「あの奥羽の鬼姫がな。見るか、この腑抜けた文面」
枕にしている幸村の膝に手を乗せて、笑みを浮かべながらもう片方の手で書状をひらひらさせると、幸村は遠慮もせずにどれどれ、と覗き込む。
「全然腑抜けてませんよ?」
「末尾に儂の体調を気遣う言葉が付いておるぞ。何かの嫌味か」
許すには七面倒臭い手順が要る。小田原に遅参し太閤の不興を買った時より、ずっと手間のかかる作業が要る、そういうことだ。
母上も政宗様も許しませぬ、そう言って泣いていた弁丸はあれから数年経って元服し、幸村と名乗るようになった。「弁丸、いえ幸村殿が元服してもお構いなしですか」小十郎にそう嫌味を言われるほど政宗は相変わらず幸村を傍から離さない。家中でも半ばそういうことになってはいるが、実は天地神明に誓って政宗が幸村に手を出したことはない、未だ。
「あんな餓鬼の時分から育てて育てて、力尽くで手篭めにする訳でもなし。儂って結構一途だと思わぬか」
「思いません」
子供にとって母親なんて世界より大きな存在で、それから弾かれたら駄目なのだ、価値はないのだと卑屈になっていた時期のなんと長かったことか。
気がついたら母にも、そして自分自身で勝手に付けた己の価値にも関係なく世の中は普通に流れていて、馬鹿馬鹿しくなって寂しくなった。自分の言動に一喜一憂してくれる弱い生き物を飼いたいと思った。
恐らくは、あの頃の母もそんな気分だったのだろう。確かめようとは思わぬが。
「手紙、仕舞っておきましょうか?」
「そんなものは放っておけ」
その弱い筈の生き物は見事に政宗の味方になり、母を厭う権利があることを教えてくれた。
母を無邪気に慕うことは恐らく二度と無いが、勝手に嫌った挙句更に勝手に感謝し大事にすることは出来る。そう思って正面から見据えた彼女は、世間一般に言う母親としてはさておき、なかなか魅力的な人でやはり、嬉しくなった。
「何だ、そっくりじゃないですか」政宗の母をはじめて見た幸村は、気が抜けたようにそう言った。小声のつもりだったのだろうが、その声は地獄耳を持つ親子の耳にしっかり届き、「わらわはこんな無鉄砲の馬鹿ではないぞ。第一、目が二つしっかりついておる」「お主の目は節穴か、よく見ろ幸村。所詮地を這う鬼姫と天駆ける竜では格が違うわ」と二方向から突っ込まれ少し泣きそうになっていた。
最上に身を寄せる彼女は、思い出したように政宗に手紙を認める。歯に衣着せぬ彼女の言葉に、やはり息子として愛されている訳ではないと思い知る。だがそれでいい。息子だろうが何だろうが、己に良く似たあの手前勝手な女が、わざわざ筆を取るくらいには自分のことを思っているということだ。
子であるのだから愛情を寄越せと喚いていた自分は何と愚かだったのだろうと思う。そんなもの、何の旨味もないカスのような愛情だ。強制でも必然でもない、続くかどうかすら分からぬ愛情、それに心を砕く方が余程面白い。
「始まってもないのに続くかどうか分からぬとは不実過ぎますよ」
そういう意味ではなくて、と言ったら、はいはい分かっておりますと額を軽く叩かれた。
恐らくは政宗にも説明できぬ色々な手順を幸村なりに踏んだのだろう、柔らかい笑みはそのままだが、あの頃に比べ反応は随分早くなったように思う。
「昔の方が可愛げがあった」
そんな冗談も気にせず言える。少し前、幸村が真面目な顔で手篭めになさるんでしたらあの時期が最適でしたのにと打ち明けてくれた。
「政宗様に捨てられぬ為ならと、身体くらい簡単に差し出してましたよ」
あー畜生、と本気で落ち込む振りをする政宗に畳み掛けるように幸村は続けた。
「慕って恨んでばらばらになって捨てられたか逃げたか。どちらにしても野垂れ死にですね」
あの頃は政宗様が恐ろしゅうございました。そうだ、その時も幸村の膝枕で寛いでいた。ぞっとする内容を話しながらも、ゆっくり髪や、右目を覆う布の上を撫でる手は優しかった。
「うっかり好きだと申し上げたら手足をもぎ取られ、これでも好きか?と聞かれそうで」
そして私はそれでも好きだと答えそうで。
なあ、今はどうじゃ?いきなり身体を起こし正座して詰め寄った政宗に、幸村がにじりながら後ずさった。
「今も怖いか?」
「いえ、怖くは」
大事にする、大事にするから好きだと言うてくれぬか?
尚も逃げようとする幸村の腕を掴んだら、頬に赤が差したのがわかった。よし、あと一押しじゃ。昔から幸村は押しには弱い、これだけは幾つになっても変わらぬ。「す」という言葉を形作ろうとするように唇が動いた気がしたのだが。
「ぼーんー!梵!お、ここに居たのか」
小十郎が探してたぞ、何だ逢引中か仕方ねえなあ。唖然とする政宗と固まったまま動けない幸村に、さして気にした風もなく爽やかにそう告げた成実は「じゃ小十郎には黙っててやるからなー、頑張れよ」という台詞と共に再び襖を閉めた。
途端に額を畳に擦り付けて泣き濡れる政宗。幸村がさも慌てた声で「今はそうやって私の前で甘えてくださるところが」と言ったのが微かに耳に入ったが、さすがにここで飛びつくのは格好悪すぎる。嫌われとる訳ではない、機会はまだある筈じゃと自分に言い聞かせ、それは聞こえない振りをした。
あれから全然、そんな機会には恵まれていない。いい加減、子供の頃捨てた筈の神に祈りたくもなる。
「でも今思うと嬉しかったのですよ。私が自分自身の好きなものも嫌いなものも勝手に決められるということが」
もしやチャンス到来か。そう思って慌てて姿勢を正した政宗に、幸村が笑いかけた。
「私の価値を決めるのは、私です。でもあなたはそれを教えてくださった」
そんなに畏まって聞かないでください。
政宗の隣にそっと回りこむと、かつてそうしたように幸村が政宗に寄り掛かる。まるで子供のように足を投げ出して。
重くなった、と思った。
確かにあの時はほんの小さな子供だったが、重くなったのは多分それだけではあるまい。
なあ、全力で寄り掛かっても支えるし、支えきれぬ時は一緒に倒れてもやる、痛いこととか辛いこととか全部は無理でも出来る限り守ってもやる、儂だけの味方になんてならずとも良いから。
「そろそろ儂のものになってくれぬか?」
私は、政宗様のことが好きだとか一緒に居たいとか、きちんと自分で決めましたよ。あとはご自分で決めてくださいませ。
余裕たっぷりの笑みを浮かべた癖に、政宗の膝の上に乗せられた幸村の掌は細かく震えていて、やっぱり多少痛いのは仕方がない許してくれと、政宗は抗議の声を上げる幸村の身体を思い切り抱き寄せたのだった。
結局らぶらぶオチです。
(08/10/16)