梵天丸は賢い子供だった。
物心ついた時には、仕事で忙しい両親は殆ど家におらず。梵天丸は、例えば保育所や近所の家に預けられ、または自分の家でも親以外の、面倒を見てくれる誰かに育てられた。結果、自ずと最低限のことは自分でできるようになったし、それで全く構わないと思っていた。
両親が、自分の為に忙しく働いていることは(それだけが彼らの働く理由でないことも勿論分かっていたが)感謝すべきことであったし、そうでなくても偶に会える両親は梵天丸にしっかり愛情を注いでくれていることも分かっている。
愛されていると自覚できることは大切なことだと自分は知っているではないか。
そう、梵天丸は、本当に賢い子供だったので、両親への愛情もあるいはそれ以外の感情すらも既に、理解、してしまっていたのだった。


弁丸は面白いようにくるくる表情が変わる、と皆が言う。梵天丸はそう言う周りの人間が不思議でならない。確かに弁丸はすぐに泣くし、かと思えばもう笑い声を上げていることも稀ではない。だがその間は。
弁丸は時折何処かに何かを置いてきてしまったような途方に暮れた顔で虚空を見上げる。そしてそっと息を吐くのを梵天丸は知っている。
「どうした?」
何処か具合でも悪いのかと梵天丸が聞いても弁丸は首を振るだけだ。それでもしつこく尋ねると「このあたりが、ぎゅーっとなるのです」小さな掌で胸を押さえて小さな声で答える。
「あ、でもだいじょうぶなのです。だいじょうぶなほうほうを、べんまるはしっているのです」
「ほう、どうするのだ?」
ないしょですと後ろめたそうに口を押さえる弁丸に、それでも食い下がったのは単純な好奇心からだ。屈託ないなどと言われている弁丸の秘密が知りたかっただけだ。
だが、帰ってきた答えに梵天丸は言葉を失った。
「…は、ははうえさまのことを、およびするのです」
弁丸は、母の顔を知らない。面白半分に聞いていいことではなかったと梵天丸は後悔した。
「そうすると、げんきになるの、です…」
母親を呼ぶ言葉は、もう既に母という存在から離れて、弁丸の中で全く別の例えば聖域の様なものになっているのだろう。それは分かるのだ。弁丸にとって多分大事なことなのだ。しかしそれは弁丸がずっと寂しさに耐えてきた象徴のようで。
「およびすると、ぎゅーってなっていたのが、ふわふわなってだいじょうぶになるのです。そうするとたのしくなるのです、だからだいじょうぶです」
大丈夫、大丈夫と必要以上に繰り返す弁丸が痛々しい。と同時に、自分の寂しさすら上手く説明できない弁丸に苛々も募る。
「目の前におらぬ者を呼んでも意味ないではないか…」
「いみが、ございませんか?だいじょうぶになりますよ?」
「…大丈夫になどなるか。傍にいてくれと言うても、その相手がおらねば仕様がないのじゃぞ」
弁丸の真黒な眸がじっと梵天丸を見詰めた。おさみしいのでしょう?そう尋ねる弁丸から目が逸らせない。
「ならばべんまるは、ずっとぼんてんまるどのの、おそばにおります」
何故そうなる。誰も寂しいなぞとは言うておらぬではないか。だが弁丸は、そばにおります、と繰り返すのみだ。
「…馬鹿め。夕方になれば家に帰らねばならぬ。ずっとという訳にはいかぬのだ」
弁丸が首を傾げる。少し難しかったか。でもこれは本当のことだ。ずっと共に居るなど、在り得ぬ事だと分かっている。
何だか気持ちが悪い。儂がこれほど必死になる必要が何処にある?弁丸を諭さずとも、口先だけでそうだと答えれば彼は満足する、そんなこと知っているではないか。
「でも、またあした、あえまする。あしたのゆうがたになったら、そのあしたのあしたも。ええと、そのあしたのあしたのあした?」指を折って「あした」を数える弁丸が立ち上がって叫ぶ。
「べんまるが、あいにきます。だいじょうぶです!やくそくをまもらないと、したをぬかれるのです!ずっとおそばにおりまする。だからあしたもさみしくないです」
真剣な顔でそう言って土だらけの手で梵天丸の手を取る弁丸。
会えるから寂しくないなどということがあるか。明日会えると思っても、今日と明日の間には、梵天丸にとって膨大な時間が横たわっているのだ。第一お主はずっと会えぬ人を呼び続けているではないか。ああ、でも。
そんなことは差し引いても、それはとても魅力的な試みに思えたし、懸命に話す弁丸がおかしかったし。
自分は気持ち悪いのではなかった。どきどきしているのだ。何で自分がこんなにどきどきしているのか分からないのだけど。
「さすれば、べんまるもさみしくなどありませぬ!」
それが本当なのか、ただの勢いで飛び出した言葉かは分からない。でも、自分がいれば寂しくないなどと言ってくれる存在がいることはとても凄いことで、このどきどきはそんな凄いことを知ったからで、いやそれだけではないような気もするのだけど。分からない、自分が泣きたいのか笑いたいのかさえも。
ああ、そうだ、これだけは言わなければ。
「ならば儂もずっと弁丸と共にいてやる。だから」
もう寂しいなどとは、言うな。


「という訳だ。だから餓鬼の頃とはいえ、儂を先に口説いたのは弁丸じゃぞ」
幸村との馴れ初めを聞かれ、得意げに話し終えた政宗だったが、肝心の幸村の反応が芳しくない。俯いたままの幸村の顔を覗き込むと突然謝られた。
「も、申し訳ございません、政宗どの!」
「何じゃ、幸村」
「全く身に覚えがございません!」
「………まぁ良いわ、昔の話じゃ。忘れてしまっても致し方あるまい」
ただ、今の今までこの思い出を大事にとっておいた自分が少し阿呆みたいだがな。
本当に申し訳ない!と頭を下げる幸村に、却って傷を抉られる様な気がする政宗である。
「美しい思い出を汚すことになったら申し訳ないのだが」ちっとも申し訳ないと思ってない顔で三成が進み出た。
「あの頃、貴様が幸村を追い回していた原因はそれか?」
「は?追い回す?」
怪訝な顔をした政宗に、今度は兼続が言葉を紡ぐ。
「何だ、覚えてないのか、山犬!
 『ずっと傍に居ると言ったのをもう忘れたか、弁丸!』と叫びながら毎日犬の様に幸村の後を追いかけていただろう?
 覚えていないのか?!全く人間、都合のいいことしか覚えていないものだな!」
…ちょっと待て。そう、確か弁丸がずっと一緒にいますと宣言した次の日。儂は弁丸が家に来るのをうきうきそわそわ待って…待って…。
「……………幸村」
「はい、何でしょう、政宗どの?」
「…何故、いきなり次の日、儂に会いに来なかったのじゃ…?」
目が据わり掛けた政宗には気付かぬのか、それとも慣れているのか、幸村がしれっと答えた。
「ええと、忘れてしまったか、あるいは面倒臭かった、のではないでしょうか?」
「なっ!幸村!お主、何だその言い草は!」
「そんなこと言われましても、知らないものは知らないです!」
突如隣で始まったじゃれ合いに三成は慌てて二人を止めようと試みたが、暫くぼんやりその様子を眺めた後、嘆息しながら兼続の許へ戻ってきた。
「良いのか、止めなくて」
「もう良いではないか、あれはあれで幸せそうなのだから」
「石田三成らしくないことを言う」
「どういう意味だ」
「言ってみたかっただけだ」
政宗と幸村のじゃれ合いも困るが、兼続の相手はもっと訳が分からない、と三成は疲れ切った顔で空を見上げた。暮れかけた空には一筋飛行機雲が浮かんでいて。
明日もいい天気になりそうだった。




6〜8月半ばまでの拍手話でした。
確か弁丸の裏設定をぼんやり出そうと思った…んだっけかな…。うん。
子供の見てる世界が変わる瞬間みたいなものに夢を見ていました。まだ見ています。

子供話ではないですが、対のお話はこっち。