続と幸村の会話を聞いて、まるで兄弟のようだねと笑うが、むしろ既に親子のようだ。兼続の義の話を目を輝かせて聞く幸村は、疑うことを知らない子供のようで。これで上杉時代幸村は大分洗脳されたのだな、そう思うと少し切ない気持ちにもなるが、それは別にしても幸村が兼続を心から慕っていることも、その信頼にきちんと兼続が応えていることも、俺は微笑ましく思っていたのだよ。
だがな、兼続、お前に幸村と政宗のことをどうこう言う資格があるのか?どんなに兄弟のように仲が良かろうが、親子のように見えようが、貴様と幸村は只の友、他人ではないか。幸村を大事にしたい、それは立派な義かもしれぬが、それだけでは致し方ない、言って良いことと悪いことがあるのだよ。幸村は――あれで存外幸せかもしれぬではないか。
一息で言い切った俺を、兼続は目を丸くして見ていた。「聞いてくれるか、三成」いつもあれだけくっちゃべっておきながら、何を今更改まって。
分かっているのだ、兼続は繰り返す。義でも愛でも語れないものが世の中にはあるということを私は知っている気がするのだ。政宗と幸村に口を出す資格がないことも承知の上で、それでも私は政宗に聞きたかったのだ。本当は反対する気などない。他人がどうこう言えることではないからな。だが三成、お前には聞いて欲しい。
何故だ、何故俺に言う。
「これは私の愚痴だ。義も愛もない。だが私と幸村を微笑ましく思うと言ってくれた。そんなお前になら、話したいと思った」


謙信公は私にとって偉大すぎて、彼の人を語ることすら私には出来ぬ。だが一つだけ、家臣として言ってはならぬことを一つだけいうのであれば、あのお方は。
一瞬口を閉ざした兼続の言いたいことが俺には手に取るように分かった。未だに上杉の中ではタブーになっている出来事。謙信亡き後の家督争い。
口には出さなかったが僅かに頷いた俺を見て、兼続は安心したように息を吐き出した。俺だって、兼続の口からわざわざそんなことを語らせたくはない。「そんなことがあった所為だろうか、私は当然のようにこう思っていた」一拍の間の後、兼続は続けた。
「後継を育てることは義務だ、我々の。産ませることは勿論、その子を守り育てていくことは、我々の大事な仕事だと」
そう言ったらお船に殴られた。それも酷く。兼続の傍にそっと立つ控えめな女性の姿を思い浮かべ、俺は思わず兼続の顔をまじまじと見た。すごいいいパンチでな、さすがは私の妻だと実は惚れ直した。それで泣きながら言うのだよ、そんなくだらない事の為に私の腹を使ってくれるなと。
後で分かったのだが、その時お船は既に懐妊していた。
いいのか?そんな状態で殴らせて良いのか?いや、お前は奥方に付いていてあげた方が良いのではないか?こんなところで何をふらふら政宗にケンカを売っているのだ。
「近くにいたらいたで邪魔だからどっかに行けと言われてな。亭主元気で留守が良いというのは強ち間違ってもいないようだ」覚えておくといい、三成、今後の為に。家長だ何だと言っても、家に一歩入ればそんなものだ。それにお腹の子も順調だ。なあ、自分の子が妻の腹の中にいるということがどんなことか、知っているか三成。もう腹を蹴るのだ。凄いとは思わぬか?お船は、私でもお船でもない何かを生もうとしているのだよ。そう気付いて感動の余り鳥肌が立った。と同時に怖くなった。急にお船が見知らぬ人間に見えてな。思わず聞いた。怖くはないのか、と。
「それで…奥方はどう言ったのだ。不快に思われなかったのか?」
お船は見事だった。そりゃ怖いに決まってます、と澄ました顔で言うのだよ。母は強いなんて言いますけど、始めにそう仰った方は、それはそれは横暴で甲斐性なしな世間知らずの旦那様か、所帯の一つも持てない夢見がちな青二才でしょうね、何て言って笑うのだ。貴方のことだけでも精一杯なのに、私はこれから貴方とこの子の心配をしなければならないなんて、ああ本当に不公平ですよ。強くなどなれる筈がない、怖いことだらけで。そう言われた時、私は心からお船と所帯を持って良かったと思った。お船のことは愛しているつもりだった。だがな、その怖いこととやらを見据えてそれでも笑う彼女を見て、私はずっとお船に甘えていたことを恥じた。お船はあんなにも私と、そしてまだ腹から出てきてすらいない我々の子を愛してくれていたのだ。
三成、分かるか?親になる喜びとか、愛し合う夫婦の喜びとか、そんな言葉では足りぬものをもう私の子供は教えてくれた。直江の家は続けさせた方が良いかもしれぬ。が、そういうことでは最早ないのだ。
「それで思った。幸村は」
ああ、兼続、頼むからそれ以上言うな。俺は何となく分かってしまった。子を産み育てる喜び。「それを幸村は知らずに」俺は女ではない、妻帯もしておらぬから分からぬ。だが人並みに憧れているとは言えよう。「政宗はそれでも良いと言い切ったのだ」面倒臭い。何故好きになるだけで物事は終わらぬのだ。子を成さなければ駄目なのか?意味がないのか?「だが奴は伊達家を存続させる義務があるだろう?幸村はどうなるのだ、幸村だって」
「もう黙れ、兼続!」
立ち上がり兼続を一喝する。苛々と弄んでいた扇子が指の隙間から零れ落ちて、それが合図だったかのように俺は頭を覆って再び座り込んだ。
「頼むから――黙れ、かねつぐ」
情けない。だが、こんな泣き方ではない。顔を覆って、それでも声一つ上げずじっと涙を流していたあの方は。それを。それをどんな理由であれ、貴様が勝手に語ることは、許さん。


覚えている。薄明かりに浮かび上がったその姿は何にもまして恐ろしかった。俺は本当に只の餓鬼で、寝付けないことを理由に臆面も無く甘えに行けるほど子供だった。俺はその時、はじめて人が泣いている姿を見たのだ。両手で顔を覆って涙を流しながら、それでも彼女の口は笑っていた。内臓しか入っていない筈の己の腹を撫でながら。
彼女が顔を上げた時、俺は見ていたことがばれたと思って知らず一歩後ずさった。だが違った。彼女は濡れた手拭いをおもむろに目に宛がったのだ。「目が腫れたら困るから」ぽつりと呟いたのは恐らく、今晩はもう泣くのは終わりだ、そう自分に言い聞かせる為だったのだろう。そうだ、毎朝俺達を起こしに来るあの方の瞼が腫れていたことなど一度も無かった。ああ、ずっと彼女はそうやって一人の時間を泣いて過ごして、それなのに、自分の為に思い切り泣くこともできないあの方が憐れだった。


「…ではそれをお前が語る資格はあるのか、三成。お前がそう思っていることはあのお方にとって」
「分かっている!…分かっている。もう俺には」
一人で泣くおねね様を思って俺が泣くのも、兼続の子ができたのを嬉しく思うのも、子のいない家の今後を憂うのも、正しいことなのかは分からぬ。だがそうせずには居れぬのだ。思い上がりだとしても。そういうなら兼続、お前の言うことだって。
「そうだ、思い上がりだ。だがそれの何が悪い?幸村に幸せになって欲しいと私が願うのはそんなにおかしなことか?周りの人に笑っていて欲しい、こんな単純な願いが何故こんなに形を変え刃になるのだ?私は、政宗にすら笑っていて欲しいと思う。幸村が、政宗を本気で慕うなら」
幸村が涙を流す可能性を少しでも潰しておきたくはないか?だが。
「その思い故に暴走しそうな自分を律する為に、お前を利用したことは謝る、三成」
「利用?」
お前ならそう叱ってくれると思った。幸村の幸せを理由に、何かしら全く別の問題を挙げそれを主張する私を、お前なら思い上がりだと罵ってくれると思った。今言ったことに嘘はない。が、私は心の奥底では自分が正しいと言うことも出来ぬのだよ。
謙信公も景勝様も、お船も…景虎様も、私には間違ってはいないのだから。
「私は、勝手だな」
俺は顔が上げられない。本当に勝手だ、貴様は。責められる為に俺を逆撫でしたのか。幸村の為に。「だから義も愛もないとはじめに言っただろう」兼続は俺が落とした扇子を拾い上げると、ぱちりと音を立ててそれを閉じた。政宗がな、言ったよ。…何だって?
「まだ起こってもいない問題にあれこれ悩む程暇ではないと。それどころではないんだと、幸村のことで頭がいっぱいだと。惚気られた、この私に政宗が、だぞ」
「…あいつ阿呆だな」
「ああ、そうだな」
だが、私は生まれてはじめてあの山犬が正しいと思ったよ。政宗がそんなこと分かっていない筈なかろう。しかし奴は阿呆に徹しきれるのだ、幸村の為であれば。幸村とは子は成せぬ?当然じゃ、幸村が女だったら儂が惚れていたかどうかも分からぬのじゃぞ、わざわざそんな馬鹿なことを言いに来たのか、貴様は。政宗は私から目も逸らさずにそう言い放ったのだ。
本当だ。私は、いや私達は。
「なあ、兼続。俺達は」
「ああ、馬鹿みたいだな、三成」
馬鹿みたい、ではなく、馬鹿だ、大馬鹿だ。誰に頼まれた訳でもないのに、勝手に自分の夢見る青臭い幸せを語って押し付けて、その癖幸村にも政宗にもそしておねね様にも、俺達が思いつかない凄い幸せがあると言って欲しがっているのだ。吃驚した。ケンカして泣くなんて何年ぶりだ。餓鬼の頃、正則にしこたま殴られて以来じゃないか。
「三成、誤魔化すな。ケンカして、じゃないだろう?おねね様のことを思ったからだろう?」
知るか、放っておけ。いいのだ、何があってもあの方は変わらぬ。ぐずぐず五月蝿い洟を啜り上げる。
天下人の正室、そんなものとは比べ物にならない価値を抱えてあの方は立っておられるのだよ。そんな風に勝手に美化されるのが気に入らないなんていうタマか、あの人が。きっと彼女はそれすら笑って受け入れて、俺の知らないところで泣くのだ。濡れた手拭い片手に。
「格好良いな、おねね様は」
ああ、そうだ。日の本一格好良いのだ、あの方は。強いしな。昨日もいい年こいて歩きながら物を食うなと説教されたし。それは叱られるだろう?兼続が言う。だが私はもっと格好良い人を知っているぞ。
「誰だそれは」
「言うまでもない、お船だ。お船はちょー格好良いぞ」
一生言ってろ。ああ、一生言ってるぞ。
「…政宗に聞いたら幸村と答えるのか?」
「そうだろうな、山犬ならそう言うな!で幸村は誰を挙げるのだ?」
――信玄公。一瞬の沈黙の後兼続と答えがかぶり、俺達は大笑いする。残念だったな、政宗、端から見たら俺達の方がまだ報われている感じがするぞ。…端から見たら?なんだ、端から見たら、幸せなんて絶対に分からないのだ。そうだった、言い忘れるところだった。
「良かったな、兼続」
「は?何がだ、三成」
「子が、産まれるのだろう、良かったな。おめでとう」
娘だったらお前に嫁にやっても良いかもな!兼続が、いつもの調子で朗々とそう叫ぶ。遠慮する。残念ながら俺はロリコンではないのだよ。何を言う、三成!子は育つのだぞ。重ねた年月分、子供も私も幸村も山犬も、そして三成も育って変わっていくのだぞ。


「あの、三成殿、今宜しいでしょうか?」
障子の外から遠慮がちに掛けられた声は幸村のもの。俺は兼続を目を合わせ、含み笑いをすると幸村を部屋に招き入れた。散々はらはらさせてくれたからな、もう今日は仕事は止めだ。幸村がもうやめてと泣いて頼むまで、政宗との話を聞きだしてやろう。勝手にお前を心配した挙句の更に勝手な腹いせだ。
兼続も同じことを考えたのだろう、何だ、こんなところに来て政宗に叱られるぞ!と大声で早速揶揄い出した。「いえ、そんな政宗どのは叱りなど」もごもごと答える幸村、大丈夫か?だがそんな顔をしても容赦せんぞ。
「そうだ、幸村。幸村は誰が天下で一番格好良いと思う?」
兼続の質問に、眉を寄せて本気で考え。あれこれ逡巡した後、幸村が小さな声でこう言った。
「あの、一人に絞らなくてはいけませんか?」
聞いたか、政宗。何だかんだでお前も報われているぞ、良かったな。「政宗どのとは言ってないじゃないですか!」幸村の悲鳴のような声を聞きつけて此方に向かってくる軽い足音が聞こえたのだが、俺はわざと聞こえない振りをして、幸村しか見えていない幸せな阿呆が障子を思い切り開けるのを待った。




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あれこれ悩むのは周囲ばかりで、本人案外幸せだったりするものです。逆もあるけど、できればそうであって欲しいなあ。
おねね様は、あとでフォロー致す所存にて!(できたらいいなあ)
(08/07/16)