ああ、恐ろしい。このように片目が潰れた醜いモノなどわらわの子ではない。
 
そう言いながらも母が自分から目を逸らすことはなかった。庇護されて当然であるべき存在の重さや、行く行くは伊達家を背負って立つ嫡男であると言う立場、それ以外の諸々、自分の裡にあった数多の価値。
それを隻眼という突如降って湧いた唯一つの要素でもって塗り替えて、梵天丸の何もかもを否定してみせた彼女は、まるで昼の光の中で見る世界のように正しいものに見えた。
 
 
 
その瞬間から、自分は己に向けられる悪意の処理の仕方を忘れてしまったのだと思う。
 
 
 
 
 
昔、弁丸に、母は好きか?と尋ねたことがある。好きだったか?と過去形にした方がいいかと一瞬迷ったが、さしたる問題ではないとすぐに思い直した。
 
 
 
弁丸は政宗の質問を何度も何度も聞き返した。
「ははうえさまを?」「ああ、好きか?」「べんまるの、ははうえさまのことでございますよね?」
真剣な顔で眉間に皴を寄せる弁丸は、政宗の質問が本当に分かっていないようだった。例えば「自分を生んだだけの女の事か」と悪し様に罵ることも出来ぬのだな、と改めて思う。親に捨てられるような悪い子供に、親を罵るなどという大それたことが出来る筈もない。そんな権利は無い。
そんな弁丸の言い分は自分にも覚えがある。それこそ母が好きだなんて、親があっさり見離す程価値のない子供である自分が間違っても言える台詞ではない。おこがましすぎる。
 
「母上は分かるな。好きという気持ちも分かるだろう?」
 
分からぬのは、その二つがこの世の中で繋がることがあること、自分がそれを考えても許されるかどうか、なのだろう?
 
弁丸が急に足に縋り付いてきた。
「…すきです」
「そうじゃ、それでいい。分からぬことは隠してしまえ」
 
そんな残酷な遣り取りの結果、政宗と弁丸は互いが持つ母への思慕をずたずたに切り裂いた共犯者になった。気晴らしになるかと思ってしたその行為が、思いの外自分を憂鬱にさせたことに気付き、共犯者の次は一体どうなるのだと思ったら、弁丸を拾ったことを後悔した。政宗が弁丸のことで後悔したのは、後にも先にもこの件だけだ。
分からぬことは捨ててしまえ。その代わり、自分を好きになってはくれぬか。
もしもそう伝えていたら、今頃は色々なことがもっとずっと上手くいっていたような気がするが、それも政宗の気のせいに過ぎぬのかもしれぬ。
 
 
 
 
 
政宗が忙しいのを見て取ると、弁丸は城の隅で虫を捕まえたり土を弄ったりして遊ぶ。こういうところはきちんと子供らしく、いつの間にか目立たない、そして満足できる遊び場を見つけるのが弁丸は上手い。
ただこれに関しては大概の子供は上手くやってのけるもので、「殿の寵愛を受けている」という実しやかな噂のおかげで弁丸が一人遊びをし難くなったのは事実のようだ。
大人の目を巧みに盗んで背中に付けられた青い痣を見て、政宗は恐らくは少し年長の餓鬼にやられたのだろうと目星をつけた。勿論、弁丸に代わって仕返しをするなぞ、馬鹿馬鹿しくて冗談ではない。ただ着物を破かれたことを隠し切れなかった弁丸が、下を向いてさも申し訳なさそうに「弁丸が悪いのです」と言った時にはぞっとした。
 
「政宗様がおよびでしたのに、弁丸は気付かず遊んでおりましたゆえ」
 
違う。
暫く固まっていた政宗だが、辛うじて声を振り絞ると弁丸の肩を掴んだ。世の中の大概のことに、本当は理由などないのじゃ、そう叫びたかった。
 
偶々弁丸が遊んでいた所に、彼を快く思わない連中が来た。偶々周りに誰も居なかった。偶々殴られたか突き飛ばされたか、兎に角怪我をし、着物が破れた。その頃偶々政宗が弁丸を探していた。
政宗は弁丸を探すという目的を誰にも告げずに城の中をぶらぶらしていただけなのに、何故頭の足りぬ餓鬼がそれを咎めて弁丸を殴れるというのだ。呼ばれていたのに気付かなかったという落ち度は、弁丸が自らに勝手に科したものに過ぎない。だから殴られたって仕様がないと言い訳をする。
こ奴はまだ楽になれる理由を欲しがっている。
 
罰とか因果応報とか、よくもまあ人は上手いことを考えるものだと政宗は思う。
その日弁丸が殴られたのは偶然だ。しかし弁丸の中の本能がその偶然を許せないのだろう。避けられ、逃げられぬ災厄。これがもしも運不運で全て語られたらどうなる、そんな不安定な世界が歓迎されるものか。万海の生まれ変わり、人でなしの力の証としての隻眼。母の愛を受けられなかったのは、伊達家の嫡男として生まれた自分への試練だとかつては本気で思い言い訳をしていた。
そんな訳があるか。疱瘡にかかったのも、命の代わりに右目を失ったのも、そもそもあの母の子として生まれたのも全ては偶然だ。弁丸にも自分にも何一つ落ち度は無い。
 
 
 
「いつかお主に理由を教えてやると言ったな」
 
教えてやろう、殴られるのも捨てられるのも、お主の感情の元になる全てのもの、それには理由なんてない。全て偶然だ。
咎も無いのにそういう目に遭う者がいて、それがお前だっただけだ。
 
真っ青な顔で政宗を見上げる弁丸の心が手に取るように分かる。
悪い子だったから捨てられたのだと信じていたのに。政宗の言うことを聞く良い子であれば、ここにいる理由が出来ると思ったのに。いや、本当はそれにすら納得がいかなかったけど。
まさか、世の中はそんなに理不尽なものではないと信じていたかったのに。
 
「理不尽なのじゃ。お主如きでは太刀打ちできぬくらい、理不尽なのじゃ」
 
だからこそ、己に向けられた悪意には悪意で返す権利が生まれる。だがそれは逆も同様に。
 
「ですが、知りとうございませんでした」
 
自分だけが取るに足らぬものだと信じておりましたのに、皆がそうであったなんて。
憎いか?と尋ねたら、真っ黒な眸が大きく見開かれた。もう少しだ。ついでに教えてやろう、お主を拾ったのは。
「私が犬や猫ではなかった。政宗様はそう仰ったではないですか、あなたがそう言ってくださったから」私は母を恨まないで済んだ――彼女が私をこの形に産み落としてくれなければ、今頃この暮らしはないのだと。
 
「馬鹿め。そんな理由があるか、貴様は代用品じゃ」
 
醜くなったからと背を向けた母が憎くて憎くて堪らなかった。母を憎めば世の全てを憎まねばならぬと思い込み、憎むことすら許されぬと勝手に自らを律した。そのくらい自分にとって彼女は正しい人であり、そうでなくてはならなかった。
母が自分にしたのと同じ仕打ちを弁丸にやってみせ、更にはかつての自分が切望した愛情を分けてあげたいと思った。
 
「所詮親に捨てられるような儂には、まともな味方など居らぬ。だが捨てられた者同士ならば、そう思って拾ったのじゃ」
 
それでも完全な寄る辺が欲しかった。お前がそうであってくれたから、やっと自分は完全に母を憎むことが出来たのだ、早く気付いてくれ。
そなたには親も儂も、この世の全ての人を憎み許す権利があるのだぞ。
 
祈るような気持ちで再び、憎いか?と尋ねたら、弁丸は此方を睨みつけ、ようやっと小さく頷いた。
 
 
 
 
 
実家である最上に身を寄せていた母から自分宛の書状が届いたのはその翌日で、何の因果かという言葉が脳裏を掠めたが、すぐに無理矢理苦笑に変えた。因果も何もない。それすら只の偶然で、つまりよく出来た偶然は時に何よりも恐ろしいということだ。
 
 
 
戯れとはいえ拾った責任やその境遇、そんなものを差し置いても弁丸が傍にいる限り、自分は弁丸を守ろうと思った。

 

 

 

も少し、続きます。
(08/10/11)